2011年10月30日日曜日

22.スリランカ高原鉄道。

 幽谷にこだまする汽車の汽笛は、朝に絡み付く深い霧に溶け込み、その白い谷の衣の上では、もくもくと黒い煙が泳いでいた。目を覚ましたばかりの早朝のジャングルに進む汽車の姿はまだ雲の中にあり、朝露に濡れそびているココナッツやバナナの木の葉をかき分けながら、傷だらけの黒い巨体をディーゼル機関車が息を切らせつつ牽引する。

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2011年10月29日土曜日

21.トリンコマリーにて。

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 慈永祐士僧とダマナンダーと僕はトリンコマリーの中心地よりバスで南に15分ほどのところにあるチャイナ・ベイを歩いている。チャイナ・ベイは厳重に警備されているので、ダマナンダーが中に入れるかどうかを警備の軍人と交渉をしたのだが、やはり入る許可は得られなかった。

 中に入るにはISPS(インターナショナル・ポート・セキュリティ・オフィス)で許可を得なければならないのだ。僕たちは鉄条網の外からその波うち際には誰もいない孤独なチャイナ・ベイの写真を撮る。

 その後近くの露店で聞いた話によると、南に少し歩いた場所に第二次世界大戦時に空襲を受けた石油のコンビナートの跡があるらしいので僕たちは南へ歩を進める。石油会社の門の前につくと、門兵と中に入るべく交渉をしたが、やはりそこも厳重な警備がしかれており入る事は叶わなかった。

2011年10月28日金曜日

20.トリンコマリーという街。

 クルネーガラを古バスでひたすら北東に向う。ダンブッラより東に伸びる道は緩やかな丘陵地帯を東の海に向けて貫いている。そのきれいに舗装されたばかりの道は真っすぐに森を貫き、空と大地の境目に向けて一直線に続いている。空はどこまでも優しく澄みわたり、森は徹底的に広く濃く、これらの太古につけた人の痕跡は長い長いこの道だけだ。

 この巨象の鼻のような道は世界で一番恐れられている人間と言う名の獣が通る道だ。東の海まで30キロほどの所でふと左に目を移す。深い緑の中に広大な青が広がり、その湖の水面にはゆったりと流れる雲が写り込んでいる。東の海まではムスリムたちの村が続き、異国情緒たっぷりの南国色のモスクが立ち並ぶ。クルネーガラから移動する事5時間、数キロ手前でホテルおしんの看板が見えてくるともう海はすぐそこだ。

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 街の真ん中に立っている時計塔を回り込むように、トリンコマリーの街に古バスは滑り込んでいく。左手に大きなミッション系看護学校が見え、白衣を着た生徒たちが学校の門を行き来している。僕たちはバスターミナルでバスから降りると回りを見渡す。そしてその街のゆったりした光景の目に写り込むものは、世界中の漁村と同様この街は多くの鳥が荷揚げした魚を横取りしようと企んでいて、街中には古都奈良の街のように鹿が多く佇んでいるのが見える光景だ。

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 僕はここで少しトリンコマリーという街の歴史を紐解いて行こうと思う。まずトリンコマリーと言う名は”聖なる丘の神”を意味を持っており、タミル語"Tiru-kona-malai"の英語表記がTrincomaleeなのである。古来には海洋トレーダーたちを引きつけてきたこの港には古くにはマルコ・ポーロもこの港を利用したと言われている。

 様々なスリランカの王朝がこの港を利用し、そして多くの国がこの港より侵略や貿易を始めている。1619年にデンマーク人がこの地に入り、占領し始めている。ちょうどこの年ジャフナにはポルトガル人が入り込み征服を果たしている。その後フランシス会、イエズス会が入り人々のケアにあたる。

 そしてトリンコマリーもポルトガルの手に落ちたが、ベイ砦での戦いでオランダに破れ、トリンコマリーはオランダのものとなる。その後はイギリスの手に落ちアジアで最も重要な港の一つとなる。歴史的に見ると商人たちの港というよりは、様々な国の進入路として重要な役割を果たしていたようだ。

