Thursday 30 June 2011

45.ウルクトの結婚式。

 朝、ヘルス・セントレ・カルドゥンで薬を処方してもらう。軽い肺炎だった。昨日は一晩中咳き込んで夜を明かした。喘息の一歩手前の症状だ。このエリアの風土病でもあるこの病気は砂の多い場所でよく見られる病気なのだ。だからこのチクタン村にも慢性的な肺炎や喘息の人は多い。

 とくに子供たちの間で蔓延している。この砂が肺に入る事でアレルギーを誘発して咳が止まらなくなる。喉が痛くても喉飴などは使わない方がいいだろう。なぜならば飴によリ喉に付着した糖分は外部からの様々な菌をべたついたその場所に捕獲するからだ。

 そうなると次は一気に風邪の症状が併発して出てくる。泣きっ面に蜂状態になるのだ。このエリアの医療費は基本的には無料だ。政府が全て補助してくれているのだ。その点では非常に助かっている。そして僕はあまり体調が思わしくなかったがウルクト村へ向う事にした。

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 ウルクト村に入ってすぐの左側の家から祭り囃子が聞こえてくる。結婚式の飾り付けで着飾ったその家は新郎の家らしい。今日は新郎・新婦とも同じこのウルクト村出身だ。新郎の家の前を通過して、新婦の家に向う。結婚式は通常二日続けてあり、一日目は新婦の家、二日目は新郎の家でとり行われる。

 今日は新婦のサイドでの式なのだ。新婦の家の二階の窓から音楽が聞こえてきた。ダンス・パーティの最中のようだ。僕はこっそりそいつに忍び込む。玄関を入り二階へ続く近くの階段を登っていく。部屋の入り口には人だかりが出来ている。この八畳ほどの部屋に大勢がひしめき合っていて、真ん中には踊る場所が確保されている。

 そしてその場所の正面のレースのカーテンの向こう側には新婦がバグモ姿で座っているのだ。女たちが入れ替わり立ち替わり音楽に合わせて踊っている。音楽はバッテリーに発電機を繋げてその先にオーディオを繋げている。

 明かり取りの窓枠にも女たちが座っているので中は薄暗い。部屋の中はヒマラヤ杉が燃されており、それの匂いが立ちこめている。この使い方はムスリムがこの地域に入る前の、ブッディストたちの知恵で、ヒマラヤ杉の煙は肺に良いとされているし、その香りはハーブの役目もこなすのだ。

 今日は咳き込んでばかりいるので、ヒマラヤ杉の効能に授かろうと、とりあえずこの部屋にずっと居たかった。女たちの踊りはあまりよく見えず、かといって分け入っていくのも悪い気がしたので、僕は入り口あたりの壁にもたれてその様子をぼんやり眺めていた。

 ほの暗く赤く光が当たっている部分に女たちの影が大きくなったり小さくなったりして揺らぐ。パーティも白熱してくると伝統的な音楽は徐々に現代的な音楽へと変化していく。

 女たちは一体全体踊りをどこで覚えてくるのか?テレビ?学校?通信講座?すでに生まれた時には踊りの遺伝情報は持っていて、きっと女たちは華麗なフォークダンスを踊りながら生まれてこなければならない運命なのだろう。





 人は不思議なもので疲れてくるとどんな大音響の場所ででも眠れるのだ。たぶん今日処方してもらった薬の中に強めの眠気を誘う薬が入っていたのだ。僕は立ったまま壁にもたれてうとうとしている。

 そして僕は体を一回震わすと、次の瞬間には腕組みをしながらあごが静かに下がると、静寂の緑の湖に背中から沈んでいき、僕の目の前の小さな釣り船の船底が徐々に離れていく。そして次第に太陽の光も届かない悲しげな冷たい場所に落ちていく。眠りの底には見た事がない世界が広がっていた。

 細い迷路のような場所は石で上下左右覆われている。僕はその世界を走っている。追われているのか、追っているのか、皆目見当がつかない。その石畳の所々から草が飛び出していて、太陽は見えないのにどこからか明かりが差し込んで来ている。とにかく僕は急いでいる。何故だかわからないが急いでいる。

 途中で道が二つに分かれている。片方の道には塩とバターを体に塗ってお入りくださいと看板に書いてある。もう一つの道は近道と書いてある。

 あたりを見渡しても塩とバターらしきものがないので、僕は近道と書いてある道に入っていった。しばらく走ると石で出来たのトンネルは終わり、左右には背の高いくすんだ灰色のブロック塀が続いており、その左奥には赤提灯が灯っている屋台らしきものが見える。

 あたりは暗くなり始めて、西の空には宵の明星が輝いている。僕はその屋台ののれんをくぐり椅子にすわる。屋台の親父は灰色の毛並みのペルシャ猫だ。目の上に三日月型の傷がある。親父はトレンチコートを着て、中折れ帽をかぶり、自慢の髭を肉球で触っている。

 親父の後ろには木の棚があり、そこにはぎっしりと本が並んでいる。ざっと数えただけでも世界中のあらゆる本が揃っていそうだ。親父は「一冊選んでみるのさ。」と言う。その瞬間に僕のこれからの運命の全てが決まるそうだ。並び方は本が出版の新しいものが手前で古いものは徐々に奥になっていく。

 僕は3秒程熟考に熟考を重ねたあげく、手前から38765段、右から2445列、下から126段目の本をはしごを借りて登って引き抜く。手にした本のタイトルは宮沢賢治の「注文の多い料理店」。親父はその本を横目でちらと見てはくくっと低く笑い、本の一ページ目を繰った時に徐々に音楽が聞こえてきて、そして一回体を震わすと、僕は静かに目を開けた。

 ダンス・パーティは何事も無かったかのようにまだ続いていた。どうやら眠っていたのはほんの一瞬の事だったようだ。目を覚ましてもさほど夢の中の世界とそんなに変わっていない世界観に僕は新鮮な驚きを得る。まだむこうの世界にいるようでもある。

 大音響の中踊りは続く。そして踊りの途中でタマルクが振る舞われた。給仕たちが「ビスミンラ」と唱えながらみんなに配っているものは、タギ・カンビルで、その上に一片のバターとスライストマト、そしてその横には塩が盛ってある。僕はタギ・カンビルとトマトには目もくれないで、バターに塩をつけて舐める。

