2011年7月30日土曜日

3.カシミール女とモスク。

 生粋のカシミール料理はお世辞抜きに美味い。実際この半年の間で胃に納めた料理では一番美味かった。カシミールの米はほっかほかのつややかに立っているやつで、それに銀のひしゃくでチキンスープをすくって絡ませる。チキンのカレーにはスパイスを惜しみなく使い、カシミール独自の風味はほんのちょっとサフランの香りがする。

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2011年7月29日金曜日

2.ハバカダルの人々。

 午前中はダル湖北部にあるユニバーシティ・オブ・カシミールに出向く。

 大学のゲート前の警備は厳重で小銃で武装した軍がセキュリティー・チェックをしていた。苦労してゲートを抜けると広大な敷地が広がっており、ダル湖を背にその奥には緑が深く美しいカシミールの山々が水面にその姿を現しては消え、消えては現すを絶え間なく繰り返していた。

 大学の図書館の身分証明チェックも厳重で、僕は学生証なんかはなかったが、軍は留学生と勘違いしたのか、窓口の軍に手荷物を預けると、ノーチェックで中に入る事ができた。この大学はカシミールの東大と呼ばれており、数多くの天才秀才たちを排出している。

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2011年7月28日木曜日

1.カシミーリ。

 朝の倦怠の中、アパートのたてつけの悪い窓から顔を出すと、正面にダル湖から吐き出された胡乱な気分に沈んでいる深緑によどんだジェラム川が流れているのが見える。昼は37度、夜も30度を下らない部屋の中は蒸し暑く、床には何匹もの虫が夜を越せずに死んでいた。

 下の階のテラスよりむっちり太った管理人のおばさんがずり落ちそうになった頭のスカーフを直しながら声をかけてくる。

「あんたラダッキかい?ここらへんではみない顔だね。」

「姉さん、こう見えても僕は日本人です。」

「あれま、日本人っていうのはもっと、こう色が白いんじゃないのかい?」

「カシミールに長くいると日本人でも色が黒くなりますよ。ここはどのくらいの標高なのですか?」

「標高1700メートルを越えているはずなのに、毎日こんなに暑いなんて困っちゃうわ。」

「そんなに高所なんですか、スリナガルは。」

「そうよ、部屋の他の連中はまだ寝てるのかい。」

「はい、僕の足下に数人転がっています。」

「最近の若いもんは朝のお祈りとかしないんだね。困った事だわ。」

 そう云うと管理人はちらとジェラム川に顔を向け悲しげな影を落とした。

「ところであんた今までカシミールのどこにいたんだい?ラダックかい?」

「チクタン村に長い事滞在してました。」

「チクタン村ってあれかい。カルギルの近くの。」

「そうです。」

「そういや、うちの親戚の友人が数年前チクタン村に嫁いだわ。いいところだって云ってたわね。」

「夏は涼しく、緑が多く、空気もおいしく、本当にいいところでした。」

 僕はそう云ってから窓を閉め、上半身裸で寝ているチクターニの同居人たちを蹴り上げて起こしにかかった。

「朝だよ!」

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「ハイャ!」 
 荒れた道を歩いていると正面からやって来た馬車は手綱をもった男のかけ声とともに僕の横をすりぬける。昼のダル湖の淵の道沿いは傷んだアスファルトの照り返しが暑い。欧州からの大勢の観光客が地元のガイドのカシミリー英語に顔をしかめながら何かの説明を聞いている。

 僕はダルゲートを北へ向う。今にも崩れ落ちそうな木造の渡し橋がハウスボートに繋がっている。橋が揺れる度にそこにかかっている洗濯物もいっしょも揺らぐ。そんな揺れる桟橋がダル湖沿いに数百ものハウスボートの数だけひしめき合っている。ハウスボートの間の水面に浮かぶ緑藻の上にたくさんの蚊柱が舞っている。