 第二次世界大戦時はトリンコマリーの石油コンビナートが日本の爆撃機により空爆されて、今もその跡は石油会社の敷地内に残っている。戦後コンビナート周辺は中国によって整備され、そのあたりの地名はチャイナ・ベイと呼ばれている。

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 タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)が正式に設立されたのは1975年。始めはタミル人に著しく不利な「大学入学の標準化政策」阻止にむけて小さな団体が設立されたが、抑圧された人々は1975年に武器を取る道を選び、ジャフナ市長を暗殺している。この解放戦線のグループはシンハラ人による幾多の圧政に苦しんだタミル人たちが作り上げた武装団体でなのである。

 このトリンコマリー周辺では数多くの人々がLTTEにより殺害・処刑されているし、政府軍によっても数多くの人が殺害、処刑されている。LTTEはシンハラ人の村やイスラム教徒の村を急襲して壊滅させたり、要人の車列に自爆攻撃を仕掛けたり、戦艦に自爆攻撃をしかけたり、列車を爆破したり、バスを爆破したり、スリランカ軍キャンプを急襲したり、手に入れた戦闘機で空爆も行っている。

 政府軍はタミル人の村を急襲して壊滅させたり、タミル人の車列を攻撃したり、LTTEの船にミサイルを打ち込んだり、LTTEのアジトを急襲したり、タミル人の村々に大規模な空爆をしたりしている。

 殺されては殺し、殺しては殺され、そこからは憎しみと悲劇以外は何も生まれず、しかしながらこの不条理な輪廻からは逃れる法はあらず、少年は兵となり、女子供は捉えられ殺され、ただ駆り出され、抵抗し、飲み込まれ、浄化され、土になるだけの、凄惨で苛烈な所を見る時、人というものは生物の頂点に立つ優れた生き物である事は錯覚にすぎないのではないかと感じ、我々は人間と言う名の地獄であって万物の最下層に位置しているのではないかという気さえする。

 トリンコマリーの街中に立ち並ぶそうそうたる数の墓石を見る時、背中から頭のてっぺんにかけて一気に戦慄が駆け抜ける。海風に揺られている墓石の上の花たちは何を思うのか。2009年に内戦は集結し、LTTEは敗北宣言をしたが、人々の心の深い所には遺恨の火がちらちらとまだ揺れている。

 お互いの胸に突き立てられたままのナイフはゆっくりと静かにそれと分からぬ様に引き抜いてやらなければならない。抑圧から文化は花開くと歴史は語るのだが、文化の進化に必要なものが悲劇ならそんな歴史はいらない。歴史の言葉遊びは椅子に座ったままで動かぬ夢想する歴史家の朝食にでも与えておけばいいと思う。

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2011年10月27日木曜日

19.ダンブッラの石窟寺院。

 キャンディより古バスに揺られダンブッラに向う。ジャングルの中のダンブッラへの一直線の道は遥か遠い地平線に向って真っすぐ伸びている。天気は怪しく視界の外側で何度も雲が閃光を放つ。キャンディから二時間程走るとバスはダンブッラへ到着した。ダンブッラの黄金寺院はバスを降りてすぐの所にあった。

 門を抜け一歩入ると、新しい寺院があり、その姿に僕は大きなショックを受ける。日本でいう昭和の頃に建てられていた国際秘宝館ばりのケバケバしく悪趣味で目を背けたくなるような建てものがそこにあった。しかし安心して欲しいこの左側に岩山の山頂に向っている階段があり、そこにダンブッラがダンブッラたる聖地の証明の古い古いお寺が存在するのだ。

 僕とダマナンダーは石窟寺院に続く長い長い階段を上って行く。30分ほどかけてその階段を息を切らせつつ登り終えると目の前に、山頂からの景色が広がる。濃霧の中に緑濃いジャングルが世界の果てまで続いており、その所々に水をなみなみとたたえた湖が見える。そして太古の山々の黒い影がジャングルの中からいくつも立ち上がりその様相は原始の姿を現在に蘇らしている。