 やっとバターと塩が見つかったと独り言を云ってみる。みんなの手のタギ・カンビルを目当てにしている一匹の灰色ペルシャ猫は、人から人へとそれを貰い受けている。

 彼が突然こちらを振り返ると肉球で目の上の三日月型の傷を掻き始める。僕は右手で口元を隠しつつ数回咳き込むと

「しかし、効かない薬だな。」

と一人ごちる。もう一度頭を上げた時にはペルシャ猫はすでに居なくなっていた。

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Wednesday 29 June 2011

44.羊追い。

 黄昏時、山から戻ってくる羊たちのおかげでにわかに村内は騒がしくなる。汚れてすり切れた赤いジャンパーを羽織った羊使いに連れてこられた羊たちの群れは、村に入ると一斉に羊使いの手から解放される。羊たちの無数の土を踏む音と舞い上がった砂煙が、村人たちと羊たちの捕物帳協奏曲の序章の幕開けとなる。

 この瞬間から村人たちは自分の家の納屋に羊たちを連れ戻すための奔走が始まるのだ。もっぱらこの役目は子供たちが引き受ける場合が多い。村中の草をついばみつつ、村中の至る所に神出鬼没し、村中の至る所より姿をくらます鬼ごっこの達人の羊たちは時にはその遊びの熟練者の子供たちをも凌駕する。

 ある子は片手に火炎樹の小枝を持ち羊たちの後ろから「シー、シー」と声をたて追い立てる。ある子は進み過ぎた羊たちに後ろより「カタカタカタカタ」と声をたて戻ってくるように命令する。

 ある子は愛情不足のため言う事を聞かない羊が反対側に逃げようとすると、その鼻っ柱から数センチのところに火炎樹の小枝や小石を正確無比に投げ込む。羊からしてみれば突然目の前に現れた小枝や石の形をした悪魔の魔法の道具に驚き、顔色を変え、踵を返して戻ってくるのであった。

 もちろんうまくいく場合ばかりではない。逃げ惑う羊に翻弄されている子供たちもたくさんいて、村中がひっちゃかめっちゃかになったりする。

 役目を終えた羊使いが石垣に座り、ポケットからは小さな黄色い袋をつまみ上げ、それを手のひらにササッと振って噛みタバコを取り出し、それらを一気に口に放り込むと、子供たちが羊を追っている姿を映画館でポップコーンを食べながら鑑賞している観客のごとく楽しみ始めた。

 そしてその男がチンと手洟を見事に飛ばした直後、僕と目が合った。顔にしわくちゃで満面の笑みをたたえながらのその男の挨拶はどんな時でも右手を大きく振り上げて

「グッドモーニング。」

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 水路沿いの小径を羊の集団が無数の足音と砂埃を巻き上げながらこちらにやって来たが、僕の姿を見るなり集団の秩序が砕けたパズルの破片と化し、四方八方へ散らばっていく。谷に子供たちの怒号が飛び交う。

「その羊お願い。」

「これか?」

 と言いながら、僕は一頭の羊を追おうとしたが

「それ違う。あっちの。」

 そう言われて、注意深くあたりをうかがうと、もう一頭が奥の路地で草をついばんでいる。それは羊ではなく山羊だった。

「こいつね。」

 と言った先からその山羊は体をひるがえすと地面を蹴って村の家々が建っている斜面を駆け上っていく。僕はすぐにその彼を追いかける。彼が右手の家の角を曲がったので、僕も急いでその角を曲がる。目の前に続く小路は二股に分かれており、そのどちら側にも彼の姿が見えないので、僕は注意深く耳を澄ました。

 右側の辻の奥の黄色い花が咲き乱れている向こう側から何やら音がした。その花園の間から彼がこちらを伺っているのか、挑発しているのかは分からないが、僕が彼を見つけたのを確認すると、安心したのかまた彼は走り出した。僕は途中で気がついたのだが、僕の追跡が減速すると、彼の逃亡スピードも減速する。

 そして僕の追跡が乗ってくると、彼の逃亡にも磨きがかかってくる。きっと彼は僕と遊んでいるのだ。僕は仕事をしていると言うのに、なんて事だ。山の斜面の最後の家の辻を通り抜けて彼は加速した。そこを抜けると背後には台地が広がっており、その奥には乾燥野菜を貯蔵するための大きな洞窟状の横穴がある場所に出る。

 さすがにそこまで逃げられると追っても追いつめるような場所がなくなり、僕の力では捉えるのが難しくなる。僕も最後の家の横を通り抜けて、目の前に広がる広大なチーズ色の丘の前で立ち止まる。見渡してみても羊の姿は見えない。どこに行ったのだろう。耳を澄ましてみる。風の音と鳥の鳴き声しか聞こえない。

 これはまずい事になった。僕は小走りでその丘を移動する。左手を見下ろすと、一面に緑の谷が広がっていて、その谷のところどころに赤黄白の花が咲いており、その谷の奥まったところにチクタン・カル(チクタン城)が見えてくる。しかし下界の谷にも山羊の姿は確認できない。

 目を細めて丘の上に立ち上がる山に目を向ける。そこにも山羊の姿は確認できない。ただ真っ白い一片の雲が山の上をゆっくり流れているだけだった。

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 僕はゆっくりと潜望鏡のように360度目を凝らして眺めている。二羽のカシャン・ブルーが黄昏に輝きながら風に舞って遊んでいる。どこから迷い込んだのかミツバチが花のないこの丘で迷子になっている。街より戻ってきた古バスが砂埃と軋む音をあげ、お尻を振りつつ、カンジ・ナラ沿いを走っている。

 斜面の家で野生の猫が半開きになった窓を叩いて、狙った獲物を頂こうと慎重に様子とタイミングを伺っている。最後のタンポポの綿毛が多数気持ち良さげにこの丘の上空にも飛んで来ている。鴉が山の子のところへ戻ろうと鳴きながら茜色を背負って羽ばたいている。

 そんな時、視界の一番奥のところに何か揺らぐものが見えた。それは男だった。その男は何やら楽しげに歌を口ずさんでいるようだった。男は長い影と共にだんだんこちらに近づいてくる。その男は右手に火炎樹の小枝を持っていて、汚れてすり切れた赤いジャンパーを羽織っていた。

 僕は視線をその男の足下に送ると、あのじゃじゃ馬な山羊が猫をかぶったように落ち着いているのがしっかりと確認できた。そしてその男はチンと手洟を見事に飛ばした直後、僕と目が合った。その男は顔にしわくちゃな満面の笑みをたたえると、黄昏の中、右手を大きく振り上げてこう言った。

「グッドモーニング。」

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Tuesday 28 June 2011

43.真夜中のパーティ。

 部屋で書類を作成している時に、部屋に入ってきたメディの友人は僕に

「今夜、パーティがあるから来るように。」

 と一言云うと部屋を出て行った。

 僕は仕事を片付け、洗濯物を取り込んで外を見ると、黄昏の中に輝く白と黒と青で体を覆い尻尾が幾分長く美しい二羽の鳥、カシャン・ブルーが自分たちよりも大きな鴉を相手に、頭脳的な連携空中戦術を使い、一羽が滑空しながら鴉をつつき、嫌がる鴉は方向を変え飛ぼうとするが、もう一羽がその行く手に先回りしており、また鴉はつつかれる運命にある。

