2014年7月24日木曜日

2014年7月21日月曜日

28.スリナガルにて。

僕はある用事でスリナガルに来ている。ついでなのでこのスリナガルについて少し語ろうかと思う。スリナガルはインドがイギリスの植民地だった頃より、イギリス人たちの避暑地としてその名を轟かせており、今でもカシミーリの間ではインドの中の天国と呼ぶ者は多い。1947年にインドがイギリスから独立を勝ち取った後も、1980年代までは諸外国からの観光客が数多く、避暑地としてのこの地を訪れていて、東洋のスイスと呼ばれていたのはあまりにも有名な話だ。1990年代に入るとカシミールの分離独立運動が活発化してきて、そこにパキスタンから独立支持派の侵入などが相次ぐと、スリナガルの治安は悪化していき、外国からの観光客は当然激減してゆく。そのような状態が2000年代の初頭まで続くと、その最中インド・パキスタンとの紛争もあり、今まで観光業に頼っていたスリナガルの経済も悪化の一歩を辿ってゆく。自然とカシミールの伝統的文化への回帰が始まり、そこでカシミア、パシミナ、サフラン、カシミール絨毯、カシミール家具、その他のカシミールの工芸品などが見直されるようになる。そして2010年代になると観光客が徐々に戻ってきて、地場産業も活性化しつつあるが、いまだ経済は1980年代黄金期の水準には至っていない。しかしながら近年スリナガルでは、散発的なストライキは見られるものの、それらは大規模な暴動には発展しておらず、そんな意味では治安状態も安定してきていると言える。


27.ヘミス・フェスティバルとゴツァン・ゴンパ。

また僕はダンマ・ハウスに滞在しているわけだが、この七月の初旬はチョグラムサルでのダライ・ラマによるカラーチャクラ・ティーチングがあるので、ダンマ・ハウスは外国人観光客と外国籍のお坊さんとであふれていた。そこで一番親しくなったのは、イスラエル人のロイで、彼は壊れやすく繊細な心の持ち主のとても優しい男なので、かの国では生き難いのではないかと心配になったりする。よく彼がダンマ・ハウスのテラスに座り、ギターを抱え、ボサノバを爪弾いている姿を良く見かけた。それはアントニオ・カルロス・ジョビンだったり、ジルベルト・ジルだったりした。二番目に親しくなったのは、日本人カメラマンの方で名前は失念したので、カメラマンさんとお呼びすることにする。彼はレーでタイのお坊さんからこのダンマ・ハウスの事を聞き、また日本では僕のブログを通してダンマ・ハウスの事を知っていたので、ここにお世話になりに来たと言う。もちろんダンマ・ハウスのスタッフ一同は大歓迎だ。そして僕は彼から前項でも書いたスクルブチャン村の五体倒置の話を聞き、涙が出るほど感動したと言っていたのがとても印象的だった。

ダライ・ラマのティーチングを数日聞いた後、ヘミス・フェスティバルの行きの話が出たので、それに参加することにした。だから僕とロイとカメラマンさんはワンボックスのタクシーに揺られ、インダス川沿いを、ヘミスに向かい走っている。レー・マナリ・ハイウェイの左に向かうとパンゴン・ツォ、右に向かうとマナリへ行くところにある分岐の村より道を外れて、インダス川を渡りヘミスに向かう。ヘミスへ向かうなだらかな高原は千畳敷の丘陵となっていて、そこからインダス川対岸のヒマラヤの山々が良く見える。


26.スクルブチャン・ゴンパ。

アチナタン村出身のダンマ・フレンドの計らいで、僕はスクルブチャン・ゴンパに行くことになった。オンボロバスはレーの街を出発するとレー・スリナガル・ハイウェイをひたすら走る。途中の分岐点でハイウェイは橋を渡るとラマユル方面へ、橋を渡らずにインダス川沿いに進むとダー・ハヌー方面に出る。バスは橋を渡らずにダー・ハヌー方面へ行く途中にあるスクルブチャン・ゴンパに向かう。左側にインダス川を見ながら徐々に標高を下げていく。インダス川沿いの狭い土地の緑に覆われている場所はすべて村である。ドンカルからスクルブチャン、アチナタン、サンジャク、ダー・ハヌー、ガルクンなどのこのエリアは、あと一月半もすれば果汁をたっぷり含んだオレンジ色の実で木々は被われ、村の中は熟したアンズの甘い香りに包まれる。そうなると晩夏と初秋はアンズ狩りの季節になる。今の時期、今年はどこの村にアンズ狩りに行こうかとワクワクしているラダッキたちがたくさんいるし、僕もその一人だ。