 雲が時折放つ閃光はその恐竜時代を彷彿させる風景の中でまるで恐竜の終焉の物語を語り始めているようだった。始祖鳥が大空を舞う時、大地をティランサウルスが駈け、水辺にはトリケラトプスがゆっくりと歩を進め、ステゴサウルスが草をついばみ、ブラキオサウルスが木々よりも高い所に顔を出し回りを伺っている光景が見えてくるのだ。

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 石窟寺院の入り口には天空にある茶室ともいえるような小さな建物があり、それをくぐり抜けると、大きな岩の懐を長く長くくり抜いた所に白亜の寺院がすっぽりと収まっているのが見える。スリランカにはこの岩をくり抜き寺院を中にはめ込む形の造りが至る所にあるのだが、その中でもここは一番古くて、規模も最大である。

 それは日本寺的でもなく、中国寺的でもなく、チベット的でもなく、ラダック的でもない。それはまさにスリランカ的な造りであると言えるのだ。このまるで浮遊しているかのような空間は、気の遠くなるほどの悠久の時を感じさせるには十分だった。

 このダンブッラのエリアへ人が住み着いたのは紀元前の7世紀から3世紀の間だと言われている。この石窟に彫像が作られ岩絵が描かれたのは紀元前1世紀ほどのことだ。紀元5世紀には仏塔が建てられ、12世紀にはヒンドゥの神の像が加えられ、紀元11、12世紀と18世紀に大々的に修復されて現在に見る事ができるものとほとんど同じ状態になっている。

 ある時期の14年間は迫害を受けた仏教徒が追放された王とともにこの洞窟に籠り過ごしていたとも言われている。その王がアヌラーダプラで復権した時にこの時の謝辞として、壮大な石窟寺院をここに建設したのである。そして現在は20世紀、ユネスコに世界遺産として登録されて世界中から観光客が集まってきている。余談だがダンブッラ寺院近くで2700年前の埋葬遺跡が発掘されている。それに伴いこの地で農業で生活する古代人の証拠が次々と発見されているのである。

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 石窟寺院は五つの石窟からなっていて、その一つ一つに彫像と壁画が納められているのだ。黄昏時のこの時間も観光客は多い。僕たちは一つ一つを巡る。横に広い石窟の中には釈迦像が壁際に右から左へと並んでいて、静かに瞑想しているそのお顔からは、様々な事が読み取れる。

 平安、平和、幸福、知恵、心、法、天、空、などいろいろな感覚が静かにかつ一気に入り込んでくる。一体の涅槃物の釈迦の目は大きく見開かれていて、空の一点の何かを見ている。その仏前にはたくさんの美しく香り高い蓮の花が置かれている。ライトに灯されてはいるが、中はそれでも薄暗く、しんしんとゆったりとしているがどこか張りつめた空気の中にポツポツと音が聞こえる。

 それは天井の古い岩の裂け目から滴り落ちる水滴が地面に落ちる前に壷に救われている音だ。この霊験あらたかそうな水は薬なのだろうか、はたまた儀式用なのであろうか僕には良く分からないが、大切な聖水である事は確かなようだ。暗闇の中に浮かび上がる立像も静かな笑みを讃えている。

 暗闇は決して怖く暗いものではなく、希望を生み出す光を造り出す一つの胎内のように思えてくる。それは釈迦仏の前で毎日生まれ続け、ここよりはるか遠い世界に広がっているのが感じられる。天井の壁画も古く薄くなっていて、それが広い壁一面に描かれている様相は感動とか驚きとかそんな物が一度に入り込んで心の中で騒ぎ始める。

 限りある少ない色彩で描かれた数多くの釈迦は、昔の人々の信仰への熱き思いが壁から沁み出してきているようでもある。その沁み出した思いはここに訪れる人の心の深い所に確実に届いているのが分かるのだ。石窟の中に小さな白い仏塔がある。その回りを釈迦像が取り囲んでいる。

 それらを見ていると僕は不思議な気持ちになる。ここは石窟のなかの小さな小さな世界のはずなのに、僕はまるで浮遊して広い広い宇宙の真ん中に放り出された感覚になるのだ。それは僕の中の何かが見えるはずの無い世界の大局まで見つめている奇妙な感覚である。内なるものが遥かなる外の世界を知覚している感覚である。

