Monday 15 March 2010

40.スリナガルへの道

 僕たちはゾジ・ラを車で走らせる。峠はところどころ雪景色で、風も強く外気温はかなり低い。道は解け始めた雪の影響でぬかるみのダートコースだ。ところどころでぬかるみにはまり込んで動けなくなった車がいる。その時ビッグヒップが動いた。助手席から体を右に傾けるとジミーに猫なで声で話しかけ始めた。
「あなたの目ってとっても素敵よ。ねぇ、こっちを見て笑ってちょうだい。」
 僕らは耳を疑った。車内の空気が一気に凍り付いた。僕はこれはまずいと思ったので割って入る。
「あれー、もう気分いいみたいだねぇ。体の調子は良くなったんだ。」
 ビッグヒップは助手席に座ったとたんに、吐き気も無くなったのでおかしいと思っていたのだが、どうやらあれは演技だったようだ。そんな僕の言葉を無視してビッグヒップはジミーに一方的に話しかける。まるで豚の機関銃だ。
「ねぇ、携帯の番号を教えてよ。ねぇ、今日はあなただけ私の家に泊まっていかない。ねぇ、あなたってとてもいかすわ。」
 僕の右側に座っているクルスンにおそるおそる目をやる。クルスンは小刻みに震えていた。あたりまえだ。奥さんの目の前で、旦那をどうどうと口説くやつが他にいるか。僕はビッグヒップが頭がおかしい事を悟った。ビッグヒップはその丸太のような足をダッシュボードの上に投げ出して、完全なリラックス状態となり、ジミーをずっと口説いている。僕は頭に来たので、
「おい、豚やろう。その口止めないと谷にたたき落とすぞ。」
 と怒鳴りながら、助手席の背もたれを思いっきり蹴り上げた。ビッグヒップはそんな僕の行動も何食わぬ顔で無視をして、ジミーを口説き続けている。狂ってる。僕はそう思った。ジミーもビッグヒップを無視して運転に徹している。ジミーのサングラスの奥の表情が何を考えているのか、ここらかでは伺い知る事ができない。

 ゾジ・ラを越えた時、空気が変わったと思った。湿気が感じられるようになったのだ。徐々に山道を下り始めると、ラダックでは見た事がないような緑が目の前に広がり始めた。スイス・アルプスまたはカナダのロッキー山脈にも似た風景の中に僕らは突入していく。緑きれいな針葉樹がまるでカーペットのように山々を包んでいた。僕らはその美しい森の中を進んでいく。一点を覗けば完璧だった。ビッグヒップがジミーを口説いている事を除けば。

 僕たちはいかれた状況の中しばらく車を進める。ソナマルグ村で休憩兼朝食をとる事にした。ティーショップに入り、朝食を食べる。僕とジミーは座った椅子からはみ出ているビッグヒップのケツを見て憂鬱になった。僕がジミーに言う。
「あの豚をここで降ろしていこう。クルスンが可哀想だ。」
 僕が道路に目を向けると、防爆用のマスクをかぶりロボコップのような姿をした軍人たちが、ジミーの車の下部を覗き込み、探知機で爆弾があるかどうかのチェックをしていた。僕はまたジミーに目を向けると、ジミーが言った。
「それはできない。ビッグヒップはいかれた爆弾だ。暴発しないようにそっとスリナガルまで送ってやるのが俺の仕事だ。」
 ジミーは朝食を食べ終えると落ち込んでいるクルスンを店の脇に連れて行き、心配ないという事を言い聞かせている。僕たちは車に乗り込む。ビッグヒップがまた助手席に座ろうとしていたので、僕はビッグヒップを引きずりおろし、後ろの席に押し込めた。そして助手席には僕が座る。僕たちの車はスリナガルに向けて出発した。

Sonamarg village

ソナマルグ村。
スイス・アルプスのような風景。


Sonamarg village

ソナマルグ村。
ティーショップの前の風景。


 ジミーはここからが速かった。とんでもないスピードで車を進める。僕の時間と距離の概念を吹っ飛ばしてくれた。スリナガル手前のビッグヒップの家にあっという間に到着した。そこでビッグヒップを降ろすと、僕たちはすぐに出発した。

 標高はだいぶ低くなっている。まるで日本の信州のような光景が広がる。日本から目隠しをされてここでおろされても、日本の信州だと勘違いしてしまうほどの光景が続く。緊張がとれてジミーはさすがに疲れたのか、道路沿いの河原で休憩をする事にした。ジミーは川の水を使って洗車をする。

Sind river

河原にて。
正式名称、シンド・リバー。
日本の信州のような風景が広がる。


 クルスンとラジーは木陰で休んでいる。クルスンの子供のアクタルは水辺で遊んでいる。ぼくはアクタルの様子をぼんやり見ている。アクタルがもっと遠くに行こうとするとクルスンが
「そんなに遠くにいっちゃだめよ。」
 と声をかける。僕はアクタルがそれでも遠くに行こうとしているので、アクタルのそばについていてやる事にした。彼は左手で川の水をすくって右手にかけている。何度も何度もかけている。僕を見てポツリと言う。
「僕の腕、動くようになるかな?」
 麻痺している右手は水でずぶ濡れになっていた。
「大丈夫。動くようになるよ。」
 僕はアクタルにそう言うとにこりと笑いかける。

Sind river

木陰で休憩している羊たち。

 僕たちは休憩を終えると車に乗り込みスリナガルに向かった。完全に標高が低くなりスリナガルへの道は東南アジアのような水田地帯が広がっていた。このゾジ・ラからスリナガルへの道は、スイス・アルプス、日本の信州、そして東南アジア、これらの風景が連続して繋がっている本当に美しい光景だった。ラダックの人々の避暑地になっている事は充分うなずけた。

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