2010年10月30日土曜日

15.隠れ修道院、マルムーサ。

 僕は始めはクネイトラに行こうと思った。クネイトラとは1974年にイスラエルの爆撃された跡をそのまま残している、ゴラン高原の東端にある村だ。クネイトラに入るには許可が必要なのだ。僕は朝早くセントラル・ダマスカスにある申請所に行くが、今日は休みだとSPに言われ、あっさりあきらめた。

 僕はここからガラージュに向かい、マルムーサ修道院に行く事にした。マルムーサはダマスカスの北およそ60キロメートルの場所にある修道院だ。セルビスは荒涼たる道を北に走らせる。僕は休憩のため途中のネベックいう街で降ろしてもらった。

 以前ラーマからネベックはスィーツで有名な街だと聞いていたので、なんか甘いものでも食べようかという邪心も少しあった。店は全部閉まっていた。

 今日は金曜日。金曜日はイスラム教の休日なので閉まっていたのである。ネベックの街をうろうろしていると、いかついナッツ売り商人に声をかけられ、いっしょに昼飯でも食べようと言う話になった。

Lunch at Nebek

2010年10月29日金曜日

14.セントラル・ダマスカスの夜とシリアの音楽家。

 マアルーラから戻って来ると、僕はオープンカフェで休憩をした。ナルギーレを吸っている商人がたくさんいる。カフェの中にはアジア系の旅人も紛れており、ナルギーレをうまく吸えないらしく咳き込んで苦笑いをしている。

Open cafe at Old Damascus


2010年10月28日木曜日

13.キリスト教の村、マアルーラ。

 僕はダマスカスの北東にあるガラージュ・マアルーラからセルビスに乗り込みマアルーラ村に向かう。セルビスは北へ向かい、途中から道を逸れて荒涼として岩山に入っていく。走る事一時間、セルビスはマアルーラ村に到着する。

 マアルーラは岩山にへばりつくように広がっている小さなキリスト教徒の村だ。イエスが布教の時に用いてた言葉はアラム語と呼ばれる言葉で、古くは紀元前1800年前後から紀元前1600年前後のバビロニア帝国時代、紀元前600年前後から紀元前500年頃までアムル人が使っていた言葉だ。

 アラビア語が普及する7世紀頃までは西アジア一帯の国際語となっていた。しかし今はアラム語を話す地域は減ってきていて、東方アラム語はシリア・イラク・イラン・トルコ・グルジア・アルメニアの少数の村で、現代アラム語は少数民族アッシリア人によって話されている。

 そしてこのマアルーラで話される言葉は西方アラム語で、イエスも西方アラム語を話していたのだが、この西方アラム語を話す村はマアルーラ、バハー、ジュッバーディンの三つの村だけになってしまったのだ。

Monastery at Maalula

2010年10月27日水曜日

12.再び、ダマスカス旧市街を歩く。

 ラタキアを出発してから数時間、昼頃にダマスカスに到着する。ガラージュからタクシーに乗ってヒジャーズ駅の前で降りて、郵便局に行き、日本にいらない荷物を送った。寝袋だ。これが使わないのにかさばり続け疲労困憊の最大の原因になっていたのだ。いつ日本に届くだろうか?

Hijaz railway station at Damascus

2010年10月26日火曜日

11.ラタキアの夜。

 サフィータより左に地中海を望みながら、バスに揺られて数時間、ラタキアの街に到着する。ラタキアのガラージュよりタクシーで中心部に向かい、ラタキア・ホテルにチェックインして荷物を降ろして、スークを散策する。

 ラタキアはサフィータ同様、シリアによくある保守的なタイプの街とはかなり違う。ローマ時代より港で栄えてきた街らしく、ラタキアはさまざまな国の船乗りが休息する場所なのだ。イタリア、ギリシャ、ロシアを筆頭にいろんな国の人々が立ち寄る。おのずと多くの国の文化がラタキアの風土と混ざり合い、その街並はシリアの中のイタリアと呼ばれるようになる。もちろんパスタやピザ屋もたくさん立ち並んでいる。そして異国情緒たっぷりのレストラン、カフェバーも立ち並ぶ。頭にヒジャブを巻いていない女性も多く、タンクトップにタイトなジーンズ姿の女性も目につく。夜のラタキアは、酒瓶片手に他国の船乗りたちが道行く女性に口笛を吹いている。女たちも満更ではない様子だ。自由を謳歌している若者たち。車を箱乗りしている女の子たち。ここは本当にシリアなのかと目を疑いたくなる。

