2012年7月10日火曜日

20.チクタン村の話 その9。

チクタン側の峠を抜けて、波打つヒマラヤの峰々を通り抜け、最後の峠も抜けようとする所であっと息を飲む。界下から風が吹き上がり、その深い谷の下の方に緑の宝石が開けて来た。 「コクショー村だ」 なめし革色のヒマラヤの山々に囲まれたその美しい緑の村は、隠れるようにひっそりとそこに佇んでいた。村に中には小さなゴンパも見え、まるでここは時間が止まって現代ラダックからも取り残されたかのように感じられる。コクショーの峠から急斜面にあるつづら折りの道を車で降りていく。そのつづら折りを下り切ったところから見上げると、ゴンパが小高い崖の上に鎮座しているのが見えたので、僕たちはゴンパに続くなだらかなスロープを歩く。その小さめのゴンパをぐるりと一周して、正面に辿り着くと、扉に鍵がかけられており固く閉ざされているのが分かる。ゴンパのある高台から村を望むと、狭い谷に美しい緑が広がり、左手奥の山の麓にに村が固まっているのが見てとれる。その手前の麦畑のあぜ道に子供たちがこちらを見ている。ドライバーが大きな声で子供たちに何かを問いかけている。子供たちも大きな声でそれに答える。しばらくするとその子供たちがゴンパまでやって来ると、その手には大きな鍵を持っている。子供たちはその鍵でゴンパの扉の鍵を外すと、それは静かに開き、淡い闇の中にお釈迦様の座像が浮かび上がる。僕たちはそのゴンパに静かに入り込む。小さな窓からは差し込んだ光は、きしむ床にその姿を刻んでいる。鎮座している釈迦象は静かに微笑んでいるように見え、周りのほこりを被った木製の戸棚の中には数多くの小さな象が並んでいた。去年来た時には多くの僧たちが集っていたのだが、今日は姿が見えないようだ。このお寺には青い目をしたお坊さんがたくさん修行していたのを覚えている。このコクショー村自体はダルト系の民族が一番始めに住み着いた所だと言われていて、チクタン村と同じように多くのフォークダンスとフォークソングの無形の文化を抱えている。それが披露されるのは年に数回あるフラワーフェスティバルで、日にちは年ごとに違うし、特に宣伝はしていないのでドンピシャそのフェスに当たる日に、訪れるのはなかなか難しい。去年僕はいち早く情報を捕まえて向ってみたのだが、それでも一日違いでフェスを見る事が出来なかった。

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2012年7月9日月曜日

19.チクタン村の話 その8。

今日はチクタン村に嬉しいお客さんが来る。日本人の方がこの谷に入ってくるのだ。到着日程だけしか聞いていなかったので、到着時間は分からず、朝よりチクタン村の橋のふもとでバスかタクシーが到着するのをのんびりと待つ事にした。近くのカンジ・ナラの川の流れは勢いを増して激しい音をたてている。ヒマラヤの夏の日差しは眩しく日陰で待つ事のする。学校の昼休みに子供たちがおのおの家に戻ってくる。そしてその途中で子供たちが声をかけてくる。 「何してるの?」 「今日、日本人観光客がチクタン村に入ってくるんだ」 すると子供たちはとたんに目を輝かせ始める。 昼過ぎさらに太陽は眩しさを増す。鳥たちもこの暑さで木陰で羽根を休めている。彼方にチクタン城が見えるが陽炎のように揺らいでいる。しばらくするとまた子供たちは学校に戻っていく。