 僕たちは石窟の外に出て、茜色の空のもと、山の空気を思いっきり吸い込み、山頂の小さな鐘を一つ大きく鳴らし終えると、ゆっくりとゆっくりと下山するのであった。

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2011年10月26日水曜日

18.仏歯寺にて。

 キャンディ湖の縁を歩いている。水上で風と戯れている湖は静かなさざなみをたてている。遥か向こう岸近くの水面には小さな庭が浮かんでいる。右手に三角錐の赤い帽子をかぶった白亜の仏歯寺が見えてくる。

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 このお寺は仏陀お亡くなりになった後、仏歯が密かにスリランカに持ってこられるが、始めはアヌラーダプラの寺院に奉られ、その後はポロンナルワ、ヤーパフア、クルネーガラと転々と場所を移動する。そして次の時代にはニヤンガンパーヤ、コッテに移り、その次の時代にはデルガムーア、そして最後の安息地はここキャンディになったのである。

 時代の緊迫した政治状況、戦争などいくつもの困難を避けながら仏歯はスリランカ国内を移動し、この地キャンディに移動してからもまた困難は続く。1998年にはテロ攻撃があり、大変なダメージを仏歯寺は負ったが、仏歯そのものは無事であった。 

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 仏歯寺の回りをそぞろ歩く。古い塀に囲まれた役目を終えた仏塔の翁は、大地の縁側でひなたぼっこをしつつ、うたた寝をしている。仏歯寺の回りは緑輝く池に囲まれており、それを覗き込むと沢山の魚が周遊していた。仏歯寺の入り口にはムーンストーンが敷かれ、そこより続くトンネル廊下があり、見上げると天井一面に蓮の花の絵が咲き乱れている。

 トンネルを抜けると二本の象の牙の向こうに仏歯が安置されている。この安置場の一階部分は二階部分へと繋がっており二階部分が本安置所になっているようなので、僕たちは二階部分に進む。階段を上ると大勢の人が仏歯の安置所に向って祈りを捧げており、手に蓮の花や線香を持つ者、経を広げて唱える者、ひたすら拝む者、座禅を組んで瞑想する者、驚くほどたくさんの人でひしめいている。

 特別に安置所の柵の中に入れてもらい、ダマナンダーは中でお祈りをし、僕はその扉を眺めている。二体の神の壁画に守られて金色の装飾で飾られている安置所の扉の向こう側に仏歯が奉られているのだ。スリランカの人々の仏教信仰の大切な対象物は二つあり、一つは仏歯、一つは菩提樹なのだ。両方とも日本では馴染み薄いが、スリランカの人々にとっては何世代も続いてきた信仰文化の心のよりどころであり、スリランカ上座部仏教に置いては信仰の根幹となる対象物なのだ。

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 安置所の建物から外に出て奥に向って歩くともう一つ大きな建物がある。僕たちはその中に入ってみる。何体もの釈迦仏が奉られており、その階上は博物館になっていた。一階の釈迦仏の御前に置かれている蓮の花を囲んで沢山の人たちがお祈りをしていた。二階に上がってテラスに出てみると、目の前にはキャンディ湖が広がっている。

 二階を吹き抜ける風は心地よく、空を流れる雲はスリランカの人々と同様にゆったりとしている。深い森に囲まれた青いキャンディ湖の水面が陽に照らされきらきらと輝いている様を見るのは本当に神秘的な気分にさせられる。

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 仏歯寺を出てキャンディの街中を歩く。僕たちは線路の上をバスターミナルに向って歩いている。世界中から多くの人たちが集まってくるキャンディの街は平日といえども賑やかで活気がある。

 300メートル程の標高のキャンディの街は美しき湖があり、様々な小さな生き物が住んでいるジャングルの植物園があり、スリランカ中から集まってくる学生たちの大学がたくさんあり、そして数多くのキリスト教会があり、仏教寺院もたくさんあり、仏歯寺はこの街の中心だ。