 たまに貴婦人を乗せた木舟が水面に波紋を描きながら優雅に湖の上を流れる。僕は京都丹後半島の伊根の船屋群をこの光景を見て思い出した。日本海の荒波の影響を受けないその入り江には、ひっそり格納されている古い木舟が半分ほど船屋から出ていて水に浮いている姿が水面に静かにひしめき合っていたのが霧の中に見える。

 ハウスボートと船屋の古びた木の匂いに流れたさびしげな時が感じ取れる意味では僕にとっては同じような感覚だった。

「ジャパニ、部屋を探しているのかい?いい部屋あるよ。」

 僕は部屋なんか探していない。ダル湖に記憶の断片を反映させているだけだ。

「ジャパニ、どこにいきたい?いいツアーあるよ。」

 僕はツアーなんかにいきたくない。ただ湖を眺めていたいだけだ。

「ジャパニ、ジャパニ、ジャパニ・・・・・」

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 客引きの喧噪をすり抜けて、ダル湖から離れると右手の丘の上にハリ・フォルトが見えてきた。石で出来た古い城だ。霞んだ景色の向こうの丘の上に静かに横たえる、国破れても山河も城も残っているその強靭なところは、現在のスリナガルの建築を見ていると文明の退化を感じてしまう。

 現在のスリナガルはイギリス植民地時代の建物がほとんどそのまま残っている所も多く、植民地時代の建築のノウハウはほとんど伝授されておらず、建物が酷く傷んで修復もできないのに、そこに人々は住み続けている。

 赤煉瓦作りの古い建物は右に傾き、左に傾き、上部は崩れ落ちている物も多く、僕もそんな不安定な建物のアパートの一室に住んでいる。夜はたまに建物が軋む音で目が覚めるが、所詮インシアッラーでしかないのだ。周りはだだっ広く、いつの間にやら寂しげで怪しげな、お墓のエリアに迷い込んでしまったようだ。

 墓の土地には数匹の野犬が徘徊している。そのエリアを怖々と進んでいくと、何やら柔らかい歌声が風に乗ってやってきた。僕はあるエリアの一角に立っている一本の木の近くのお墓に目を向けた。

 そこには両手で花束を抱えた女性がひっそりと立っており、おさえていても良く通ってしまう声でカシミールの音楽を口ずさんでいた。

 その悲しげで儚い透き通った歌は歌詞は分からずとも、ある種の鎮魂歌だろう事が分かる。歌は踊らずどこかに流れていき、寂しげな歌声にどこからとも無く遠くから野犬の遠吠えが絡み、それがよりいっそうの不安げな状況を紡ぎ出す。カシミールの現在が凝縮されたようなこの空間はさらなる深い悲しみを生んでいるようだ。

 僕は通りの反対側に腰をかけてその女性の歌を聴いている。まだ若いその女性は静かに歌い終えるとそっと花束を石碑の前に置く。一筋の涙が頬を伝って流れ、それは一枚の花びらを濡らす。女性が振り返ると僕と目が合う。その女性は白い肌に深く澄んだ茶色の目を持っていた。それは紛れも無くカシミーリの目だった。

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2011年7月27日水曜日

53.シャシー・ツォ。

 山深いヨクマカルブー村よりさらに深山に分け入ると、気高い山々に囲まれ慎ましい程ささやかな緑と花に恵まれた小さな村サンドゥ村に辿り着く。サンドゥ村の一番奥よりヒマラヤの嶺々に続く羊使いたちがつけた道が天に向って走っている。僕はその道を登っている。

 僕は背中にテントとクッキング用品を背負い、相棒は背中に家庭で使う鉄のかたまりのでっかいガスボンベを背負っている。この道のずっと先にある山の頂きには美しい湖があると云う。その湖の名はシャシー・ツォ(シャシー・レイク)。サンドゥ村の羊使いが放牧に行くくらいで、ツーリストの姿はない。