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2012年7月8日日曜日

18.チクタン村の話 その7。

黄昏に夜が忍び寄ってくる頃、毎夜チクタン村にエンジンの音がこだまする。 ・・・ドルゥン・ドルゥン・ドル・ド・ド・ド・ド すると柔らかな闇と星に包まれていたチクタン村にポツポツと光が灯る。夜8時、チクタン村の小さな小さなディーゼル発電所から家々に電気が運ばれてくる。発電所の近い家から順番に火が灯るのでクリスマスのイルミネーションのように光は動きそして走る。午後8時から午後11時までの3時間電気が供給される。たまに燃料が尽きて火が灯らない日もあるが、それも愛嬌だ。各々の家はこの三時間を使い、メディテーションや夕ご飯そして子供たちは勉強の時間に充てる。そして僕は夜11時が近づくと家の屋根に登る。小脇に寝袋を抱え、少しだけ傾いた古い木製の階段を軋ませながら登る。階段の出口は天に向かって開いており、その四角に切り取られたキャンバスには色とりどりの星たちが瞬いている。ついに屋根に登るとキャンバスは空一杯に広がり、天空は輝きを増し、ヒマラヤの右手の嶺から左手の嶺へ宝石を散りばめたような天の川がしんしんと流れている。屋根にブランケットを敷き、その上に寝袋をのせ、寝袋の中にももう一枚ブランケットを仕込む。さっそく寝袋に潜り込むと、屋根のいたるところから家族のヒソヒソとささやく声が聞こえる。チクタン村はモンスーンの合間の束の間の星空なので、今日は屋根で眠る人たちも多い。そして午後11時の音が消える。 ド・ド・ド・ド・ト・ト・ト・・・! チクタン村のほの暗い灯りが消えていく。ヒマラヤの静かな夜の中、消えた灯りの代わりにいっそう輝きを増す星たち。各家の屋根からは再び子供たちのささやく声が聞こえる。動物たちも眠りについたみたいだが、時折遠くの方からドンキーのいななきが明るい闇にこだまする。僕は寝袋を頭まですっぽり被り、目だけを輝かせながら、この時間を逃すまいと星空を観覧する。ヒマラヤの夜の空気は冷たく、吐く息は白く漂うが、寝袋の中はほんわかと暖かい。子供の時分は星座の名前をたくさん覚えていたのだが、今目の前に広がる星をみて、かなりの星座の名前を忘れてしまっている事の愕然とする。子供の時は覚えていたのだけれど、大人になり擦れっ枯らしになってしまい、忘れてしまった事が他にもないかと指を折って数えてみる。するとその刹那、天に舞った打ち上げ花火の消えた跡の残り火のような光が、サァーと四方に散らばり落ちていった。 ・・・流れ星・・・!! 目の端の方で瞬いては落ちていき、それは一人だったり、双子だったり、三つ子だったりする。それを目で追おうとすると、また目の端で瞬く。あっと思い、また目で追ってみる。各屋根からは小さな拍手が起こる。そんな時間が数分続くと流れ星も落ち着きを見せ始めた。しかし星たちの輝きは落ち着かず、この世に存在するあらゆる色彩を使って瞬いている。瞬きにもリズムがあり、一瞬大きく瞬いたかと思うと静かに沈黙に入る星、小さな瞬きを絶え間なく繰り返している星、大きな瞬きを絶え間なく繰り返している星、瞬かず強い光を発し続けている星、大きな瞬きと小さな瞬きを繰り返している星、宇宙は絶え間なく生きていて、今の一瞬を過去の一瞬とシンクロさせているこの瞬間の不思議さゆえのある種の感動が心の中に芽生えているのを感じる。またそんな刹那、目の端で光が瞬き広がり落ちていく。そんな流れ星のサーカスの公演は予告無しに始まり予告無しに終わる。北斗七星が傾いていき北の淵に沈んでいく頃、僕は深い眠りについた。 眠っている間も星の公演は続いている。そして夜がいっそう深まり、朝を待つ時間帯にポツポツと各々の家にロウソクが灯り始める。朝4時から5時の間に朝のメディテーションの時間が始まるのだ。しんしんとした静けさの中、眠い目をこすりながら村人は神に祈りを捧げている。 東雲の空が夜を静かに掃除し始めた頃、僕は静かに目を覚ました。山の端が白くなり始め、一番鶏が鳴くが、まだ日は昇っておらず、チクタン村は山の陰にあった。夜の生き物たちは眠りに付き始め、昼の生き物たちが目を覚まし始める時間だ。僕は寝袋から半身を起こし、両手に息をハァーと吹きかける。一日の始まりにある朝の冷たさは世界を引き締める。プリムスのガスバーナーに火を起こすと、その上にポットを置く。シューと鳴くバーナーの音は冷たい朝に溶け込む。静かな数分が過ぎ、ポットの中に紅茶の葉を落とす。葉は花開くように広がり、香りが立ってくると、茶こしを通してカップに紅茶を注ぐ。砂糖を少々落とし、一口味わうと、目の前のプラタンの台地の淵、横一直線に音無き閃光が走る。風がさっと吹き上がるとプラタンの端より朝の帝王が顔を覗き始め、そして万物の長い長い影が生まれる。そして太陽は朝を徐々に焼き始めるのだ。 人生における強烈な印象を残す瞬間というものがある。今のこの瞬間も、自身の中に大きく影響を及ぼし、何かが作られようとしているのが感じられる。身はうち震え、気持ちは高ぶり、精緻なこの刹那に五感が研ぎ澄まされ、昨日の自分の核の中に新しい核が生まれつつあるのが分かる。絶え間ない自己に内在するものとの葛藤は、この習慣に見事に融解する。まるでこの瞬間のためだけに自分が生まれて来たような感覚を感じる事ができる。自分の内に眠っていた野生なる部分は、静かに目覚めていく。自身を大自然に投げ出すと共に、それに同化されつつあるのが分かるのだ。 太陽と共にチクタン村の一日は始まる。 ツェボと言う名の手編みの籠を背中に背負って、あぜ道を畑仕事に向う女性たちの姿が見える。子供たちは家と井戸の間を行ったり来たりして水汲みに精を出している。朝靄の中、各々の家のタップの煙突からはあさげの支度の煙が低く長くチクタン村の谷にたなびいている。羊たちは各家の納屋から駆り出され、村の一カ所に集められ、羊飼いと共に今日も山に向う。こうして遥かなる昔より続いていた生活が、今日も当たり前のように始まった。