 ラタキアの街は紀元前1000年頃にできたと言われている。フェニキア人の小さな村だったのだ。その歴史は苦難の連続で大地震に見舞われたり、イスラム教とキリスト教の長い長い戦いの場でもあったのだ。

Alagan mosque at Lattakia

2010年10月25日月曜日

10.太陽の街、サフィータ。

 いくら待っても車は来なかった。来たとしても満車のセルビスが僕の前をむなしく通り過ぎて行くだけだった。しばらく考えこんだ後、僕は見上げる。そこには東西を縦断している高速道路がそびえ立っていた。
「はぁ、高速道路か。」
 僕はため息をつくと意を決して高速道路によじ上った。そして高速道路上でヒッチハイクを始める。アーミーやポリスに捕まりませんようにと祈りながら。するとものの2、3分で車は捕まった。やさしいだれかは車の後ろのドアを開けると乗るようにすすめる。僕は笑顔を絶やさず乗り込むべき車の中を見ると、体が氷つき、次の瞬間後ろに一歩退いた。そこにはアーミーが乗っていたのだ。だがそのアーミーは優しかった。僕に手を差し伸べ車に乗り込むのを手伝ってくれた。彼らは僕に聞く。
「どこに行くんだい?」
 僕は答える。
「海へ。」
 車は真っすぐ西海岸に向けて走り出した。1時間ほど走って海辺の街タルトゥースに到着すると、僕はそこで車を降りた。僕はその街から少し内陸に入ったサフィータという街を目指す。この街はマイナーな街だけれど、どこかでサフィータの写真を目にして、その美しさが僕の心を揺さぶったので、是非行ってみたいと思っていたのだ。ガラージュからサフィータ行きのセルビスに乗り込み40分ほど走ったところで写真で見覚えがある風景が目の前に広がった。僕はまわりの乗客に聞く。
「ここはサフィータですか?」
 乗客は同音一同そうだと言ったり、うなずいたりしたので僕はその街でセルビスから降りた。

Old car at Safita

2010年10月23日土曜日

9.天空の城、クラック・デ・シュバリエ。

 次の日、ホテルを7時に出てクラック・デ・シュバリエに向かう。ハマからは直接クラック・デ・シュバリエに向かうセルビスやミニバスが出ていないので、ホムスで乗り換えなければならない。ホムスには8時頃到着して、クラック・デ・シュバリエ行きのセルビスに乗り込む。セルビスが一杯になってから出発するので、出発は何時になるかわからない。僕はぼんやり窓の外を見ている。窓の外ではシリア人のバスの運転手同士が、朝っぱらから大げんかをしている。何についてのトラブルかわからないが、とにかくけんかをしている。9時近くになり乗り込む乗客数も増えて来たようだ。
 その時、前列に乗り込んで来た一人の女の子が僕に気がついて英語で話しかけてきた。
「昨日ドミトリーで一緒だったよね。」
 僕は昨日の夜、遅かったので同室の人たちの事は全く覚えていなかったが
「うん。」
 と生返事をした。彼女はホテルを8時にでてきたらしい。僕はもっとゆっくり寝ていればよかったと少し後悔した。彼女は前に体を向き直すと韓国製のMP3を取り出し操作し始めた。

 満員になるとセルビスは出発した。すでに9時を過ぎている。高速道路をまっすぐ西に向かうと、荒涼とした風景がしばらく続く。道がほんの少しでこぼこなのと、セルビスのポンコツな具合がまざりあって、やたらスピードが出ている感じがした。実際には日本の高速道路を走る車ほどスピードはでていないのだが、やはり怖い。何度乗っても慣れる事はない。インドで2年前に9人乗りのワゴン車が4千メートルの断崖から滑落していたのを見てトラウマになっていた。その時は屋根にも4人乗っていたので、13人の死者が出たのだ。どれだけ走っただろうか、高速道路を降りてセルビスはさらに北へ向かう。山に入って行くとオリーブ畑の丘陵地が広がっている。コーカサス地方の丘陵地もこんな感じなのだろうかと漠然と思った。突然カフカス地方に住んでいる知り合いの事を思った。