 その連携が続くと、嫌がる鴉の咆哮は薄い茜色の空に消えて、その黒い後ろ姿には敗北の二文字が滲んでおり、茜から漆黒に変わる空の曖昧な部分に向って鴉は溶けていった。

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 山の稜線に沿ってしか淡い光が感じられなくなっている時間に、僕は部屋から飛び出し、パーティ会場に向う事にした。とは言えその会場がどこにあるのか僕は聞き忘れていたのだ。

 チクタン村の中を流れる複雑な地形のチュルングスを足下に気を使いながら渡り、干しレンガの家々に囲まれた細い村道を歩く。次の角の向こうから西部劇の場末のバーで対峙する二人のガンマンの男のように、影が大きくなったり小さくなったりして揺らいでいるのが見えたので、そこを曲がりその男たちに聞く事にした。

「パーティ会場はどこか知ってる?」

「パーティ?知らないな。そんなのあったっけ?」

 男はもう一人の相棒に振る。

「僕も知らないなぁ。マスジドでの子供たちの礼拝のことを言っているんじゃないかなぁ。」

 相棒はそう答えると、男は言う。

「そこの角を曲がるとマスジドがあるから、とりあえず行ってみたらどうだい。」

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 僕は男たちの言うようにマスジドへ向う事にした。チクタン村のマスジドは白い肌にメヒンディの緑で彩色してある女性みたいにかわいらしいマスジドだ。

 その窓ガラスから幸福そうな光が洩れていたので僕は覗いて見る事にする。僕は窓枠に寄りかかり腕組みをしながら光の中を覗き込むと、子供たちが静謐の中、神におのおの祈りを捧げていた。

「アーメン」

「アラフマソアレー」

 僕は子供たちの祈りの姿を見ていると、たまにそれがイスラム教なのか、ロシア正教なのか、ギリシャ正教なのか、はたまたカトリックなのか、区別がつかなくなる事がある。大局的な違いは一目瞭然なのだが、それが部分になるとはかなく霧散する。

 東欧諸国の映画でよくこんなシーンが出て来る。そこは草原である。霧や霞が立ちこめており一寸先も見えない。しんしんとしたもの憂げで眠たいのに、どこからかロバの首にある鈴が「ちりん」と鳴る。すると微かに霧が引き、くすんだ白い小さな教会の尖った屋根が姿を見せる。建物の窓枠に寄ると、子供たちが静謐の中、神におのおの祈りを捧げている。

「アーメン」

 チクタン村の祈りは東欧映画の切り取られたシーンと本質は紛う事なく重なる。それは宗教の名状しがたい部分がフィルムに光と影となって焼きつけられ、見る物に深く刻まれて、ある事実に遭遇すると、その部分が記憶から突如よみがえり、双方の何物かの瞬く部分が同じに感じられるからである。

 そしてその部分には普遍的な形と意味を与えられようとするが、それをうまく語る方法を僕は知らない。

 中の少年の一人が外の窓枠のところにいる闖入者に気付き、回教聖職者が愚かな子羊の悩みを聞くように

「どうかされましたか?」

 と丁寧に聞くので、

「いえね、ここでパーティがあると聞いたもので。」

 まるで”一片のパンがあると聞いたもので。”と話す愚かな子羊のように僕が答えると

「ここはお祈りの場です。見ての通り僕たちはここで深く静かに神にお祈りを捧げています。ここではパーティはやりません。パーティの話も聞いた事がありません。お引き取りください。」

 回教聖職者ぜんとした少年はそう言い、静かにドアを閉めた。

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 さて困ったぞ。ますますもってパーティの場所がどこか分からなくなってきた。パーティが本当にあるのかどうかも怪しくなってきた。

 そう感じながらも僕は村中を奔走した。村は風が強くなってきている。時には動物小屋も覗き、時には新手の宗教の勧誘のように戸別にまわり、すでにその行為は興味でもなく義務でもなく緩慢な意味を失った惰性へと変わりつつあった。

 そしてチクタン村の村道の一番深いところを通り抜けると、突如として目の前に現れたのは、小高い丘とその上にそびえ立つ古い時代の遺跡ゴンマ・チョルテンだった。打ち捨てられたように佇むその姿は、奔走に疲れきった宣教師のような僕にはただならぬ愛情を感じた。

 リンチェン・サンポが建てたゴンパ跡らしいが本当かどうかはよくわからない。村人たちは彼の名前さえも知らないのだ。もし事実なら遺跡は1000年近く昔の物という事となる。村人たちの遺跡の興味はもっぱらチクタン・カル(チクタン城)という事となっている。

 そしてそれについて語らせたら留まる事をしらない村人もたくさんいる。しかしゴンマ・チョルテンについて語らせると村人たちは10秒ももたない。一言”ゴンパ跡”と言うだけだ。すでにゴンマ・チョルテンは村人たちから忘れ去られた遺跡なのだ。村の背中に静かに座っているのにも関わらずその話題が食卓に上る事はまずない。

 うずたかく積まれ朽ちた干しレンガの壁の一部だけが残っており、暗闇に浮かび上がるその姿の主の出生の秘密は、もしかしたら空に瞬く星たちしか知らないのかもしれない。

 先ほどまで吹いていた風が止むと、胡乱な空気は澄み、星たちは強く瞬くことでおのれを主張し始める。ゴンマ・チョルテンを背にして座り、空の色を数えながら、僕はそばに生えている雑草の葉をちぎると、それを口にもっていく。

 背の奥に広がっている山々の稜線はすでに瞬きがある場所と無い場所でしか区別が出来なくなっていて、無数が瞬く天のキャンパスに、山は巨大な生き物が星たちを食べた跡のような漆黒の色と影を落とす。遠くで水が流れる音がする。羊たちが鳴いている。複数の鳥たちの微かに鳴く声もする。そしてどこかの家からの赤ん坊の泣き声。

 ポケットに手を入れると指先にはアプリコットが触れる。それを一つ摘み口の中に放り込む。口の端からその種を地面に吐く。落ちた種を掴んで平らな石の上に置き、小さな石を叩き付けて割る。種の中にあるアーモンドの形のものを取り出し、またそれを口に放り込む。そして静かに目を閉じる。

 こんな自然の中では夜に教えられる事も多い。夜の自然はある側面での叡智の泉なのだ。こんな時ブービィエの言葉を思い出す。

「・・・”幸福”という言葉が、この身に起こったことを言い表すにはじつに貧弱で、個人的なものに思えてくる。結局、人がこの世にあることの骨格をなしているのは、家族でも職業人生でもなく、他人にあれこれ言われたり思われたりすることでもなく、愛の浮揚感よりも、そしてわれわれの虚弱な心に合わせて、人生がちびちびと分配する浮揚感などよりはるかに晴朗な浮揚によって掻きたてられるこの種の瞬間なのだ。」