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2012年7月7日土曜日

17.チクタン村の話 その6。

モンスーンの季節の合間に顔を覗かせた良心的な太陽は、再び流れてくる雲をその強い日差しで追い払いながら、僕たちの様子を追いかけていた。見上げると鋭く天に向っている岩山の先っちょのところに、チクタン城が太陽を背に北の国の山百合のように咲いていた。足を一歩岩山の裾野に踏み出すと、山肌の表面を覆っている薄い岩肌が剥がれ落ちてくる。チクタン城に会いにいく方法は二つあり、一つは城下に広がるカルドゥン村側からマスジドの脇を通り、城の正面の岩肌の小径を辿っていく方法。こちらの方は安全でしかもチクタン城には早く着けるので、急ぎの用がある方や石橋を叩くのが好きな方はこのコースが大変お勧めだ。そしてもう一つはチクタン城の背中側から登って行く方法。こちらは小径がある訳ではなく、その日の崖のご機嫌や自分の体調や靴のすり減り具合をみながら、ルートを模索していく。一回の滑落で一つの命が無くなるので、命のストックが無い方は前者の城の正面からのコースを強くお勧めしたい。そして僕たちは後者の城の背中から登るコースを選んでいた。岩肌を手と足で掴みながら登って行く。右肩ごしにチクタン城の背中が見える。岩山のギザギザの山頂のところに石を組んで城が作られているのがよく分かる。よくそんな不安定な場所から城は滑落しないのかが不思議でならない。チクタン城はきっと僕の靴よりもいいものを履いているからだろうとそう思う事にした。そしてユスフはこの岩肌をまるでアイベックスのように岩から岩へ軽快に飛び移っていく。そして命のストックを持ってくるのを忘れてしまった僕は、滑落して岩肌に取り残された子鹿のようにビクビクしながらそこを登って行く。最後の岩に手をかけ”んっ”と懸垂するととにかくどうやら山頂に辿り着いたようだった。