Mountain near Krak des Chevaliers

2010年10月22日金曜日

8.ハマのスークを歩く。

Mosque and moon

 
 僕はハマのスークを歩く。ハマの夜は賑やかだ。ライトアップされている夜のモスクを見上げる。街の喧噪の中に浮かび上がるモスクは、月明かりに照らされた夜の中を飛ぶ夜蝶のようだった。

ハマのスークはダマスカスやアレッポのスークと比べるとずっと小さいのでシリアの流通の中心というわけではない。1500年代にシリアの商人によって作られたと言われている。この小さなスークは観光地としての機能はしていないので、本来のスークの雰囲気を十分に味わう事ができる。本来のスークとは観光客相手に土産物を売っているのではなく、そのほとんどが食料や生活必需品、それにちょっとした嗜好品などを地元のお客相手に売っている市場の事だ。商人の子供たちも商売を手伝ったりしていて、店を任せられている子も多い。生活に密着しているスークは巨大なスークと違い、客と商人の距離が非常に近いのだ。商品を手に取って、または味見して、そして値段の交渉に入る。そんな光景を眺めているとアラビアンナイトの本の世界にでも引き込まれるような気がした。

2010年10月21日木曜日

7.悲しき水車の街ハマ。

 
 ーー 2011年よりシリアは大変深刻な時期を迎えております。 日々ニュースから入ってくる情報は辛い話ばかりです。もう誰一人として死んで欲しくはないのです。僕はこの内戦が終わる事を心からお祈りしています。ーー

 *シリアのショート・ムービーを作りました。 ここに写っているのは2010年の平和なシリアです。*



Inside minibus

 
 僕はパルミラからホムスに向かうミニバスに乗っている。ミニバスは満員で観光客は僕一人のようだ。シリア商人、ベドウィン、女たち、さまざまな種の人たちが乗っている。ひたすら砂漠の中を走る。バスの熱気と臭気がアラブの雰囲気を演出する。バスの窓から入る風だけが体を冷やしてくれる。

2010年10月19日火曜日

6.スズキタカシとベドウィン

 僕がスズキタカシの車に乗り込むと、砂漠地帯の中を走り始める。30分ほど走っただろうか、肉眼で確認できうる距離に砂漠の上、数張りのテントが見えてきた。
 「あれがお邪魔するベドウィン・キャンプ。」
 スズキタカシはそう言うと車のアクセルを深く踏み込む。タクシーは砂埃を巻き上げながら数分疾走してベドウィン・キャンプの前に止まった。
 僕たちはキャンプの主人にテントの中に通された。砂漠の気温は40度は軽く超えていたが、テントの中は風通しがよく思いのほか涼しかった。

Bedwin and Takashi Suzuki

2010年10月18日月曜日

5.スズキタカシとお墓。

 パルミラの記念門でスズキタカシに捕まった。

 スズキタカシとはシリア人で、このパルミラを営業のテリトリーとしている日本人の間では有名なタクシードライバーなのである。スズキタカシと言っても彼はまったく日本語が話せない。8年前に日本人にこの名前を貰って(教えてもらって)今はタクシーのダッシュボードの上に”スズキタカシ”と書かれたボードを正面からよく見えるように置いている。数年前に中田英寿がシリアを放浪した時、スズキタカシにガイドをしてもらって日本での名声に火がついたのだ。
「お墓行くよ。古いお墓。3000でどう?」
「高い、高すぎる。」
「いくらならいい?」
「ベドウィン・ツアー付きで300。」
「だめね。そんなお金ではどこも行けないね。」
「僕は貧乏なんだ。さっきあそこにみえる子供たちに全財産を寄付したばかりさ。」
「じゃ、2000でどう。」
「そんなに高いんじゃ歩いて行った方がいいなぁ。」
 僕は歩き始める。
 スズキタカシは僕に並走しながら、
「じゃ1500でどう。」
 僕は無視して歩き始める。
 スズキタカシは僕の前に回り込むと
「1000。」
 と言って、車のドアを開ける。
「じゃお墓とベドウィン・ツアー付きで1000だ。」
 そう言うと、僕はスズキタカシのタクシーに乗り込んだ。