 しかしこの湖の美しさは筆舌に尽くしがたいほどすばらしいと彼らは云う。その幻の湖に向って僕は歩いている。左側の深い渓谷の遥か下にはさやさやと渓流が流れている。

 その渓流に沿って羊使いの道が続いているのだ。チーズ色の山肌の縁を長い蛇が這っていったような跡が羊使いの道だ。チーズ色の山肌の羊使いの道はしばらく続く。鳥の鳴く声と渓流のせせらぎだけでこの渓谷を形作っている。

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 そして視界が突然広がった。広く柔らかい緑のじゅうたんと、その上に流れる一筋のきらめき透き通る水の道が目に飛び込んでくる。多くの動物たちがこの楽園でくつろいでいるのが分かる。

 この楽園の名はシャシー・スパン。ヤク、羊、山羊、牛、ドンキー、そして多くの鳥たちが緑の中の無数の宝石となって、楽園に彩りを添えている。それに僕たちも加わり楽園にいっそうの彩りを添える。ここでは自分もただの動物に過ぎないと言う事を実感できるのだ。

 動物たちが草をついばんでいるので僕たちも何かついばむ事にした。大きな岩の風防の淵に鉄のかたまりのガスボンベを設置し、渓流の水をちょうだいし、料理を作る。簡単にメギを使った料理をする事にした。メギとはこの地域では非常にポピュラーなインスタント・ヌードルでカレー風味である。

 よく子供たちが袋の上からメギごと手でもんで細かく砕きお菓子のように食べているのを目にする。僕たちはそのメギを大人の味付けで調理する事にした。玉ねぎ、鶏肉などの薬味は僕が調理し、味の方は相棒に任せる。出来上がったのを食べてみると、案の定カレー味だった。チリやマサラを基本にすると結局はカレー味になるのだ。

 でも動物たちといっしょに食べる食事は美味いし心楽しい。美味い物を食いたければもっと地球に近づくべきだ。そしてこのお椀のそこのような地形は緑と花で溢れていて、それらを生き生きさせるために豊潤な水がさやさやと流れている。そして動物たちはその命を恵みとして頂いている。

 僕たちもまたそれらを恵みとして頂くのだ。僕たちはその恵みをたいらげると、羊使いの道をさらに行く。

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 緑の絨毯は山の嶺まで続いているようである。この美しき楽園の中を嶺に向って歩く。このお椀周りに広がるの嶺々に時折人の影が揺らぐ。その影は広く高らかに口笛を吹き僕らに挨拶を送っている。羊使いたちだ。僕らも天に向けて高く口笛を泳がせる。

 口笛は渓谷に反響してこだまが生まれる。風が起こり花がゆれ動物たちが一瞬一斉にこちらに顔を向けるのだ。そしてまた僕たちは羊使いの道を歩く。目の前に山の嶺が迫ってくる。僕らは緑の絨毯に乗って嶺を越える。風が止む。青が目に飛び込んで来た。シャシー・ツォだ。その青は神の色だ。

 山頂のラグーンは目を覚まし、よりいっそうの深い青を湖面に泳がせる。山の嶺は湖面に深く鋭い影を落とす。湖面の輝きは鏡の音をたてて、光り出す。湖の周りの嶺々は時折風を起こす。

 鳥たちが水辺から一斉に飛び立つと、頭上を旋回した後、嶺に降り立ち、強く優しく鳴く。湖面に水のうろこが出来き、鏡に写っていた嶺の影は砕けてガラスの粒となる。風が止むのを待ち僕たちは湖岸にテントを設営した。その黄色と緑の人工物が青の淵で静かに鎮座している。

 それらは地上のただ一つの人工物で僕らは地上最後の人間ではないかと錯覚を起こす。でもこの瞬間にそれを確かめるすべは無い。そして地上最後の楽園に夜の帳が降りてきた。

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 夜の嵐は激しくテントに雨を投げつける。

 朝。山々の嶺に淡く朝の色が灯り、瞼にもそれがのると、僕は静かに目を覚ます。無風。テントから頭を出し、湖を眺める。それは静かなる美しき青き鏡だった。その青は地球を映している。山も空も雲も青に飲み込まれている。青の中から鳥が鳴く。