25.ザンスカール・パドゥムでのダライ・ラマによるティーチングとその他のエピソード。

開門された朝のポタン・ゴンパには、すでにたくさんの人が集まっていた。外国人用のスペースには昨日よりも多い50人ほどが来ており、その中には日本人が4人と、高い占有率を占めていた。そして今度新たに知り合いになった日本人は、しんのすけ君といい、明治大学を一年休学して、沢木耕太郎の深夜特急さながらのルートをたどり、日本からポルトガルまでを陸路での走破の途中だという事だ。もちろん彼のバックパックの中にはその深夜特急が全巻入っている。

24.ザンスカール・パドゥムでのダライ・ラマのティーチング一日目。

さて朝の五時にもぞもぞと起き出すと、パドゥムのアパートの部屋の同居人たちももぞもぞし始める。その部屋は平時ならアクショー村から出てきて学校に通う子供たちの住まいになっているのだが、今日ははれてダライ・ラマのティーチングということもあり、アクショー村からの村人が簡易宿としてこの狭い部屋を使っている。毎日夕刻に戻ると違う顔ぶれがいて、お互い毎日が新しい仲間なので、これもまた楽しいのである。外の薄闇の中で顔を洗い、歯を磨き、体を濡れタオルで拭くと、いつものミルクティにラダックパンのタキを頂く。


23.ザンスカールのドルジェゾン・ゴンパとパドゥムの王宮。

谷を挟んで東側がカルシャ・ゴンパ、西側がドルジェゾン・ゴンパになり、このドルジェゾン・ゴンパというのは、ナン・ゴンパ(尼僧のゴンパ)のことで、僕たちはそこに向かう。カルシャ・ゴンパの裏手に回り込み、西へ続く小道を少し入っていくと、すぐに谷が見えてくる。谷はザンスカールでは中規模の大きさで、かといって浅い訳ではなく、そこにはヒマラヤの山から運ばれてきた清流が横たわっている。対岸のドルジェゾン・ゴンパは山の中腹にあり、そこに向かって山のすそのからつづら折りの道が続いている。僕たちはまずカルシャ・ゴンパ側の山から谷へ降りなければならない。こちら側から谷に続く道もつづら折りで、道幅はとても狭く、足を滑らすといとも簡単に渓谷と仲良くなれそうだ。そんな事にはならないように慎重に僕らは降りてゆく。僕らが降りると谷に待っていたのは陽の光がきらきらと輝き反射する清流で、それに触れるとひんやりと冷たく、水辺はとても澄んでいて、中にはヒマラヤの山々から運ばれてきた小石が横たわっている。その石をどけると沢蟹が数匹飛び出してきそうなそんな気配もする。

22.ザンスカールのカルシャ・ゴンパ。

僕とスナフキンさんとタンチョス僧侶は車道を歩いている。道はだだっ広いパドゥムの平原を横切って遥か彼方の対岸のカルシャ・ゴンパへと続いている。もちろんこの平原の上に対角線などというものがあるとすれば、その先っちょのパドゥムの町から反対側の先っちょのカルシャ・ゴンパまでは歩いても歩いても今日中にたどり着くのはきっと難しい。しかし僕たちは無言で歩いている。いい風が吹いている。どうにかなりそうなそんな予感はする。対角線の半分近くまできただろうか、遥か後ろの方の車道上に巻き上げられた砂ぼこりが見えてきた。その30分後一台の車が近づいて来ているのがはっきりと確認できた。車は横に停まると僕たちを拾って再び動き出した。車が進むにつれて面前のカルシャ・ゴンパの姿が明らかになってきた。そのゴンパ群はヒマラヤの山の岩肌の部分に無数にフジツボのように張り付いており、まるで遥か昔のここが海底だったころより、このゴンパたちはここにいるようで、山あいに突如現れた竜宮城のような感じがするのである。カルシャ側と僕らのいるこちら側との間には大河が横たわっており、そこに架かっている橋を渡ると対岸に出る。対岸に出るとカルシャの村に車を走らせる。