 こうして僕はこの種の瞬間を知覚し、人が生きてく上での一番太い部分を創り出しているのだ。透き通る空で瞬く芳醇な無数の粒たちを指でチンと弾いて揺らしながら、僕のひとりぼっちの真夜中のパーティはこうして始まった。

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Monday 27 June 2011

42.チクタン村のつれづれなるままに 其の四。

 白無垢の自然の中に佇んでいる学校は、たとえそれが新築であっても砂は風に吹かれて、ほこりは彼の体で舞い、緑は彼の周りで容赦なく踊りつつ、気分が乗らないと太陽を隠したりし、動物たちの咆哮は彼の中でなにやら学んでいる人といわれる動物の声をかき消したりする。

 しかしそれらは決して悲観することではなく、自然が人間たちを受け入れた証拠でもあるのだ。そんな自然の枝葉のひとつである学校の標語はひめやかにかつ微笑ましくも"Human made is bad, nature made is good."だったりする。

 その学校を覗いてみると朝に歌われるのムスリム唱歌は時々牛や鶏の声が混じってくるが、子供たちの歌声はヒマラヤの幽谷に深くすこやかにそしてたくましくこだまする。

 チクタン村の学校はクラス1からクラス12まであり、この分け方は日本でいうところのクラスとは全く違い、学力の実力で分けられていて数字が大きいほど博識深いクラスだ。だから一つのクラスには、ばらばらな年齢の生徒たちが混在しているのだ。

 頭のいいといわれている子供はとてつもなく明晰で日本の小学校生くらいの子が中学生、または高校生くらいの子らといっしょのクラスだったりする。彼らの教科書を覗いてみると、日本では信じられないような難問を年端のいかない子たちがやすやすとまではいかないが、四苦八苦しながら解いている。

 数学や科学や歴史など(国語以外)の設問はすべて英語なので、それが理解できないともちろん設問はちんぷんかんぷんなのだ。でもちんぷんかんはちんぷんかんのままでいいのだが、そうなると毎年試験に落ち、上のクラスには上がれない事になるので、置いていかれないようにみんながんばる。

 ここで扱っている根幹の英語はイギリス英語で日本の義務教育が基軸としているアメリカ英語とは全く違うといっていい。複雑な論理展開と証明が組み込まれているイギリス英語は日本人からしてみると、やはり相当難解な語学だといえる。チクタン村の子は6歳くらいから英語教育を始める。

 子供たちのこのくらいの年から始めた英語は、苔むす深い森の部分に太陽が射し、露草の一滴の水滴が瞬くようなところにある大木が、その根から栄養豊富な恵みを目一杯吸い上げるかのごとく、吸収する。

 クラス11とかクラス12くらいの神童になると、チクタン村の学校でも手に負えなくなるので、カルギルやレーなどの教育が充実している学校に編入になるのだが、赤貧な家族は学校に行かせるお金がないので、クラス10くらいで打ち止めになり学校を卒業する生徒も多い。

 そして家業の農業だけを手伝う生活に戻るのだ。ここでも貧富の差が出て来る。大変難しい問題なのだ。もし村の家族にお金があり子供に大学まで行かせて卒業させたとしても、次は仕事の問題にぶつかる。このエリアでは農業以外にはたいして収入源になる仕事はなく、プライベート・カンパニーは皆無といっていい。

 ガバメント・カンパニーはあるにはあるのだが、やはり需要と供給の差が大きすぎて学がある人みんなが仕事にありつけるというわけではない。

 例えばカルギルを徘徊しているとカルギル・バザールのラル・チョウクあたりで人だかりが出来ている時がある。

 気になるので僕もそれに割って入っていくと、ショップ横のペンキが剥げかけた壁に、張り紙がしてあり、ボドカルブー村のミドル・スクールの教員若干名募集だとか、バルーのオフィス職員の空きができたので若干名募集だとかが採用試験の日付と共に書かれている。

 いつしか再びカルギルの街を歩いている時、「そういえば今日が教員採用試験の当日だったなぁ」なんて思い出して試験会場へ足を運ぶ。そして会場付近に集まっている人に話を聞くと、教員若干名の募集に8000人近くが集まってきているのだという。このエリアの_仕事の問題は底が見えないほど深くそして混沌としている。

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 夏はネパールあたりから大勢の労働者がカシミール入りして、インドの大事業を手伝ったりしている。その事業を三つほど紹介したいと思う。

 その大事業のまず一つ目は一年のうち数ヶ月しか通る事ができないという雪深くもあり悪名高いゾジ・ラに長く丈夫なトンネルを作って、一年を通じてスリナガルとカルギル、レーへと車が行き来できるようにする事業だ。

 今は冬の間でもカルギルの軍事空港からプロペラ機に同乗させてもらいスリナガルに行く事はできるのだが、狭い空港なので悪天候での冬期閉鎖が多く、そこらへんの村人が気軽に使えるかというとそうもいかない。だからどうしているのかと言うと村人は徒歩で雪中の峠越えをする事になる。

 峠の手前の宿は冬期の峠越えの村人で一杯になる事もあるそうな。たそがれの大禍時か夜中の暗闇も凍える丑三つ時に宿を出発して太陽が高いうちに向こう側の麓に到着するように峠越えをする。

 今までの峠越えが非常に困難だった事も考え合わせるとゾジ・ラにトンネルが出来た暁には、冬期は陸の孤島となる我がチクタン村の人々も、少しは生きやすくなるだろう。野菜などが欠乏する時期に凍てつき閉ざされた極寒の峠を頭上に感じながら、トンネルを使って都市間移動ができる事は村人がずっと待ち望んでいた事である。

 冬でもチクタン村では乾燥野菜以外の野菜や他の食料が手に入ると言う事は、人類が宇宙ステーションで生活できるようになった事よりも切実な進歩になるのだ。ところでこの乾燥野菜というものは、村で作った野菜をチクタン村の背中にあるおおきな岩山の浅く広い洞窟のような場所で貯蔵して乾燥させるのだ。

 この地で生きて行くための先人たちから受け継いだ知恵であり、また1999年のカルギル紛争の時は一年を通じてまさに離れ小島になっていたので、この貯蔵乾燥野菜はたいへん村人のためになったのだ。