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真近で見るチクタン城はまるでマンモスのようだった。古来が突然目の前に現れ、僕たちの心に何かを語りたがっていた。見上げるとその城壁は天を恐れる事なく空を支えており、それを形作っている石や土レンガはいまだ強固で、その中に時折見える木でできた柱やすじかいは、朽ちているものの当時の記憶を強く見せようとしているのが分かる。16世紀にマリク王により建造されたチクタン城は別名、ラジー・カルとも呼ばれていて、ラダックの素晴らしい王宮の一つとして名を馳せている。城が現存していた時代の写真は1909年に写真家のフランキーに撮影されており、その勇姿は写真からも十分伺える。 「シンカン・チャンダンもとてつもない仕事をしたね。いつ来てもこの城の偉大さに圧倒され、心臓がどきどき鳴るよ」 ユスフはそう言うとそっと胸に手を当てた。 シンカン・チャンダンとは16世紀の大工で、名工として名を馳せ、チクタン城を建立した一年後にレー・パレスを作り上げているのだ。 僕たちは城の外壁を何かを確かめるようにコツコツと叩きながら回り込み、その切れ目より内部に侵入した。チクタン城の内部はとても広く、険しい岩山の頂上に建っているとは、思えない程多くの部屋に区切られていて、崩れた外壁のレンガが内に無造作に散らばり、部屋は小さな庭のようになっていた。この異次元な光景を見たとき、シンカン・チャンダンの仕事の偉大さが自分に沁みこんできた。部屋床の岩肌の草の中から一輪の小さな花が咲いていた。その花の周りにはちいさな蝶が静かに舞っていた。そこは音も無く、昔の文明の気配が微かにするだけで、時とともにそれは大自然に同化されていき、動植物の楽園になっている。奥の部屋から城を守り続けて来たロボットが一輪の花を手に持って現れて来そうな気配であった。そしてこの無口な天空の城は何かを想像させるそんな気配であった。 一つ一つの部屋を散策していくと、ある部屋に数枚の石板が置いてある事に気づき、それには縦横斜めと細かく線が彫られていた。それはチェス盤のようでもあり、バックギャモンのようでもあり、オセロのようでもあった。それらは昔の人々が陣取りゲームに使った石板だった。兵士たちが城守の交代任務が終わってから、この静謐なる部屋で、ロウソクの火を便りに、あぐらをかき、腕を組みながら石板上の寡黙な兵士たちを動かし、いかにして自分の領地を広げるか、いかにして相手の領地を分捕るかに頭を悩ませていた。そして自分の領地が広がるごとに相手は愚痴をいい、自分は歓喜の声を上げ、周りで様子を見ている同僚は一緒になって喜んだり悲しんだりした。城守より敵が攻めて来たの報告を受けると、兵たちはその部屋から一斉に出て行き、各所の守りについたのであろうか。 部屋の窓枠は小さく、遥か彼方まで見通せるようになっていて、実際に覗いていると、チクタン・エリアの縁までしっかりと見渡せる。窓枠の形と大きさに切り取られてたチクタンは、遠くまで続いている緑があり、ヒマラヤの山肌のなめし革の色もまた彼方まで続いている。それがこの窓枠の絵画の中にある風景なのだ。そして僕は王様の部屋はどこだろうと探すが分からず、きっとあの崩れおちてしまった高い所の一番素晴らしい景色が見える部屋なのだろうと想像する。それからここと似たような場所を僕はふと思い出す。マチュピチュ遺跡だ。マチュピチュは土台しか残っていないけれど、このチクタン城はしっかりと城の形が分かる程残っている。そしてその崖の縁にへばりついている姿は同じに見える。ここに建造物を作った労力もきっと同じようなものだろう。気の遠くなるほどの高い場所に人力だけで作り上げていく。違いはマチュピチュはアンデスの天空都市であり、チクタンはヒマラヤの天空の城という事。このヒマラヤの天空の城チクタン城の美しさは、過去の偉大な写真家、冒険家、歴史家、商人、そして現代の凡庸な僕をも魅了した。過去でも現代でも青い空と緑の土地と悠久のヒマラヤに囲まれて建っているチクタン城のその姿は、湖上の花のように心の内の一片を漂う、そんな清涼な部分になり、ここを訪れるものにとって、必ずやかけがえのない記憶となって、人生の中で幾度も浮き上がってくる大切なものになるだろう。