 そして青よりチャチャチャと鳴く声は鳴きねずみだ。彼女らもその青から抜け出せないようだ。緑も花も青の中にある。奇跡の瞬間が過ぎ、風が起こる。青き鏡は静かに砕け、その粒は鱗となり、湖面を揺らし、楽園は元の場所へ戻る。それは魔法が解ける瞬間だ。

 山も空も動物たちもこちら側の朝の顔に戻り、湖面の鱗に落とす雲の影は風に乗りうねるように流れる。僕は湖の淵にゆっくりと座る。岩の間からその小さな体で立ち上がり鼻をぴくぴくと効かせながら鳴きねずみたちがこちらの様子を伺っている。鳥たちは湖面の淵でその小さな美声を聞かせながら遊ぶ。

 あと数十分もすれば、下界より羊や山羊やヤクなどの動物たちが湖の淵に集まってくるだろう。湖の原始の静けさは生き物たちに永遠の安らぎと生を与える。僕は湖の水でコーヒーを煎れながら、そんな太古の光景を見つつその安らぎと生をすする。風は凪い始めて、山の端に横一直線に朝の閃光が走る。それは湖面を優しく鋭く射す。

 そして湖面は静かに揺らぐ。そして僕の心が静かにざわめく。ヒマラヤの山々の名も知らぬ一つの嶺の頂きにひっそりと浮かぶ青く静かにかつ鋭く瞬く湖、シャシー・ツォ。人が地球の奇跡だと思っている事は彼にとって数万年に一度の仕事でもそれは日常的な事なのだ。人の一生は彼にとっては一瞬の出来事だ。

 しかしその一瞬に人は熱く短く生きる。絶え間ないおびただしい物語の積み重ねがその一瞬なのだ。ここでは一生は一瞬に置き換わり、一瞬は一生に置き換わる。

 僕たちはテントを片付けると偉大なるヒマラヤのシャシー・ツォを後にした。途中眠たげな目をした羊や山羊やヤクたちとすれ違う。きっと動物たちは云うだろう。「奇跡の瞬間を見たか?」って。 

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2011年7月26日火曜日

52.ガルクン村。バタリク村。ツェルモ村。

 柔らかい朝の光が差し込むガルクン村を歩いている。最初のマニ車を通り過ぎるとそこから長い長いガルクン村の小径が始まる。ガルクン村の中心には木の陰より朝日が射す水路が流れており、水路に小径が寄り添っていて、小径には柔らかい光にかざされて杏の木の葉の陰が静かに揺らいでいる。

 少し歩くと女が水路で洗濯をしている。その若き女の水路の淵を見つめる眼差しは強く、洗濯物から顔を上げると、僕のジュレーの言葉にはにかみながらもジュレーと返すが、はにかむその表情の向こう側より時々僕を見つめるその眼差しは鋭い。

 女の肌は白く、鼻は高く、瞳は青色で、その東欧の美しいジプシー女やポーランド女を思わせるその風貌は岩山に咲く一輪の可憐な花のようだ。このガルクン村の人々はアーリアン系といえどもダー・ハヌーとは全く違う人種である事が一目で分かる。そしてここをさまようとそんな錯覚を誰でも起こす事になるだろう。

 ここはインドの中の東欧なのか。静謐の中に修道院でも立っていそうなそんな気持ちになる。でもここはブッディストの村なのだ。そのアンバランスな感覚が、またいっそう己の気持ちを深く広い思考の迷路に誘い込む。そして少し歩いていると頭の上に何か小さなものが落ちてくる。

 僕はその小さなものを拾うと手で2、3回拭って、口に運ぶ。杏だ。それも熟した杏だ。歯を立てると口の中でその蜜がほとばしり広がる。杏のジュースだ。それも熟した白桃と変わらぬ豊潤な味と香りを持っている。それは杏の白桃だ。