 でもこの事業の完成までにはあと10年もの歳月がかかる。そしてこの事業も本当に10年で完成するという見通しはたっていないのだが、村人たちは信じるしかないのだ。

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 そして大事業の二つ目は巨大水事業だ。これは世界中で定期的にニュースになるので、知っている人も多いかと思う。もう一つの紛争。水紛争の話だ。インダス川の上流部分を中国に押さえられているので、有事の時、ここを止められたらラダックのみならず、カシミールの人たちはたちまち生きる事が難しくなるだろう。

 これはメコン川上流を中国に押さえられている東南アジアでも同じ問題起こっており、こちらの方が今は切実らしい。水質の悪化に留まらず、中国側のダムにより水が痩せたり太ったり自由に操作されているので、東南アジアでは災害が後をたたないし、それを外交の手段に使われたりしている。

 そしてインド政府はというとインダス川に頼らない大規模な水政策を展開しようということになる。それはヒマラヤ山脈やカラコラム山脈にトンネルをいくつも作ってインダス川以外の水源から水を直接主要な街や村々に届けるという巨大事業だ。

 すでに完成しているのもいくつかあり、僕が確認したものでは、カルギルのプエン村のトンネルから豊富な水が滝のごとく吹き出しているイクバル・プロジェクトと言われる事業。

 もう一つはヨクマカルブー村から深山の高いところに分け入ると、マーブルマウンテンと呼ばれている山があり、そこの山頂に近いところから水のトンネルが引かれていて、そこは隠れた観光の名所になっていたりする。

 最後に現在進行中の水事業はスル谷のミンジ村から進められているHCC・チュトク・プロジェクトという巨大事業がある。これはカルギルに巨大なオフィスがあるので、そこで話を伺う事ができるし、現地のミンジ村で工事の様子を見学する事も出来る。

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 そして三つ目の事業は電力事業だ。ローカルバスに揺られて仰ぎ見る山脈の荒涼としている甘いチーズ色の風景の中を走りながら目を凝らすと、羊たちの群れとともに作業途中の銀色鉄塔がところどころに点在しているのが分かる。

 今、山深い村々の発電は村ごとに小さな小さな発電小屋で発電された線香花火ほどのちいさな電力を村の家々に送電しているのだけれど、これは前述したように日に4時間程しか送電されないし、不安定なので、現在は完全に電力にたよる生活はほとんど期待できない。

 携帯電話の充電か、ほのぐらい電灯を点灯させるかくらいの使い道である。でも現在行われている電力事業はスリナガルの大規模な発電所から山脈を越えて、渓谷を渡り、川を渡り大量な野太い送電線を引っ張ってきて各村々に電力を送ろうという事業なのだ。

 これが実現すればチクタン村の人々もまたまた少しは生きやすくなるだろう。漆黒の闇に明かりが灯るのだ。子供たちが足を踏み外して暗闇の中トイレに落ちる事もなくなるだろうし、子供たちが暗闇の中転んでストーブに突っ込むという事もなくなるだろう。

 いろんな村々を歩いているとガスストーブや薪を焼べたタップに転んで突っ込んで怪我をした子供たちが非常に多いのに驚かされる。昔ながらの質素な生活はいいかもしれないけれど、今の技術で回避できる事故だけは、避けなければならないし避けられてしかるべきだと思う。

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Sunday 26 June 2011

41.チクタン村のつれづれなるままに 其の参。

 チクタン村の人々の食事は実に質素なものである。主食は米と小麦。米の料理はバトーと呼ばれ、あつあつのご飯の上にかけるスープが何であってもその料理はバトーである。

 スープにはいろいろな種類がある。塩とチリと野菜。チリとマサラと野菜。羊の肉とチリマサラスープ。チキンとチリマサラスープ。

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Saturday 25 June 2011

40.チクタン村のつれづれなるままに 其の弐。

 チュルングスの方が何やら騒がしいので行ってみると、男と女がけんかをしている。そしてその男女を取り巻くように村人たちが興味深くその様子を伺っていた。女はスコップでチュルングスのストリームから支流作って小麦畑に水を引き込もうとしている。男はその支流を壊しにかかっている。

 男が壊すと女は大声で男を罵倒しながらまたスコップで支流を作り始める。男が壊す。女は男を罵倒する。女は支流を作る。そしてそれが繰り返される。日にはんなりと焼けた女の容姿は美しく、そんな容姿とは裏腹に声は野太く低く谷を揺るがすほどの大きな声で女は男をののしり続けている。

 男は小男で寡黙にかつ精力的に支流を壊し続けている。遂にこの展開に終止符が打たれる事になる。女は突然力一杯男を突き飛ばすと、男はチュルングスに向ってゆっくりと崩れ落ち、大きな水を叩く音とともに尻もちをついた。男は立ち上がって何かを言おうとしたが、すぐに口を紡いで、頭をかきながら退散していった。

 村人たちもこの決着に満足したのかしないのかは定かではないが、静かに散って行った。村の小さなこの出来事は食事の席で村人の話題にのぼる事もなく、極当たり前すぎる口に出す程でもないささいな日常を僕だけがこっそりとここに書き留めたわけである。

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ジャファル・アリ邸の入り口の扉の横の朽ちかけた椅子に座って読書をする。村の昼間が温かい快晴の日でも夕暮れ時はぐっと気温が落ち冷え込んで来る。天気が悪く風が強い日はとても寒く読書なんかしていられない事もある。僕はマウンテンジャケットを着込んで、ジッパーを一番上まで引き上げる。

 チクタン村に来てから数冊の同じ本を何回も繰り返し読んでいる。今は集中して読む事よりも、内容は把握しているので目を文字の上にただ漂わせているだけというのが本当のところだ。そしてこの黄昏時のチクタン村の自然を同時に楽しんでいるのだ。

 夕暮れの中こがね色の光を浴びて岩山にその影を射す名前も分からない鳥たち。集団放牧で山に戻る黒い鳥たちと入れ替わりに山から戻って来る黒と白と白黒の無秩序な秩序の羊と山羊たちの群れ。火炎樹の小枝を手に手に持ちつつ山より戻ってきた羊と山羊を追い立て自分たちの家にある家畜小屋に彼らを入れようと四苦八苦する子供たち。

 気温が下がった夜の間に自分たちの畑に水を通そうとしているその堅牢な肩に長いスコップを引っ掛けて畑に急ぐ良く日に焼けた顔の男たち。

 平らな石の上に衣類を広げて赤い色の石けんをそれに擦り付け泡立たせてチュルングスの水で汚れを洗い流そうとしている時に、スカーフが濡れないようにと右手でひらりと首に一つ多くそれを巻く女たち。

 大きな古い金属の桶の中に沢山の汚れた食器を入れて厚く青々と葉が茂る木陰の水路でそれらを一つ一つ丁寧に洗っている子供たち。そんな村の協奏曲を楽しみながら僕は今日も木陰で本を読んでいる。