カルシャ村の入り口で車を降りると僕たちはカルシャ・ゴンパまで歩く。カルシャ村の中の道はなだらかな上り坂になってはいるものの、ゴンパまでが見た目より遥かに遠いので、ほどほどに疲れる。ゴンパのほうから流れてくる清流沿いの右岸と左岸に家々は建っており、とても情緒のある村並になっていて、もしもここのいたるところから湯気が出ていれば、そのままザンスカールのひなびた出で湯の里、龍神温泉で通用しそうである。またこのずっと先のザングラ村ではいい湯が出ていて、温泉地になっているという話を聞く。




カルシャ・ゴンパの入り口のポイントにあるマニ車までたどり着き、その横の売店の前で小休止をする。ここまで来るとほぼカルシャ・ゴンパの全貌は明らかになってくる。ザンスカールで一番大きなこのゴンパ群は、大きく二層に分かれており、岩肌にへばりつくフジツボたちの下の部分は僧侶たちの居住区であり、フジツボたちの上の部分がゴンパ群である。そして岩肌の麓から千畳敷がなだらかに大河まで続いており、その丘陵地にカルシャ村の家々が立ち並び、ゴンパ群の方から流れ来る清流沿いに、その門前町のような美しい村並を作っているのだ。




僕たちはそのゴンパを征服すべくフジツボの間に作られている参道を登ってゆく。参道は建物の間を縫うようにつづら折り状に作られていて、つづら道の行き止まりがゴンパになっている。ゴンパからザンスカール・パドゥムの平原が一望でき、遥か向こうに見える町はパドゥムの町である。高い位置からパドゥムを見下ろすと、やはりそれは言うまでもなく広大な大地で、ここがヒマラヤの山の中ということを忘れてしまう。ここは中央アジアの原野で、モンゴルの馬族が砂煙をあげて草原を駆けていそうなそんな原野である。見えるものは大地と山と空だけである。何も考えなくていいのである。そしてあなたは耳を澄ませ、ただ感じるだけでいい。鳥が滑空しながら響かせる鳴き声、吹き上げの風の音、そんな風の中のヒマラヤの香草の微かに薫る匂い、雲の間から射す陽が大地と戯れているさま、今、感じているものがこの世界のすべてで、それ以上のものはなく、またそれ以下のものもない。世界はあなたを作り、あなたもこの世界の一部を作っている。あなたはいるのではなく、ただあるだけなのだ。




ソローやロンドンなどの影響をもろに受けている僕は、実際は宗教というものから一番遠い位置にいるのだと自覚をしているが、ただ知らないものへの探求心はとても強く、結局のところ様々な宗教ととても深い関係になっている。今この瞬間も僕はイスラム教スンニ派のモスクから聞こえてくるアザーンの音に揺られながらスリナガルの下町よりザンスカールのゴンパの事を書いており、そうすることによって仏教をひとつ離れた位置から見られるようになるような気がするのである。

さてカルシャ・ゴンパである。本堂はやっこ豆腐のような形をしておりその白い肌と赤い窓枠はラダックの典型的なそれだ。本堂に入ると美しい壁画が目に飛び込んでくる。赤系統の色で統一された色味にはところどころ色が薄くなったり、剥げ落ちている場所や、そのキャンパス自身にも大きなひびが入っているところから古い壁画だということが想像できる。その壁画の中心に仏陀が座っており、その回りにムーミンにでてくるにょろにょろのようなものがたくさん描かれているのが見え、目を凝らしてよく見てみるとそのにょろにょろの中に様々な形をした仏が描かれていた。その本堂を後にしてさらに登ってゆくと、右側が白いろ、左側が赤色の変わった色彩の建物にでた。その半白半赤の建物のそばに小さな古いゴンパがあり、頼りなさそうな支柱や縦横にがたがたに歪んだたてつけから、それはこのカルシャ・ゴンパで一番古い建物のように見える。その中は何度も修復された跡があり、壁画も近年に上塗りされたもののように見えた。このカルシャ・ゴンパの一番うえの層からの眺めもまた抜群にいい。このカルシャ・ゴンパは下の層から上の層まで距離があるので、パドゥムの平原を見下ろすとき、まるで天に昇るエレベーターに乗りながら移動しているようで、景色が徐々に鳥の視目線になり、自分自身が空に舞っているのと変わらなくなる。