 自然も街も人も文化もうまく影響し合い、共鳴し、発酵し、熟成の粋を辿っている。喧騒と静けさはいつもどこかにあり、人々の心はそこを行ったり来たりしながらのんびり流れている。自然の中では鳥が鳴き、花が咲き乱れ、リスが木から木へと忙しく移動し、湖の中の魚影は濃く、猿たちは木の蔦を伝って地上に滑り降りてくる。

 マーケットでは色とりどりの自然の食材たちが騒がしく声を立て、バスターミナルからは世界中から集まる観光客が吐き出され、大学ではたくさんの学生が明日を夢見て勉強に励み、湖の淵では多くの恋人たちが語らい、多くの家族が仏歯寺で熱心に釈迦にお祈りをしている。

 こんな当たり前でいて素敵な毎日がずっといつまでも繰り返されるのだ。それは昔の不安定な政治状況や紛争の合間にも繰り返されてきた当たり前の日常なのだ。

 静かな暮らしを当たり前のようにし続ける事が日本においても困難な昨今、ここスリランカでは昔と変わりなく今もそして未来にもきっと、たゆたうようなゆったりのんびりとした暮らしが、世界においてもそれは難しい事であるのにもかかわらず、果てる事無くいつまでもいつまでも続くのは、気候や地理的利点や歴史や民族性や宗教やその他様々な要因が奇跡的な融合を見事なまでに完成させた結果なのかもしれない。

 線路の上を人の波に身を委ね流されるように歩きながらそんな事を考えていると、後ろから汽笛の音が聞こえ、列車が近づいてきたのが分かった。人の波は線路を真ん中に左右に分かれ、その間を汽笛を鳴らしながらゆっくりとゆったりとのんびりと列車が走り去って行くのを、僕はぼんやりと眺めていた。

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2011年10月25日火曜日

17.ペーラーデニヤ植物園。

 バスは深山に分け入り標高を徐々に上げていく。濃霧に閉ざされた朝のケッタラーマ寺を後にして、キャンディに向って古バスは唸るように走る。クルネーガラから一時間半ほど来ると大きくて水面が光る湖が目の前に広がってくる。

 湖の回りにしっとりとホテルが並んでいるその光景はあの白樺湖そっくりなのだが、その回りには数多くの古い寺院が立ち並び、多くの大学もあり、観光客にあふれており、規模は圧倒的にキャンディの方が大きい。僕とダマナンダーはバスを降りて食堂に入り朝食を食べる。

 日本の食堂との違いはトレイの上にこれでもかと詰め込まれたパンがテーブルの上にのる。これを全部食べるのではなく、ここからパンを数個チョイスして食すのだ。僕も以前クルネーガラの街に着いた初日にパン屋に入り、うずたかく積まれた目の前のパンに動揺して、”こんなに食べれへんわ、かんにんなぁ”と店主に言った事を思い出す。

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 食堂を出て僕たちはペーラーデニヤ植物園に向う。この植物園の始まりは1371年とかなり古い。一度イギリスによって破壊されたのだが、1821年に再建が始まり、1843年に完成する。この公園の一番有名な木は1901年にイギリスの協力で飢えられたホウガンノキで文字通り砲弾のような木の実がたくさんなっているのだ。

 植物園に入り少し進むと芝生で覆われたおおきな公園がある。その淵の木々の下で大学生たちがグループごとに円を作り討論をしている。僕は大学の先生に誘われてその円の中に入り、日本のついて語ったり、質問を受け付けたり、こちらから質問したりする。こうして僕はグループの円から円を渡り歩き、討論に参加する。

 討論のほとぼりも冷めた後、僕はまた植物園を散策する。一本の長い道が続いていて、その両横に真っすぐに背が伸びた木々が植えてあり、”ぐわっ、ぐわっ”の鳴き声が頭上を飛び交うと僕は見上げる。木から木へと飛び移る黒い影の鳥のような物が見えたので、目を凝らしてみる。こうもりだ。

 こんな真っ昼間から彼らは空を飛び交い、青を黒く染める。ホウダンノキが左側に見えてきた。木はたくさんの砲弾を懐に抱きかかえている。一つ20センチから30センチはあるだろうか。これらが頭上に落下してきたらと思うと少し怖い。まさに信管の無い砲弾だ。