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 チクタン村は一日に4時間しか電気は通らない。朝は4時から5時の間(これは朝のお祈りの時間帯)。夜は8時から11時の間(ウィンタータイムは夜の7時から10時の間)。

 電気はチクタンエリアのマクリーションにあるディーゼル発電所からおくられてくるのだが、それは発電所というよりも小さな小屋であり、軽油を使いささやかな発電をしているのである。

 そしてついこの前そこで働く男が定年退職して、新しい男に職を譲ったのだが、この男の仕事方法がまだ成熟の粋に達しておらず、突然明かりが切れたり、寝坊をして朝村に通電されずにいたりとまだまだなのだ。それでも昔は電気自体が無かった訳で、そんな時代の時と比べると随分便利になったものだと老人たちは口々に言う。

 今は村には車もあるし、耕耘機もあるし、日本ではベスパと呼ばれている中折れ帽にストライプのスーツを着て工藤ちゃんが乗っていたあのバイクはあるし、チクタン村の今の時代はやはりとてつもなく便利になっているのだが、それでも村の人たちは昔の文化も大切にしていて、ある一つが便利になったからと言って昔の技術を完全に捨てるわけではなく、そこのところの折り合いが非常に難しいところなのである。

 でもやはりなくなってしまった昔の技術も掘り出せばある訳で、例えばランタックと言われるウォーターミルがある。これは日本で言うところの石臼なのだが、石臼が水路に仕掛けてあり、水の力でそれを回して小麦を挽いて粉にしていくものなのだ。

 あなたが村内の小麦畑のあぜ道をどこ行くともなく歩いていると水路に石作りの小さな小さな古い小屋が建っているのを見つける事が出来るだろう。

 そしてその小屋の中をシュクリアラーとかインシアッラーとか呟きながら覗いてみると中に見事なかつ使われなくなって久しいランタックが一人寂しく隠居生活を送っているのを深山生活で神経が研ぎすまされているあなたはおそらく気づくはずだ。

 彼があまりにも寂しくしているのであなたは声をかける時期を逸っするのだが、やはり朽ち果てていく文化が目の端の方で漂っているのを見ていると、あなたの心の中に一抹の寂しい風が吹き抜けるかもしれない。

 それが一旅人のわがままな一方的な寂しさなのか、はたまた村人もそう感じているのか、かれらの笑顔の奥に隠された心中は山慣れしたあなたにもわからない。

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Friday 24 June 2011

39.再びクッカルツェの結婚式。

 今日もまた結婚式がある。この前と同じクッカルツェ村でだ。新婦がクッカルツェ村出身で、新郎はここからおおよそ20キロほど離れたところにあるサンジャク村の人だ。今日は新郎の親戚や友人たちがクッカルツェ村の新婦を奪いにくる日なのだ。

 今日が終わると明日はサンジャク村で続きの式が執り行われる。新婦の村、新郎の村両方の結婚式をたくさん僕は見てきたけれど、やはり面白いのは新婦の村の結婚式だ。友人たちが新婦の前で踊るダンスは楽しいし美しい。彼女たちのダンスはフェスティバルかこのような式の時でないとお目にかかれない。

 フェスティバルの踊りは形式張っていて、僕にとってはあまり面白いと感じられなく、こういう結婚式の時の踊りは彼女たちが本当に楽しんでいるのが伝わってくるので、こちらまで心楽しくなるのだ。今日は最高の天気に恵まれて結婚式日和である。

 クッカルツェ村へ向う道すがらツェポと言われる木の枝で編んで作られるかごを背負っている女たちとすれ違う。そのかごの中には今日の結婚式の贈り物が詰め込まれているのだ。ブランケット、枕、鍋、杯、小麦、テレビ、など様々な生活用品が贈られる。

 そして今日のチクタン・カル(チクタン城)は初夏の日差しの中一段と美しく輝いて見える。青々と煌めいている小麦畑の中を歩いていると鳥たちが驚いたように一斉に飛び立つ。岩山にも初夏はやってきており、岩山に申し訳なく作られている数多くの穴が彼らの新しい巣なのだ。

 その穴蔵の中にはたくさんの鳥の赤ん坊が親鳥の帰りを待ちわびている。そんな景色の詩を感じながら歩いていると祭り囃子が聞こえて来るのでクッカルツェ村が近づいてきた事がわかる。朝の10時、平日にも関わらず近隣の村々から続々と人が集まって来る。

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 クッカルツェ村の新婦の家の隣にちょっとした広場があり、そこに天幕が貼られてその奥に新婦は鎮座して、来客の対応に追われていた。

 新婦は赤いベール(バグモ)を深くかぶっており、そこからは表情をうかがい知る事はできないが来客との面会で常に大きな声で泣いているので、今は結婚の嬉しさよりも親族や友人たちのいる村を離れていく悲しみの方が大きいのがわかる。

 でもそんな彼女でも明日になって、新郎のいる村で執り行われる式では、昨日の悲しい気持ちは消え、その気持ちは結婚の嬉しさにきっととって変わるのだ。しばらくすると新婦の面前に友人たちが集まってきてダンスが密やかに始まった。

 最初は一人が音楽に合わせて静かに踊っていたのだが、徐々に友人が増えて行き入れ替わり立ち替わりの賑やかなダンス・パーティとなる。赤や黄色やオレンジや緑や黒のさまざまなダホン(スカーフ)が揺らめき、熱をおび、女たちは踊り続ける。

 足先から指の先まで音が絡み付き、それらを女たちは熱くめまぐるしく揺らぐ事で巧みに絡みとり、女たちのその姿は天へと昇華していくミューズのように美しい。こうして新婦の悲しさは踊りの女神たちがいっときぬぐい去ってくれる。



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 このクッカルツェ村にはブッディストがひと家族だけ住んでいる。もちろん彼らもこの村を挙げての結婚式には参加する。天幕の外に出て、ざっと見回してみるとすぐにそれとわかる伝統的な衣装を着て式に参加しているブッディストの姿が目に入る。

 この服の名前はゴンチャと言うのだが、ムスリムもこのゴンチャを着る。同じゴンチャを来てもムスリムとブッディストの違いは一目瞭然でわかる。ブッディストはスカーフを頭に巻いても耳を出しているかスカーフをしていない。

 しかし極まれに完全にムスリムスタイルでスカーフを巻いているブッディストもいるので、そういう方たちはお手上げで見分けがつかない。また逆のパターンもあってどこからどうみてもカシミリーフェイスなのに実を言うとブッディストだったという事もあったりする。

 事のついでに人種の話だが、ダー、ハヌー、ベマ、ガルコンあたりの人たちはアーリアンと言われていて、ラダッキともカシミリーともプリキーともひと味違う顔立ちの青い目とかぎ鼻に濃い髭と言うのが特徴的なんだけれども、実を言うと彼らは日本人顔でもあるのだ。