僕たちは次にお坊さんの部屋にお邪魔になる。建物がとても古いので、部屋への入り口はとても狭く、その小さな洞窟にでも入るよう身を屈めて入ってゆく。この部屋は岩肌に無数に建つフジツボのひとつであり、しかしながらその小さな部屋とは裏腹に窓からの景色はとても広く、眼下にはカルシャ村の実りを待つ畑が広がっており、その向こうはパドゥムの原野である。いつも過酷な季節をまたぐ修行僧は景色の良い一等地にいる。それは厳しい自然のなかで精神の修行の場を選ぶ時、とても厳しい場所こそ一番美しい場所だという事を先人たちはみな知っていたのではないだろうかと思ってみたりする。



僕たちはこのカルシャ・ゴンパを後にして、谷の向こうのドルジェゾン・ゴンパに行くこととする。











21.ザンスカールのパドゥム。

僕とタンチョス僧侶はパドゥムに向かう。途中のトゥングリ・ゴンパ(ナンゴンパ)のある村を抜けると、とても広い平原が目の前に現れる。どうやらパドゥムに入ったようだ。その平原の広さは尋常でなく、ザンスカール自体はとても広い谷が多いのだが、それでもヒマラヤの山々に囲まれたこのラダックでは毛色の違う土地の形状をしている。とても高い場所にある原っぱなのに、目立った凹凸はなくとても平たく広い。言ってみれば山々の間の宇宙のよう広い空間に緑のペルシャじゅうたんを敷き詰めたようなそんなイメージがあり、そんなじゅうたんで出来ているパドゥム盆地は風に乗ってどこかに飛んでいけそうな勢いでもある。そんな事を考えているうちに、僕らはパドゥムのバザールに到着した。バザールには百件近くもの商店があるが、その七、八割の店は閉まっている。ダライ・ラマのティーチングの直前で、しかも内外からの観光客がなだれ込んできている状況でこれなのだから、平時は九割以上の商店が閉まっているだろうなと想像がつく。僕がバザールのT字路付近で佇んでいると途中で別れたスナフキンさんが道を横切っているところに遭遇する。僕はスナフキンさんを捕まえると、今日の予定はお互い未定ということだったので、僕とタンチョス僧侶とスナフキンさんとの三人でパドゥムの裏山にあるスタクリモ・ゴンパに行く事にした。

トゥングリ・ゴンパ

2014年7月16日水曜日

20.ザンスカールのゾンクル・ゴンパとスキャガン・ゴンパ。

僕とノルブ兄はゾンクル・ゴンパのあるトクタ村まで、トラックの荷台に揺られながら走っている。この時点で肝心のノルブ本人から連絡があり、チリン村からストクまでのトレッキング・ガイドの仕事が入ってしまい、今回はザンスカールまで来れないということだ。僕は少し頼りないがお兄さんと行動を共にすることとなった。いつしかトクタ村に到着し、僕らはトラックを降り、そのあたりを一望してみる。ほんの少し丸みを帯びた大地に高山植物が群生しており、そのところどころから白い岩が顔を覗かせる様は、スイス・アルプスを連想させとても美しい。小さなお坊さんたちは僕らの先を歩いており、またノルブ兄はトラックの揺れで酔いがさらにまわっているようで、その足取りはかなり危なっかしいが、山を熟知しているので、酔拳の達人のようにそう簡単には転びそうもない。川の対岸に見える村も広い千畳敷の大地に広がり、ビー玉を置くところころと転がりそうな形状は、手で撫で上げるととても気持ち良さそうだ。また高地の爽やかな緑と紺碧の空には小さなお坊さんたちの深紅の衣がよく映えとても眩しかった。