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2012年7月6日金曜日

16.チクタン村の話 その5。

どこからかフォーク・ソングの調べが、のどかな朝に聞こえてくる。チュルングサ(チクタン村の中を流れる小川)方面がなにやら賑やかだ。僕はさっそく左に動物たちの小屋そして右に野菜畑を見ながらその小径をチュルングサに急ぐ。石垣の上や積まれた大木の上やチュルングサのを囲む少し広くなっている土地の淵には人だかりが出来ており、その中心には荷台にハイキング・グッズを詰め込んで来たトラックとその荷台から吐き出された大勢の子供たちが円を作りラダッキ・ダンスを踊っていた。周りの人たちに話を聞くと、スクルブチャン村のミドル・スクールの子供たちが先生を伴ってチクタン村にハイキングに来ているという事だ。 スクルブチャン村はチクタン村をカンジ・ナラに沿って下っていき、サンジャク村に出たら橋を渡り、インダス川沿いに遡っていくと見つかるブッディストの村だ。スクルブチャン村は切り立った崖を囲むようにして広がっており、その崖の頂きから中腹までふじつぼのようにゴンパがへばりついている。その光景は素晴らしく、僕はなぜここを通過して観光客はダー・ハヌーに行ってしまうのだろうといつも不思議な気持ちでいる。観光客がほとんど訪れないので、無垢なブッディストの文化が残っているのだ。もしみなさんが来られるのなら、こことセットにこの近くのタクマチク村やその他の村々も見てほしいと思う。タクマチク村は素朴だが、ゴンパからの眺めは最高だ。もちろんここまできたら、アチナタン村から深山に入っていき、ダルゴ村そしてコクショー村にも足を伸ばしてもらいたいものだと思う。コクショー村は山深いところに、何かから逃げて来たかのように存在するアーリアンたちが築き上げたブッディストの村だ。観光客などいないので、ラダックの純粋な仏教の遥か過去より冷凍保存されてきたものが目の前で解凍された状態で差し出される。このコクショー村を通り越して山を反対側に下っていくと、とうとうチクタン村が見えてくるのだ。 チクタン村の人々は、子供から大人までこのスクルブチャン村からやって来た予期せぬかわいい子供たちの踊りに目を奪われている。先生たちが料理を作っている間、子供たちはずっと踊り続けるのだ。円になったり、線になったり、バラバラになったり、音楽に乗って、くるくる回り、からからと笑う。チクタン村の人々の手拍子も熱を帯びてくる。その熱気の中、人々の重みに絶えられなくなったのか小さな石垣の一部が倒壊する。辛うじてその小さな災害から逃げ延びて来た子供たちから笑いが起こる。そして踊りはまだまだ続く。スクルブチャン村の子供たちが今度は一緒に踊ってくれる獲物を探してさまよい出す。そしてチクタン村の女たちは楽しげな悲鳴を上げ逃げ回る。スクルブチャン村の子供たちにチクタン村の女たちは手を掴まれると、踊りの輪に入る振りをして、一瞬安心して子供たちの手が緩んだところを振りほどいて逃げるのだ。結局最後に捕まったのは僕なのだが、僕は子供たちとともに踊りの輪に入り、踊り出す。そのラダッキ・ダンスはとてもシンプルのように見えて、見よう見まねで付いていくが、なかなか核をなす部分の動きがうまく出来ず、それでも四苦八苦しながら踊る。そんな僕の姿を見てスクルブチャン村の子供たちもチクタン村の人々も腹をかかえて楽しげに笑う。そしてついには僕も笑うのだ。