 公園内の木々は表情が豊かで、奇妙な形で曲がっている木々も多く、幹よりも長く太い枝がまっすぐに横に伸びているかと思えば、突然それは刮目し折れてそのまま天に向かい、少し進むと今度は地に向って伸びている。南国の不思議な木たちは静かに長い長い時をかけて踊っているのだ。

 木は別の木を浸食してくわえこみ、くわえ込まれた木の上部は大きく花開き、くわえた木を逆に大きく飲み込む。この奇天烈で滑稽にも見える木々の生命は、大きく脈打ちながら躍動しているのが分かる。

 木に耳をあて聞くと、木が咆哮しながらなみなみと吸い上げる大地の水の音が、しゅうしゅうと音をたてながら天に昇って行くのが分かるだろう。この植物園の縁には川が流れている。その向こう岸には斜面の緑の中に赤い屋根の家々が立ち並んでいるのが見える。ココナッツの木陰から時折見えるその光景は南国をいつまでも感じさせた。

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 植物園を出てマーケットの中を歩き回る。果物は色鮮やかで、目に眩しく、その芳香は鼻先をくすぐる。朱、橙、黄、緑、茶、群青、様々な色たちがわっと歓声を上げる。賑やかな色たちは僕たちの後をどこまでもついてくる。お米も様々な色があり何種類もが袋になみなみと入れられ売られている。

 何度も書く事なのだが、スリランカの食文化は裾野が広く、食べ物の種類も信じられない程豊富で、そのほとんどが当たり前なのだが無添加ときている。日本の食べ物より香り高く、繊細な味から大胆な味まで味覚は無限で深く、魚介類も海から川からと豊富な生き物がとれ、新鮮な物もあれば乾物もたくさんあるのだ。

 言ってみれば生活の場自体が食べ物に囲まれている状況なのだ。夜には屋根が鳴き木の実がたくさん落ちてくる音が聞こえる。動物たちも飢えを知らず、人と同じ物を食べる。マーケットはどこの街に行っても賑やかで、ジャングルの中にも小さな店は点在する。主食はお米だが、パンも良く食するのだ。

 またこのパンも日本にある小手先だけの味付けのパンではなく、どっしりとした強い腰がある。噛めば噛む程に甘みが沁み、心にしみる。数え切れないほどの香辛料を巧みに使い、作られた食事は大地の命を直接食している感覚に捕われて、壮大なオペラ劇が料理の中で延々と繰り広げられているようだ。

 自然に至っては全く持って言う事はなく、素晴らしいの一言だ。大自然を見るためだけの理由でスリランカに来るのも良いだろう。それは心のうち深くに眠っているあなたの冒険心にきっと火をつけると思う。あなたは時にハックルベリーになり時にロビンソン・クルーソーになる。

 スリランカの海もまた魅力で世界有数のサーファーが集まってきて、多くのコミュニティを築き上げている。波で疲れた体をココナッツの木陰の下で休ませつつ、ギターをつま弾きながらジャック・ジョンソンやG.LOVEを奏でるのも良い。

 スリランカの寺院は言うまでもなくとても素晴らしく、その深遠な時を追ってみるのもいいかもしれない。ジャングルの中、夕日に照らされた孤独な仏塔の長い影を見たあなたもいつしか一人の孤独な哲学者になるのだ。きっとそれは長い悠久の時の中に垣間みれる人や宗教やその他の様々な物たちがあなたの心の中で騒ぎ出さずにはいられないからだろう。

 今スリランカに移住してきている欧米人や日本人は増えている。ぼくがいるクルネーガラにもたくさんの日本人が居る。世界で一番親日な国で、時間はゆっくりと漂い、人生の意味を考えつつ、波の音や森に潜む動物たちの声を聞きながら過ごしたいと世界中から多くの人たちが移り住んで来ている。

 クルネーガラに出来ると言う噂の日本人村もどうやら徐々に準備がなされているようだ。僕は移住に最適な条件である、安全で日本人にとっては容易に仕事が見つかり、物価は信じられない程安く、時間はゆっくり使え、食べ物も環境も人に優しく、こんな素敵な国をみんなに見て欲しいと少しだけ思うのだ。

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