 どういう事かというと、北海道の網走地区にウィルタ族とニブヒ族の日本人が住んでいて、彼らはアイヌとも違う一族であり、昔サハリンから渡ってきたりしたのだが、彼らの特徴も青い目とかぎ鼻に濃い髭なのだ。

 実際に双方と会って話しをしてみたが、全く見分けがつかないので、きっと大昔は同じ民族だったのではないかと推測されるし、実際にそういう説を唱えている偉い学者さんがいるそうな。

 インドは他民族国家だが日本も狭い領土なのに以外と他民族国家なわけで、小笠原諸島にも昔々に渡ってきたとある民族の青い目の日本人が住んでいたりする。

 脱線したので話をクッカルツェ村の結婚式に戻そう。日本的な整然さの式は伝えるのが容易であるのだが、ムスリム的な混沌から発露されるものは、手のひらで救い上げて伝えようと思っても一面的ではないので、指の間からこぼれ落ちる事象の方が多くてなかなか伝えづらいものである。

 まぁとにもかくにもクッカルツェの結婚式はブッディストもムスリムも仲良く入り交じっての式であるので賑やかでかつ楽しいのだ。

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 最後は新婦の化粧直しの後、車に乗り込んでサンジャク村に向うのだが、やはり別れはいつの時代も悲しい物である。有史以来このわかれと言う物は数知れず行われてきたのであるけれども、人類の歴史は別れの歴史でもあるのだ。別れの記録をひも解き、世界中から集めて本にするだけで分厚い何冊もの歴史書ができそうである。

 そして新婦は車までのわずかな距離を親族たちと最後の抱擁をしつつ大泣きする。足もとは悲しみでおぼつかないので両肩を友人に抱えられて歩く。そしてまた大泣き。新婦のバグモ(ベール)の深いところから流れ落ちる涙は少し離れていても感じ取る事ができる。

 この時期のチクタンエリアでは至る所で結婚式が行われているので、辻を流れるカンジ・ナラの水は数多くの新婦の涙で作られているといっても過言ではない。どうりでこの季節のナラの水はほんのちょっぴりしょっぱいわけだ。こうして新婦は車に乗り込むと親族と友人そして涙を残してサンジャク村に向かうのである。



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Thursday 23 June 2011

38.マクシマの独り言。

 私は今日も朝の4時に目覚めると、朝のお祈りをする。外はまだ暗いみたい。お兄ちゃんのメヒディは朝はかなり弱いので隣の日本人の部屋でまだ夢を見ていると思う。お祈りが終わると今日学校でする授業の予習だ。朝早い時間は頭が良く回って、なんでも覚えられる気がする。

 私の足下にはお姉ちゃんの子供のアシアが寝息をたてている。アシアもお兄ちゃんと同じで朝がめっきり弱いのだ。目覚めたては泣いているか怒っているか、どっちかだ。昼間と寝ている時はいい子なのに起きたては、まるで聞き分けの無い子羊のよう。

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Wednesday 22 June 2011

37.再びサムラ村で結婚式。

 6月は結婚式が多い月であるが、9月10月はもっと多く毎日のようにどこかで結婚式があると言う話を聞いた。だから9、10月のチクタンエリアは結婚式で作られているようなものなのだ。でも今は6月、だけども日本のそれよりも結婚式が多いのは確かだ。

 結婚式が多いと言う事は子供も村には沢山いると言う事になるのだが、僕がお世話になっているジャファル・アリ一家もご多分に洩れず家族数が多い。彼の子供は12人いる。

 だから朝はもう毎日大忙しだ。中にはかなりの寝坊助もいるし、頭のボーがとれずに朝は泣いてばかりの子もいるし、逆に朝が大好きでとんでもなく元気な子もいる。そして僕は毎日そんな朝の混沌の中で朝食を食べる。それもまた心楽しいのである。

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 結婚式の朝もマイペースに目を覚ましたのだけれど、遠くの方からバスのクラクションが谷をこだまして、僕の布団の中にまでそれが聞こえてきた。僕の頭は一瞬にして覚醒した。どうやら寝坊してしまい乗るべきバスに乗れなかったようだ。

「サムラ村まで歩いて行くか。」

 そう思ったら少し気が楽になって、もぞもぞと布団から這い出て、チュルングスにて石けんで泡立てた頭を洗い、顔を洗い、歯を磨く。

 チクタン村の水は朝の光を内包していても決してぬるくはなく、肌に冬のナイフを当てたようにキンと冷たい。そうしているうちにチュルングスを遡上して来る車が見えたので僕は車に道を譲ろうと思い立ち上がると、その車は僕の目の前で突然止まり、中からアブドゥル・ハミッドが出てきて一言。

「サムラ村まで乗せて行ってあげるよ。」

 日頃の行いはあまり良くないのに不思議な事に神のご加護があったらしく、こうして僕はサムラ村まで車に乗せてもらえる事になったのだ。

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 サムラ村は六月のモンスーンの時期には珍しく空が高く突き抜けて、昼までも星が見えそうな程の快晴で、風もなく、式が日曜日に重なったのと新郎の家から聞こえる祭り囃子に乗って人の出も徐々に増えて来る。新郎新婦の部屋は一階と二階で離れており、ひっきりなしの面会のお客は後を絶たない。

 そして僕は新婦の部屋にお邪魔した。すでに集まっている女性たちのおしゃべりが弾んでいる。みんな普段着なのでどれが新婦か皆目検討がつかない。その中で一番おしゃべりな女性に目がいく。そして聞いてみると彼女が今日の新婦という事だ。

 まだ式が始まるまで数時間あるので新婦も普段着なのだが、まるで今日が結婚式だというのを忘れているかのようなはしゃぎようだった。そして僕は次に新郎の部屋に通された。新郎も普段着姿だが落ち着いていて、親類たちとと低く囁くような声で話をしていた。

 そしてその中に僕は一人の男を見つけた。男はクッカルツェの結婚式にもサムラ・ルンマの結婚式にも顔を出していて、そして今回の結婚式だ。男は式のムード・メーカーであり、進行役であり、踊り手であり、歌い手であり、祈り手でもあるのだ。

 その多彩な男は式では欠かす事のできない役者だ。男は口ひげを蓄えているが、笑った顔は目元に子供が潜んでおり、初夏のさわやかな日差しのような男だ。ビデオを回すと男はご機嫌に踊り始めた。

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 僕はというと写真を撮ったり、動画を撮ったり、知り合いと他愛も無いおしゃべりをしたり、出される前の料理をつまみ食いしたりするのに余念がなかった。そうこうしてるうちに陽が高く登り、昼が近づき、みんなはセレモニー会場に集まり始める。