19.ザンスカールのアクショー村。

とある村の朝は深い靄に包まれていた。僕たちは再びバスに乗り込むと、さっそく出発した。バスは荒涼とした不毛をひたすら進む。右手に大きな氷河が見えてくる。その氷河の名前はドラン・ドゥルン氷河。ザンスカールではもちろん一番大きな氷河だし、ラダックでも一番大きな氷河とされている。山あいにそれは大きくうねりながらへばりついているようで、氷河自体の重みでそれは少しず生きてうごいている。氷河を通りすぎると、小さな湖がいくつも見え、とても標高が高いのでそこに横たわる水はどれも純水に見える。この天空の山道をしばらく進むと突然深くその大地は沈み込み、その縁をつづら折りになりながら道は下りてゆく。そのつづら折りおりの道の途中に一台の車が転落しているのが見えた。中の人たちは無事だったのか、それとも車が故障で動かなくなり道をふさいでしまったので、あえて落としたのかは定かではない。ラダックではこのような転落事故はしばしばある。僕もカルドン・ラとワカ・リバー、そして今回のを含めると転落事故の目撃は三回目になる。道の端はゆるくなっていて、脆い場所が多いのでガードレールを取り付けるのも難しいところが多い。道路のインフラが脆すぎるので、いつかは抜本的な対策をしなければならないと思う。

2014年7月15日火曜日

18.ザンスカールへ。

今、僕は公営バスに揺られてザンスカールへ向かっている。ダンマフレンドのノルブの計らいでザンスカール行きが実現したのだ。レーのオールド・バス・スタンドで750ルピーを払い、バッグパック類は屋根に載せてこのオンボロバスに乗り込んだのだ。朝五時半に出発したバスの右前の座席には日本人らしき旅行者も乗り込んでいる。今回のザンスカール行きの最大の目的は、カラーチャクラの前夜祭としてパドゥムで行われることとなったダライ・ラマによるティーチングに参加するためだ。僕の横にはノルブのお兄さんがエスコートとして座っている。ノルブは途中から僕らと合流予定だ。途中カルツェの村で休憩を取ると、バスは再び出発をした。カルツェのチェック・ポストにはお馴染みの警官が常駐していて、僕がパドゥム行きを告げると大変喜んでくれた。

17.ザンスカール・リバー・ラフティング。

ダンマハウス・サマーキャンプも終盤に入り、ある朝再び生徒たちは教室の外に呼び出される。そして生徒たちはそこで今からザンスカール・リバー・ラフティングに行くことをヴィヴェックから告げられる。振り向くとあのオンボロバスがすでに停まっており、生徒たちは身支度を整えると早速そのバスに乗り込む。バスはストクを出発するとインダス川沿いをひたすら北上する。空港を通りすぎると左手にスピトク・ゴンパが見えてくる。このゴンパはこのレー・スリナガル・ハイウェイから眺めるよりも、インダス川対岸からの眺めの方がティクセ・ゴンパを彷彿させる岩波の間にゴンパ群が見えて圧倒的に美しい。しかし僕らのバスはスピトク・ゴンパをレー・スリナガル・ハイウェイより眺めみながら通りすぎる。


16.チェムデイ・ゴンパとスタクナ・ゴンパ。

ダンマハウス・サマーキャンプも中盤に入り、タイトに組み込まれたプログラムに従って日々は過ぎていくが、その斬新な内容は決して退屈するものではなく、日本では経験することがまずないものばかりなので、面白いし、興味深いし、楽しいし、嬉しいし、気持ちはいいし、大変ためになる事ばかりの毎日が過ぎてゆく。そんなある日の朝、ダンマハウスに一台のオンボロバスが乗り込んできた。生徒たちはバスに乗るように促され、その中で今からゴンパを巡るスタディ・ツアーに行く事を宣告される。そうなれば学生たちはバスの中で歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎだ。バスはひたすらレー・マナリ・ハイウェイを南下している。夏はラダッキたちのピクニック・シーズンで様々な学校の学生たちはバスをチャーターしてラダックのいろいろな美しい場所へ向かう。バスが何台も縦に並び学生たちを乗せ走っているのを光景をあなたもどかで見ることができる。そんな時はちょいとバスの中を覗いてみるがいい。きっと全てのバスの中は学生たちにより歌えや踊れやの大騒ぎ状態になっているはずだ。