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午後からは少し雲が出て来たが、プラタンに登ることにした。プラタンとは今僕が滞在させて頂いている家の玄関を出ると正面にそびえている巨大な台形の山だ。チクタン城の近くから正規の車の道は続いているのだが、僕はチクタン村のイマンバラ(セレモニー・ホール)の背のちょっとした断崖から登る事にした。山肌はもろくて弱く、しっかりと足の裏で山を掴むようにして、谷側に重心をかけないように山側に重心をかけながら登って行く。中腹で振り返ると、チクタンの村の家々の頭はすべて見下ろせ、周りに山が迫って来ているのが見てとれた。断崖を横に横に移動しつつ回り込みながら頂上を目指す。最後の山肌に足をかけ体を頂上に乗せる。そこから見渡す限りは頂きは広い広い茶色の平野だ。その縁は深く谷に落ち込む奈落になっている。僕はゆっくりとその岩の砂漠を縦断する。頂上は風強く、縁に移動するに従って力を増していく。崖の縁に到着するなり、怖々とその奈落を覗き込む。吹き上げの風はとても強く、もし同じ風が後ろからきたら谷に吸い込まれてしまうだろう。その風の間より谷を覗く。谷には緑の宝石がひきつめられており、それらは風を気持ち良さげに受けている。谷はなめし革色をしたヒマラヤの山々に取り囲まれていて、その山々の中には先日、アイベックスの家族を抱いていたヒマラヤの山もすぐ目の前に見える。足下の断崖の切れ目にはたくさんの鳥たちが巣を構えており、そこから彼らは空中に体を投げ出すと、うまく気流に乗り、気持ち良さげに谷の空を滑空していた。僕はきっと飛べないので、飛び立つか立たないかの断崖の縁のところをゆっくりなぞるように歩きながらチクタン村の美しき緑の輝きを堪能すると、静かに違うルートを使ってプラタンから降り立ち、そして帰途についた。

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そして夜がきた。プラタンの頃の空は曇っていたが、風が雲を散らしてくれたのか、ぽっかりと空には穴があき、近日には見られなかったような美しい星がヒマラヤの夏の空を埋め尽くしていた。数十秒ごとに夜空を何かがキラキラしながら横切っていく。流れ星だ。空はこの世に存在するあらゆる色彩を使って輝いており、カンジ・ナラの空にも星たちの川がしんしんと流れていた。夜空を取り囲む山の陰は濃く、夜空の星もまた濃く、夜の時間も濃く、今宵の眠りも濃いようだ。深夜にあまりにも眩しいので目を覚ますと、窓の外で大きな大きな月が浮かんでいた。チクタン村の7月10日から7月15日までは、一年のうちで星と月とが一番美しく見られる暦だ。この季節になるとチクタン村の住人は家の屋根で寝る。満点の星空のもと、月明かりに照らされつつ、一晩中語りながら、屋根の上で過ごすのだ。この明るい闇に、人々の心は溶け込み、子供たちの思いは星の海を駆け巡り、夜深く煌めく星空に太陽のような月が昇ると、あたりは昼のようになり、時間を間違えた鶏は夜の第一声を上げ、誤って眠りについていた人々も、もぞもぞと起きだし、屋根に登ってはすべてのコスモスからチクタン村に集まって来たような星たちとぽっかり浮かぶオレンジのような月を見ながら、遥か彼方の山の中腹でアイベックスやスノー・レパードやヤクやナキウサギなどのさまざまな種類の動物たちも夜空を眺めているのを感じているのだ。

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2012年7月5日木曜日

15.チクタン村の話 その4。

「にわとりは?」
「コッカラ・コーン」
「じゃ猫は?」
「ミャオース」
「犬」
「ウオッ ウオッ」
「カシャンブルーは?」
「カシャ・カシャ・カシャ」
「じゃ牛は?」
「バーオ」
「山羊は?」
「マー」
「羊はなんて鳴くの?」
「バァ・バァ・バァ」 