 そして新郎が初夏のさわやかな日差しのような男の祈りの声に乗って登場すれば会場は盛り上がってきて、次に新婦が親類に囲まれながら山の高いところにある家から降りて来ると、宴もたけなわになってくる。食事が次々と運び込まれる。

 そして賑やかなる中みんなでの食事が始まった。宴も終焉に近づくと初夏のさわやかな日差しのような男が祝詞を唱えて、みんなは絶妙なタイミングで「アーメン」の相づちを入れて行く。まるで歌舞伎の観客席から飛ぶ間の手のようだ。そして静かにかつ粋に結婚式は終わりを告げた。

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Monday 20 June 2011

36.チクタン村のつれづれなるままに 其の壱。

 夜中に一度目が覚めた。

「水道の水が流しっぱなし・・・。」

 そう僕は寝ぼけていたのだ。水が流れる音は水道からの音ではなく、外を流れる疎水が一段低いところへ滴り流れ落ち続ける音だったのだ。たまに通勤ラッシュの夢などを見て目を覚ます事がある。去年まで現実だった事が夢の世界だけの出来事となって、去年まで夢で見ていた出来事が現実の世界になってしまっているのだ。

 夢から覚める時、一瞬にしてその出来事は入れ替わり頭の中は短い間混乱する。混乱のまま再び眠りに入れば目が覚めた時、現実と非現実が入れ替わっていそうで少し怖い気がする。でもそんな心配とは関係なく朝は来る。7時になると窓から見えるプラタンと言われる岩山の台地の端から陽がゆっくり昇り始める。

 細く柔らかい何本もの虹のような日差しが窓を突き抜けて僕のまぶたを軽くノックする。鶏は朝日が昇る前の薄暗い時間よりざわめきわくわくしだしているのだが、そのくらいの音では僕のまぶたは固く閉じられたままなのだ。

 でも朝の日差しにノックされた僕のまぶたはたまらなくなってゆっくりと開け始め、僕の頭も徐々に覚醒し始める。まるで静寂の湖に浮かぶ一艘の小舟がゆっくりと動き出すように。

 その船の静かなる波紋は僕の少し離れたところに寝ているメヒディを起こす程強くはなく、彼はお母さんに叩き起こされるまで静かな寝息をたてている。そして僕の枕元にはいつも入れたてで熱々のミルクティーがクッキーを伴い白い湯気を立てて用意されているのである。

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 僕はタオルを首に掛け、インド製の石けんと歯ブラシそしてチューブを右手に持ち、左手には使い古されて金属の光沢も無くなっているが、それが逆にいい味を醸し出している水差しを持っている。

 深山から深いところにしみ出して出来た芳醇な地下水に繋がる井戸から汲み上げたばかりの水を水差しに入れて、ジャファル邸の表扉の面前で一段低いところに滴り流れ落ちている疎水に草履を引っ掛けて向かう。手のひらに少量の水を水差しから確保して顔を濡らす。

 そして水差しから直接少量の水で頭を濡らす。石けんを少し濡らして顔に直接走らせる。顔を走っている石けんの速度が上がってきたところでそれを頭に持って行きそこで存分に走らせる。十分に泡立ったところで、水差しの残りの水を頭と顔にかけて石けんをきれいに洗い流す。

 そして水差しの水を一センチ程残しておいてそれを使って歯を磨く。濡れた頭をタオルで拭きながら、歯を磨いていると右から左にカシャン・ブルーが飛んで行き、羽をより大きく広げて減速すると、麦畑に静かに着地する。

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 朝の日差しの中、歯を磨きながら、濡れたタオルで頭を乾かす時いつも思い出すのが、愛車アウトビアンキを伴っての北海道での長期に渡るキャンプ生活である。その記憶は僕の心と体に深く光と影を刻んでいて、旅に出た時はいつもその経験を知らず知らずに基軸にして物事を考えるようになっている。

 そこでは本物の自由人を数知れず見てきた。社会という枠に捕われる事無く枠のこちら側と向こう側を行ったり来たりしながら生きている。自身で廃材を集めて家を建てるもの。ジプシーのように住処を自由に移動しているテントが我が家の者。そしてそのテントから通勤してるOL。外人部隊崩れのサバイバル生活者。韮山某自由博士。

 まぎれも無く彼らは純粋で逞しく、思い出すと思わず目を細めてしまうような愛すべき自由人たちだった。そしてこのチクタン村もまた自由人たちがたくさん生きている。

 しかし日本の自由人は束縛された社会からのアンチテーゼ的な生き方の人たちが多かったのだが、ここチクタン村では、現在のインド社会が確立されるずっと以前から人々の営みは変わらず、しかも宗教や国が変わっても同じ自由な生活で、質素に、牧歌的で、自給自足的で、伝統的文化は大切にされ、それら全てのことがらは村人に愛され続けて、そしていつの間にか今は世界中の先進国と言われている国々に暮らす人々から注目されている。

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 その事について、満天の星空のもと、富良野の吹上の湯につかりながら、愛すべき自由人から聞かされたこんな小話が思い出される。

 西洋のとある国の会社経営者が休暇を利用して太平洋に浮かぶ小さな島にバカンスでやって来た。島人は朝、海に小舟を出して今日食べる分だけの魚を採る。そして魚を採り終わって陸に上がり、一眠りしてから今日釣った魚で昼食の準備にかかる。

 昼食を食べ終えると午後のシエスタだ。午睡を貪っている間に子供たちが学校から戻ってくる。そして子供たちといっしょに黄昏時まで遊び、日が沈むと地平線から沸き立つ星座たちを眺めながら夕食を食べて、食べ終えると早い眠りに入る。
   
 会社の経営者は島の人々のこんな怠惰な生活を見て嘆いている。

 経営者が言う。

「魚をもっと一杯採って市場に売りに行ったらどうかな?」

 島人は言う。

「どうして?」

「お金がいっぱい手に入る。」

「そのお金をどうするの?」

「もっと大きい船を買う。」

「そして?」

「もっと儲かったら市場を経営するんだ。」

「そして?」

「もっともっと儲かったら世界中に市場を作るんだ。」

「そして?」

「そして夜ともなく昼ともなく必死に働いて老後の蓄えをするんだ。」

「そして?」

「会社を引退したら、南の島にでも行って、朝は釣りをして暮らして、それに飽きたら一眠りする。そして昼は釣った魚を料理して食べて、それからまたシエスタだ。午睡からさめたら黄昏時まで子供たちと遊ぶ。夕食は星を眺めながらだ。食べ終えると早い就寝をする。」

 島人が一言。

「そんな生活ならもうとっくにしてるよ。」

 皮肉なものである。

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