 その味は深く濃く広く、しかもその小さな体躯には似合わぬたくさんのジュースが口の中に弾け咲く。しばらく水路沿いの静かなる小径を歩く。杏の木のトンネルはまだまだ続く。古く大きな家を通り過ぎようとしたところ頭上より声がかかる。僕は見上げると朝の空気を共鳴させたのは子供たちの声だと気づくのだ。

 大勢の子供たちは窓越しに僕を見ている。彼女らは写真を取って欲しいのだ。子供たちの目は青い。まるで東欧の子供のようだ。僕は頭上の窓に向けてシャッターを切る。うまく撮れていればいいのだが。いくつかのマニ車を通り過ぎて、しばらく歩き左手の小さな家より出てくる女がいる。その女に聞く。

「ガルクン・ゴンパはどこにあるの?」

 その若き青い目の女は答える。

「5分も歩けば着くわ。」

 白い肌のその女は、鼻は高く髪の色は栗毛、目は透き通る水晶のような瞳を持ってその強い眼差しで僕を見ると、ふと視線を下げた。足下に2、3個の杏が落ちてきたのだ。女はそのうちの一つを拾って僕にくれた。僕はそれを口に運び頬張る。それはまだ少し酸っぱく自分を象徴するような未熟な味がした。

 ジュレーの挨拶をして僕はゴンパに向った。5分ほど歩くとゴンパが見えてきた。それはこの村の端に辿り着いた事を同時に意味していた。

 そのゴンパは切り立った崖のさきっちょに立っており、その渓谷を望むと遥か下には川の話す言葉がせせらぐ声になって谷に響き、向こう岸にはちょこんとチョルテンがそびえ、視線を高みに移すと青すぎる空は目に沁み、一筋の白い雲は心に沁みた。

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 バタリク村はラダック一番の低みにある村だ。そしてその気温はジャンムーとほとんど変わらないと言われる程暑い。その村の商店街はシャッターが閉まっている店が多く、ところどころに微かな緊張感が漂っていて、最前線のボーダーエリアの顔が全面に出てきており、表からは本当の村表情はうかがい知れない。

 しかし一歩村の裏に入るとこれが一遍するのだ。それはラダックの村の表情に変わる。木漏れ日、川のせせらぎ、水路にて洗濯をする女たち、古い家の窓から流れてくる赤ん坊の泣き声、カシャンブルーの咆哮、青すぎる空、そしてチーズ色の山々。いつでもどんな時でも、いとおしいあの情景が広がっているのだ。

 しかもそれは延ばせば手が届き、触る事もでき、確かめる事もできるものばかりだ。バタリク村は狭い渓谷にささやかながらに広がっており、その端は切り立った崖で、そこに立ち、前方を見るとより広い渓谷の緑が確認できる。そしてその大きな渓谷の輝く緑はグルグルドゥ村だ。

 その村の一番奥の岩に十字の白い印が付けられている。その向こうがパキスタンだ。1999年カルギル紛争の時にバタリク村とグルグルドゥ村は苛烈な戦場となった場所なのだ。両国の牙は今もお互いの胸に刺さったままだ。ゾラやディケンズを出すまでもなく、いつの時代も翻弄されるのは小さな村の住人だ。

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 ツェルモ村はバタリク村より標高を上げてきた場所の狭い渓谷に清流に沿って細長く広がっている村だ。その村の一番上のほうの清流を歩く。僕はその清流にてパンツ一枚になり水浴びをする。名も知らぬ鳥の鳴き声以外は何の音も聞こえない。その清流で体を洗う。気持ちがいいとはまさにこの事だ。

 チーズ色の山肌のささやかなる緑の中を走る清流ににしては水量があり、それに昼の太陽が射すと、岩に当たり砕けた水も気持ち良さそうに宙に舞う。その気持ち良さそうな水に飛び込むのだ。少し上流のところの岩陰から子供が覗いている。頭が一つ二つ三つ四つ五つ見える。彼らは僕と目が合うとにっこり笑いながら寄ってくる。