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2012年7月4日水曜日

14.チクタン村の話 その3。

今日はチクタン村のお盆の日だ。早朝より村人たちはお墓参りに行く。お墓は高台の緑の農地が一望できるとこに作られている場合が多い。お墓の上には色とりどりの花が散りばめられており、ヒマラヤの山に眠るご先祖様の周りに集まり、歌を歌い、特別な食事をし、そして語らうのだ。日本のお盆とほとんど同じで、先祖を敬い、今を戒め、思いを未来に馳せる。しかしお墓の姿は日本の火葬と違い、イスラム教では土葬が主だ。世界で火葬が取り入れられている主な宗教は仏教とヒンズー教で、キリスト教やイスラム教は土葬となっている。最近は世界の学者たちの間でヒンズーとは宗教ではなくコミュニティの総称だという論議が沸き起こっているという話を聞くが、とりあえず宗教としておく。キリスト教とイスラム教だけでも世界のかなりの宗教の割合を占めるので、今や火葬を行っている宗教は必然的にマイノリティーに入ってしまう。また輪廻思想がある仏教での火葬は厳密に言えば完全な輪廻にならないかもしれない。なぜならば火葬する事により骨以外は灰になり、土に帰らないからだ。イスラム教の土葬の目的は肉体を完全に土に戻す事。魂は神のもとに帰り、肉体は分離して、その養分は草になり、花になり、木になる。または虫になり、鳥になり、野生動物たちになる。

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2012年7月3日火曜日

13.チクタン村の話 その2。

今日朝も村中に鳴り響く結婚式の始まりの音楽で目を覚ます。昨日今日と長い宴は今日も続く。昔は結婚式を一週間続けたという話も聞く。昨今ではそうもいかず、三日または二日と短くなっている。朝のチャイは気持ちよく喉の乾きを潤し、朝の食事は程よく空腹を満たし、朝のチクタン村の風景は心を満たしてくれる。僕の部屋の窓からは、プラタンと呼ばれる台形の巨大で美しい山塊が見られる。プラタンは朝は陽が背から射すので腹は影になっているが、朝靄に出会った時の幽玄な美しさは、幻想の中の詩のようである。

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2012年7月2日月曜日

12.チクタン村の話 その1。

朝6時頃、寝室で静かな音がしたのでゆっくりと目を覚ますと、枕元にはんなりと湯気が上がっている一杯のチャイとブレッドが置いてあるのを発見する。チクタン村の朝はカルギルと比べるとずいぶん寒い。目覚ましの暖かいチャイはありがたいと思うが、きっと僕は二度寝に入るだろう。そして二度目に目を覚ましたときは朝の7時半になっていた。朝から村内でなにやらにぎやかな音楽が流れている。今日はチクタン村の住人の結婚式らしい。6月、7月はチクタン・エリア内では結婚式が連日のように行われていて、チクタン村の一番忙しい時期の一つでもある。

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2012年7月1日日曜日

11.そしてチクタン村へ。

あるカルギルのよく鳥が鳴いて、よく空気が澄んで、よく晴れた日の朝、メモリーカードの中の数千枚の写真を消失してしまい、カルギル中の店をあたふたと駆け巡り、なんとか全ての写真のエスケープに成功した後、僕は再びチクタン村へ向かうこととなった。メインバザールのラルチョークをスル・リバーに向かい、プエン村に渡す橋の手前に位置しているタクシー乗り場から出発した。カルギル市街は日中交通規制が行われており、バルー方面からバザールへの道は通行可能で、バザールからバルー方面へは通行不可だ。バルー方面へ向う車は、ほんの少し遠回りをするスル・リバー沿いの道を迂回する事となる。スル・リバーは水量がとても豊富で、その強い水の勢いが時々川沿いの道を、ごっそりどこかへ持ち去ってしまう。そのすこし削り取られた道を左に見ながらバルー方面にタクシーは走っていく。そして3分程走り真っすぐ行くとバルー方面へ、スル・リバーにかかる橋を渡るとレー方面へと分かれる三叉路に出てくる。タクシーがその無骨な鉄橋を渡ると、面前に巨大な台地が立ちはだかる。その台地をつづら折りに山肌を縫うようにてっぺんに向う。スル・リバーを右手に見たり、左手に見たりしながらタクシーは走る。この台地の腹からスル・リバーの向こう側に広がるカルギルの街は大変美しい。水色のスル・リバーの向こうに緑光る場所が右から左へと広がり、その中に土と石で作られている家々が点在して、それの濃い部分が街を作っている。そしてその街はヒマラヤの山の中腹にあり、この山の後ろにも流れるように山ひだが続いている。ヒマラヤの山々と空の境ははっきりしているようだが、ヒマラヤ自身は天空の中にあるので、ヒマラヤも含めての空なのである。

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