2014年6月4日水曜日

7.チャンタン高原のプーガ村。

標高4000メートルを越える高地チャンタン高原にプーガ村と言う名の小さな村がある。

その村の酸素は地上の半分ほどで、中央アジアの広い高原は限りなく広く、空は限りなく澄みわたり、村は限りなく天に近い。そこに多くの羊、山羊に加え、ヤクという毛が長く体のとても大きな牛の亜種を飼い、チャンタン高原を遊牧している民族がいる。

彼らは家畜の餌となる牧草を求め、ゲルと呼ばれるテントと共に転々と広い高地を移動する。

一度遊牧が始まると長い間、家の主は村に戻らない。子供たちはその間、村の学校に預けられる。そんな村の学校は全寮制で、子供たちは先生と共に、学校で寝泊まりし、食事をし、勉学に励む。





僕たちインターナショナル・フェローシップ・オブ・ブッディスト・ユース・ラダック with LIFE on the PLANETのダーナ・サービス最終日、トラック一杯の支援物資とオンボロバスに分乗し、ストクから数百キロ彼方のプーガ村の学校に向かった。ストクの裏山にある村マト、湖岸に佇むシェイ・ゴンパ、要塞寺ティクセ・ゴンパ、虎の鼻の異名を持つスタクナ・ゴンパ、インダス川対岸のヘミス・ゴンパを横目にひたすらインダス川上流を目指す。川幅は細くなったり太くなったりを繰り返しながら、細くなる方へ集約されていく。



バスの中はと言うと、ラダッキたちは楽しむ事にかけては超一流の才能を持っていて歌えや踊れやの大騒ぎ状態だ。ヴィヴェック先生自ら率先して踊っているのだが、こんな事を書いている僕もまた率先して踊っている。みんなが踊り出すと、もともと揺れが激しいバスも右へ左へとよっちらほっちらと踊り出す。

途中インダス川の畔に温泉がとうとうと沸きだしてはいるが、とてもひなびた温泉地がある。その周りに掘っ立て小屋のようなレストランと、掘っ立て小屋にような小さなゴンパと、掘っ立て小屋のような温泉場がある。僕たちはレストランで食事をした後、一っ風呂浴びてから、あわただしく出発した。



温泉上がりはきっと、どこの国でも同じようで、急激な眠気が襲いかかり静かにまどろみへの縁へ引きずり込んでいく。学生たちは身体中から湯上がりの湯気をゆらゆらと立ち昇らせつつ、シートに深く身を埋めて、心地よい寝息をたてている。道は分岐しバスが右へ進路をとると、そのY字路のはるか彼方にちらと名も知らぬ大きな白いゴンパが見えた。



右手には春はまだ遠く半分凍った川と雪に埋もれた狭い谷が続く。そして突然視界が一気に開けると、谷は平原に変わり、その平原が彼方まで続いているのが見えた。透き通った青い空の下、なめし革色をした山が平原を囲むようにそびえており、その原野を流れる清流に誘い込まれたような、数百頭の野生の馬が確認できた。



標高4000メートルはすでに越えており、その世界は異次元で月とも火星ともつかない風景がただただ続く。

しばらく進むと途中チベタン難民のコロニーがあり、僕たちはその中の学校におじゃました。ここは文字通りチベットから逃げてきた子供たちのコロニーで、どういう状況下からどういう経路を辿ってこの人里離れた高地に辿り着いたのだろうかと思うと心痛くなる。

そんなこととは裏腹に元気な子供たちの姿を見るとなぜかほっとする。僕たちは支援物資をトラックから下ろし、短い時間だったがそんな子供たちと歌ったり踊ったりして遊んだ。子供たちにさよならを告げ、僕たちは最終目的地の天空の里プーガ村に向かう。









左手に広大な原始の大地を眺めながら進むと、右手にテント群が見えてきた。そのゲルと呼ばれるテントは遊牧民を象徴している家で、彼ら遊牧の民は、ヤク、ゾォ、牛、羊、山羊などと共にこの広いチャンタン高原を家畜のえさを求めて流浪する。

すでに標高は4300メートルに達しており、そんな広い平原の中に学校が見えてきた。バスを校庭に止めると、5月の半ばだというのに外はすでに氷点下で、そんな中、子供たちが塀の向こうから興味深げにこちらを眺めている。

バスとトラックから支援物資を下ろし始めると、子供たちが間に入ってきて、物資の運搬をいつの間にか手伝い始めていた。物資は学校の広いホールに次々と運ばれ、最後に僕たちもそこに移動して子供たちに挨拶をした。