 僕はそそくさと着替えると、子供たちは写真を撮って欲しいとせがむ。僕は子供たちの写真を撮ってやる。それから僕は清流に沿って少し上流に向って歩く。森の中より誰かが語らう声が聞こえてきた。僕はその場所へ注意深く向う。木々の間より覗くと二人の乙女が湧かすお茶を真ん中に語り合っている。

 彼女らは僕に気づくと「こっちに来なさいよ」と云う。僕はその語らいの仲間入りをする。僕は出来上がったバター茶をすすりながら乙女たちととりとめの無い話をし、木陰の風薫る中、こんな素敵な日もいいなと少し思う。

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2011年7月25日月曜日

51.コクショー村。

 コクショー村に到着したのは昼の太陽が傾きかけた頃だった。相当疲れているようだった。その証拠に僕は村の入り口のところのゴンパが頂上に立っている岩山の麓に息を切らせつつ大の字で寝転がって太陽と曇り空を見ている。チクタン村からの徒歩での太古の山道の18キロはけっこう長く感じた。

 朝出発してコクショー村に到着するまでに5時間かかっている。コクショー村は標高が高く、空に近く、そしてこの地区に移り住んだ始めてのダルド系民族の村でもあるのだ。ダルド民族はかぎ鼻に、太い眉、濃い髭、そしてよく澄んだ茶色の瞳を持っている。

 コクショー村のダルド族は、伝えられるところによると、ダルゴ村より王が民を引き連れてここに分け入ったらしいのだが、こんなヒマラヤの幽谷の一番深くかつ遥か高みのところに村を作った彼らの恐るべし開拓者の血脈には目を見張る物がある。

 世界には不思議な民族がたくさんいて、例えばエスキモーなどはなぜあのような過酷な場所に移住して生活をするようになったのか、南下すれば気候も温暖で、食料はもっと手に入りやすだろうにと思われているのだが、説はさまざまあって、未だ確証に至っていないのである。

 このコクショー村のダルド系の人々も同じように利便性を越えた何かがあるのか、それが必然性だったのか、はたまた時代のただの気まぐれであったのかは今となっては知る余地もない。

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 岩山の上のほうから声がかかる。僕が見上げると紅の袈裟を羽織ったラマ僧たちがゴンパから顔を出して、登ってくるように促している。僕は頂上にあるゴンパまで登っていく。腹は減ってないかと聞かれ、少し減ってますと答えると、今からみんなで食事をするので一緒にどうかと聞かれ、恐縮しながらも僕は同席する事にした。 

ゴンパの中に入ると奥から上座となっており僕は入り口近くの下座に座る。中は薄暗く窓から射しこむ光が、時に体を預けるままに漂っている無数のほこりをきらきら輝かせている。

 ゴンパはおおよそ20畳ほどの狭い空間で、中央には空き缶で土台が作ってある大味な立体的な曼荼羅を模したものが作られており、正面の壁には天井まで届く程の色鮮やかな釈迦座仏が鎮座して、その周りの壁はほこりをかぶった仏典やら小さなたくさんの仏像が古いガラス棚の中で眠っていた。

 ラマ僧たちに諭されて僕は壁に背、正面に立体曼荼羅というような向きで座ると、大皿が渡されて、上座より飯とおかずが取り分けられていく。飯の上には豆のスープ、野菜のスープ、チーズを揚げたもの、山羊の乳で作ったヨーグルト、トマト、きゅうりなどが盛られている。

 味はチクタンエリアで食するものとまったく違い、どことなくはんなり西洋風な味付けがする。ラマ僧たちは沈黙と云う名の歓喜の中でもくもくと食事をする。

 その周りを忙しく回っている小男がいる。ラマ僧たちの世話係だ。

 小男は皿の飯が減ってくると追加する。スープが減ってくると追加する。水が少なくなると追加する。そして忙しく駆け回っている。食事の最後に小男が大皿に並べられたバナナを上座より取り分けていく。ラマ僧たちは慎重に目視で少しでも良い物をと選んでいく。