オンボロバスはあるY字路にたどり着く。右に向かえばマナリ方面、左に向かえばパンゴン・ツォ(パンゴン・レイク)方面だ。僕たちのオンボロバスは左へ向かった。坂道をえっちらよっちらとバスは登っていく。先ほどのY字路から10分ほど進んでいくと、右手の岩山の斜面に白亜のゴンパ群がへばりついているのが見えてくる。青い空はそれらのゴンパをよりいっそう引き立たせる。チェムデイ・ゴンパ。レー・マナリ・ハイウェイからもちらと見ることができる、このなんとなくむっくりとカタツムリの風貌を思わせるゴンパに、バスはくるりと回り込んで徐々に近づいてゆく。道の行き止まりに止まったバスから吐き出された学生たちは徒歩でゴンパに向かう。

15.ストク・ベースキャンプ・トレイル2。

山小屋を出発して再び僕たちは歩き始める。峠と谷をくりかえし奏でるこのトレイル・コースは止むことのない交響曲のようにも感じてくる。とある峠を越えると面前の谷から冷気が吹き込み、真っ白な雪が川沿いを覆っている。コースは谷に降りていくように続いており、いつしかそのコースも雪に飲み込まれていく。雪上を歩くと雪はさくさくと音をたてつつ靴はその重みで沈んでいき、時おり雪上に現れる亀裂は浅いクレパスである。雪面の端は薄くて脆く踏み抜くと川面に転落するかもしれない。この辺りは天候が崩れると何月になっても降雪がある。谷は山に隠れるように深い影を作っていて、まるでその影にとじ込まれるように万年雪が静かに横たわる。雪面の端のつららは折ると水を豊富に含んでいて、乾いた口にその先を向けると、尖った先っぽから閉じ込められていたヒマラヤの源流がほとばしるようにのどに落ちてくる。そのきらきらとした水は一度疲れた体に染み込むと、後でその体はきっと輝きを取り戻す。口元にこぼれ落ちた水をぐいと手の甲でぬぐい取ると、僕は再び次の一歩をヒマラヤの谷に刻み込むために歩き始めた。

14.ストク・ベースキャンプ・トレイル。

ある朝のセッションが終わると生徒たちが外に並べさせられる。生徒たちは眠たげなまなこを擦りつつなんとか立っている。セッションはタイトながらプログラムは斬新で毎日が新しい朝だが、生徒たちは新たな変化を欲していた。ヴィヴェックが生徒たちの前に立つと一言いう。
「今からストク・ベースキャンプ・トレイルに行く。五分以内に用意をしてもう一度ここに集まること。」
生徒たちの間から歓喜の声が上がる。ストクには標高六千百メートルのストク・カングリという名の名峰があり、ラダッキの間には何度も登っているつわものもいるが、生徒たちはまだ若くこのトレイルを経験している者は少ない。この時これから始まる困難はまだだれも想像していなかった。


13.ダンマハウス・サマーキャンプ

僕は両側を土の壁で囲まれたストクの遊歩道を大きな三つのバックパックを背負って歩いている。雲は低く空は高い。後ろでクラクションがひとつ鳴る。細い道の中、砂煙を高く巻き上げつつ一台の古バスが近づいてくる。僕の横をすり抜けていくそのバスの窓から覗く顔が一様に何かを言う。
「ホンジョ!」「ホンジョ!」
どこかで見た顔がバスの窓に一列に並び、爽やかな歯を見せながら笑っている。僕は再び戻ってきた。仲間たちも再び戻ってきた。明日からダンマ・ハウスことインターナショナル・スクール・オブ・イングリッシュ・スクール・ラダックで始まるDhamma Summer Camp Cum Youth Leadership Training 5-15 JUNE 2014に参加するために。このキャンプは、将来のラダックを担う青年たちを育成するために行われる10日間集中のキャンプで、チクタン村に滞在していた僕にも参加のオファーが来たのだ。

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