このチャンタン高原のプーガ村には店のようなものは一軒もなく、自給自足でまかなえるもの以外は百キロ以上離れた商店まで買い出しにいくか、支援団体などからの配給を待つしかない。自給自足といっても、標高4300メートル以上のこの高地では小麦もお米も育つわけはなく、それらはほとんどの場合、各方面からの支援によってまかなわれる。

今回僕たちが運んできたものはトラック一杯分なのだが、これだって数ヵ月はもたないだろう。しかしこのプーガ村の人々の高地での遊牧文化は、先進各国でしばしばBBCのドキュメンタリーの他、ナショナル・ジオグラフィックなどにも取り上げられており、世界的には有名な文化で、そんな意味では内外からの支援が尽きる事はない。








ホールに集められた子供たちに僕たちはノートやペンなどの文具を直接手渡す。子供たちは順番に並んで、新しい文具の配給をいまかいまかと待ちわびている。文具を手に取った子供たちはみなとても嬉しそうな顔で、その目はきらきらと輝いている。新しいノートに新しいペンで新しい知識を得ようとみんなわくわくしているのだ。インターネットやテレビもないこの世界では、教科書が唯一の知識の源といっていい。少し昔までは生活に必要な知識のすべては羊や山羊から学んでいたのだ。







子供たちのほとんどは学校で寝起きする。その宿舎は学年ごとに別れていて、木製の二段ベッドにがあるのは冷たくて暗い部屋だ。暖房はなく、子供たちの活気で部屋が暖かくなれば良いのだけれども、そうはいかないだろう。真冬はマイナス30度以下になることは容易にわかるこの場所で、ゲルといい、この学校といい、満足な暖房設備がないここの生活は、どんなのだろうかと想像してみる。いにしえよりこの高地で暮らしてきた民族は、何に追われ、いったいどこをどうさ迷い、辿り着いたここを永住の地としたのだろうか?



僕たちはそれから、夜が更けるまで、子供たちと歌ったり踊ったりしながら過ごした。更け行く空にはとても明るい満月がぽっかりと浮かび、よく冷えた夜空を照らしていた。

次の朝気温は氷点下10度を下回っているが、子供たちはすでにホールに座り、柔らかな朝日が差し込む中、手を合わせ、熱心にお経を唱えていた。今更ながら、この高地の民族がチベット仏教を信仰している事を再確認したわけだが、朝の透明な空気の中、子供たちの読む経文が静寂の内にホールに反響しているその様は、人が生きることとか、祈ることで救われるとかではなく、それをもっと越えた高次元で、しかも様々な生命のもっと根元的な部分に触れたような気がした。その時、きっとあらゆるものと共鳴しあってできているこの世界の一部分を自分も担っている事に気づかされたある瞬間が、さりげない風になってふと心の中を心地よく通りすぎていった。









六年ほど前からうすうす気がついてはいたが、どうしても僕は書かなければいけない事がある。

ラダックの人々は決して貧しくはない。ただ一時期を除いては・・・。2010年にラダックでは未曾有の大洪水があった。その後の一ヶ月間はとても貧しかった。その一ヶ月間で世界中から支援の輪が広がり、ラダックの人たちはなんとか生活を建て直す事ができるようになった。

ラダックにはこじきはいない。(中央からの出稼ぎのものごいは除く。) 

その面ひとつとっても先進国よりとても幸せだと言える。そうただあまり物を持たないということ、そしてとてもシンプルな暮らしをしてるということだけでよく貧しいと思われる。

毎日の生活には、ほとんどストレスはなく、シンプルな生活を続けるにあたっては、税金はかからない。例えば僕たちはお金をたくさん持っていて裕福だから援助しようとか、ラダックの人たちは自分たちが貧しいと思い、私たちは貧しいから援助してくださいと言う。

前者はただのエゴでしかないし、後者はただの思い違いだ。それではネガティブとネガティブの関係になってしまい、決して好ましくない。ではなぜラダックの人たちを支援するのか?

僕たちはラダックの人たちよりほんの少しだけものを持っている。それをラダックの人たちとシェアしあうという考えだ。例えばあなたが10本の鉛筆を持っていて、ラダックのある人が1本の鉛筆を持っているとしよう。あなたは2本の鉛筆をラダックの人にシェアする。

あなたの鉛筆は8本になり、ラダックの人は3本の鉛筆を持つことになる。シェアという概念からは総量はかわらない。ただ心のベクトルが良い方向へ少し移動しただけだ。ポジティブとポジティブの関係がここで成り立つ。

これが現在ラダックのソーシャルワークの社会で生まれ、今まさに働いている新しい概念だ。この概念に基づいて僕も動いていこうと思う。僕はラダック社会の奥深さを毎年のように思い知らされている。




その朝静かに僕たちはプーガ村を後にした。

そして僕はチクタン村に向かった。

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