 バナナは交通手段の関係で、みんなひどく痛んで真っ黒やつばかりなのだ。僕は最後に皿に残ったやつを頂く。黒い皮をめくるとまさにとろりと痛んで溶けているので、それが崩れ落ちる前にかぶりつく。見てくれと食感は悪いが、味はみな同じだ。形あるものが口に入る前にただ壊れただけだ。

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 その時、奥に座っていた老僧の手にある鈴が「ちりん」と鳴る。左壁の大きな体躯の僧の枯れた浪曲師のような声で読経が始まる。暗みと光の部屋に経が広がり始める。その後に続いて他の僧たちが各々の音の高低の経を持って、経に絡み付いていく。大きな体躯の僧が経の骨太の部分を努める。

 それに自由に即興で絡んでいく他の僧たち。時々骨太な経にその上を行く太いのがのしかかる。それでもリードの経は動揺せずにその浪曲的な声を鳴らす。経の掛け合いは進み、僧たちのブルージーな読声は部屋の隙間に充填され、流れ、漂い、迷い、広がり、壁の中へ溶けていく。

 また老僧の鈴が「ちりん」と鳴る。僧たちはゆっくり立ち上がり、その内の二人の僧が横たわる角笛に命を吹き込む。角笛が鳴く。高く広くそして良く鳴く。鈴が鳴る。角笛が鳴く。次に僧たちは立体曼荼羅を中心に右回りに歩き出す。大きな体躯の僧のリードの経に、他の僧たちがまた即興で絡み付いていく。

 僕も促されその歩む円陣の中に入っていく。経が踊る。僧は回る。

 僧たちの経の即興演奏は、低く垂れ込める雲の下の小さなお堂の中で、生まれては消えていく径、たたみ込まれるように読まれる経、空間に淀んでいるだけの経、それらの経たちは、たちどころに上昇し、膨らみ、吸収し、同化し、分解し、霧散しつつを執拗に繰り返し、そしていつしかお堂の屋根に座って様子を見ていた真夏の昼の夢の妖精たちが、それらと戯れるタイミングを伺っていた。

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2011年7月24日日曜日

50.ヒマラヤの谷のチクタン城。

 午前の透き通る光を背中に浴びるチクタン城(チクタン・カル)は、その肌に刻む光と影が夏の木の葉の向こうで優しく揺れている。チクタン城がそびえる岩山は急勾配であり、現在城までの道はない。

 だが今その麓から仰ぎ見ると大勢の職人が岩山を削りつつ石を担いで登っていき、それを使って城までの新しい道を作っているのが確認できる。ヒマラヤの谷が騒いでいる。

 そして僕はチクタン城に登る。がれ石や浮き石に足を取られないように一歩づつ登っていく。岩山の中腹の大勢の職人たちが道を作っている場所まで登っていく。最後の一歩に彼らは僕の手を掴んでその場所まで引き寄せてくれる。

 僕はサングラスを取ると近くの石に腰を下ろし、職人たちから話を聞いた。インド政府から助成金がでて、五ケ年計画でチクタン城を修復するのだそうだ。2000000ルピーが政府から支払われると云う。

「ひゃっほー。」

 僕は喜びのあまり大声を出しつつ、飛び上がり、2メートルほど滑落した。なぜならばこの修復事業は、僕がチクタン入りしてから行政に働きかけてきた事だからだ。もちろん僕の働きかけが功を奏したと思うほど自分は天狗ではない。きっとあらゆる事象のタイミングが良かったのだ。

 僕はチクタン城ファンドの計画も村人と立てており、世界中から寄付を募って、10年以内に工事が着工できればいい方だと思っていたのだが、その夢が4ヶ月で叶うとは本当に信じられなかった。岩山の山頂の城までどうにか登り、僕はそっと撫でてからチクタン城にキスをすると、目の前に広がる谷を見下ろす。

 右に青く光る谷はズガン地区であり、中心をとうとうと流れるカンジ・ナラの水は、果てのない奥に影となってゆらいでいるヒマラヤの嶺々に向って疾走している。

 左に緑香る谷はカルドゥン地区であり、その深く広い麦畑の表面は風で踊り、岩山の斜面に立つ干しレンガの家々は悠久の時を隔てた今も昔と変わる事なく人々の生活の場で有り続け、背後に立つチクタン城だけが壊され、作り直され、壊され、作り直されが繰り返す歴史となって、今この瞬間はどうやら作り直される周期に入ったようなのだ。

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 チクタン城の麓に広がる青く輝く麦畑のあぜ道を歩いている。秘密の素敵な場所があると云って、子供たちが僕の前を歩いている。振り返ると風そよぐ緑のフィールドの向こう側に凛とした佇まいのチクタン城が見える。昨日まではただのくたびれた遺跡だったが、今となってはたいへん誇らしげに見える。

 彼は背筋をしっかり伸ばして、胸を張って僕を見下ろしている。そんな彼の視線を背中に感じながら、僕は子供たちの後に続く。麦畑の奥は段々になっており。その間にかぼそい水路が流れている。

 今度はその水路沿いを歩く。水路の上には次から次へと濃い緑の涼しげな木々が覆いかぶさっており、その木のトンネルは僕らをどこかに誘ってくれる予感がある。

 木々を通して向こう側にチーズ色の岩山がそびえたち、右から左へとそれらは連なっていて、青く濃く塗りたくった空の部分と山の端の部分が美しく孤高な一本の線を描いている。しかし木々のトンネルはまだまだ終わらない。木々が太くなってきているのを感じる。

 奥に行く程太く立派な古木になっていて屈強なトンネルを翁たちは水路の上に作っている。トンネルを抜けるとそこは翁たちが一面に枝と枝を絡み合わせて、広く大きな傘を天空に作っている。視線を足下に落とすと、辺り一面に湿原が広がっており、それらの一滴一滴に古木の深い緑から射す、輝く透明な光が反射している。

 その場所より一段高いところにも緑が広がっており、木漏れ日の下、自然の芝生が広がっていて、僕と子供たちはそこに大の字に横たわる。

 目の前の木々の間にできたサークルから青い空が顔をのぞかせる。白と黒と青が目にしみるようなカシャンブルーたちが、咆哮しながら僕たちの頭の高いところを旋回しているのが見える。そして子供たちが口々に云う。

「チクタン城の修復か。」

「エヘヘ。」

「直ったチクタン城ってさぁ。」

「うんうん。」

「なんか、こそばいなぁ。」

 湿原で遊んでいた子供たちが、手のひらに沢山の小魚を捕まえて戻ってきた。子供たちの手のひらで跳ねたり踊ったりしているたくさんの小魚が、午後のものうげで眠たげな光を受けている。僕も魚とりに参戦するが、なかなかうまく採れない。指の間からつるりとそれらは逃げていく。僕たちはとにかく夢中になって遊んだ。頭の先から足の先までどろんこになって遊んだ。そして青々とした芝生の上、僕らは午後の風が薫る中、横になってまさに泥のように眠った。

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 村に戻った僕は井戸の水でどろんこを洗い落としている。全身を石けんでしっかり泡立てる。水路の横にある水飲み場の井戸より水を汲み上げる。桶に水をなみなみと入れて、頭から一気にかぶる。何度も水をかぶり体についた石けんを奇麗に洗い流すと、最後にもう一度桶に水を汲んで、今度はそれを口に持っていく。

 午後の陽光を受けて輝きながらほとばしる豊潤ではんなりと甘い、桶から落つるその水は、乾いた僕の喉を一気にうるおす。僕は右手の甲で口についたその豊潤なやつをぐいと拭い取った。

 タオルで体を拭いている時、僕は一本の電話を受けた。7月下旬にタイ人・アメリカ人・フランス人の大学のグループ24人がチクタン村入りすると云う、しかも一ヶ月滞在したいという事だ。チクタン村始まって以来の出来事に電話のこちら側は湧き、僕の目も少し潤む。そして最後にアメリカ人は云った。

「チクタン城修復のために、いくら用意すればいい?」

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