Lot of tomb

2010年10月17日日曜日

4.砂漠のオアシス、パルミラ。

Restaurant at Palmyra

次の日の朝、僕はダマスカスのガラージュ・ハラスターに向かった。セルビスやバスのターミナルをシリアではガラージュと呼ぶのだ。セルビスと言うのは、大型のワゴン車を使ったタクシーの事だ。SERVICE TAXIと表記する。ガラージュ・ハラスターはダマスカスのガラージュの中では規模が大きく、朝のまだ日が昇る前から人であふれていた。ターミナル沿いには格バス会社のチケット売り場が並んでおり、その向かいには多くの売店やレストランが朝の空腹の乗客を飲み込んでいる。

2010年10月16日土曜日

3.オールド・ダマスカスを歩く。

 僕たちはウマイヤド・モスクを出て、再びオールド・ダマスカスを歩き出す。モスクの外壁沿いにも古い商店が続いており、そこには多くは木製品を扱った工芸品の店がずらりと並んでいる。観光客は木製品やアクセサリーなどを手に取り品定めをしたり、店主と話をしたりしていた。

 9月のダマスカスの空は限りなく高く、乾いた空気が暑さをそれほど感じさせないでいた。

 今日は土曜日で休日である。イスラム圏の多くは金曜日と土曜日が休みなのだ。一番大切なのは金曜日の休日で集団礼拝の日なのである。簡単に説明すると西暦627年にムハンマドがメッカに無血入城した記念の日として金曜日が休みになっているのだ。ウマイヤド・モスクでの集団礼拝の光景は世界的にも有名で、たまに写真集などで見かける事がある。その壮観さは一見の価値があるので、是非写真集を手に取る機会があったら鑑賞するのもよいだろう。残念ながら今日は土曜日なので、僕はその光景を見る事は叶わなかったのだが。

Umayyad mosque wall

2010年10月15日金曜日

2.世界一古い街ダマスカス。

 僕はラーマたちのタクシーに乗り込んだ。シリアのタクシーはイエローカラーのタクシーでダマスカス市内なら200SP以内でどこでも行く事が出来る。すごくアバウトなのだが大体1SPが2円にあたるので、400円以内で市内なら何所でも行ける計算だ。

 ラーマ・マフマッドは将来有望な医者の卵だ。今はダマスカス医科大学に在籍している。ラーマのお姉さんはシステムエンジニアになるべく、学校で日々忙しく過ごしている。二人とも才女でしかも美人姉妹ときている。僕は二人に今日、宿泊すべきベストなホテル(安くて清潔で観光客に人気のあるホテル)を教えてもらったので、このままホテルに向かってチェックインだけすませる事にした。アル・ラビ ホテルに泊まる。このホテルの利点はオールド・ダマスカスにも、銀行などがある街の中心にも近いところだ。部屋はドミトリーで清潔だった。さっそく荷物をおろすと、僕はラーマたちにオールド・ダマスカスを案内してもらう事にした。

 オールド・ダマスカスは東西におよそ1800メートル、南北におよそ1000メートルのダマスカスの東の方に位置する古い城壁に囲まれたエリアで、世界遺産にもなっている。紀元前1500年のころからのものだと言われている。ここはヘレニズム文化やローマン帝国時代の建物の名残がたくさん残っており、それがイスラム文化と融合して、エキゾチックな幽玄さで包まれていたエリアである。有史から繋がっている古い建物がそのまま住居、商店として使われていたり、このエリアの中には古いキリスト教会があったり、古いモスクがあったり、アザーンの声に教会の鐘の音が混ざり合ったりと、彷徨いがいがあるしかも迷ったらなかなか出てこられない、楽しくて不思議な空間だ。

Souq at Damascus

2010年10月10日日曜日

1.ダマスカス、ダハディール地区にて。



シリアのビデオを作りました。是非見てください!



音楽家たちのビデオも作りました。こちらも是非視聴してください!

10月、僕はダマスカスの南のはずれにあるダハディール地区のとあるモスクの前に立っていた。それはそんなに大きくはなく、古くくすんだ白い色をしている青空によく映えるモスクだった。礼拝の時間らしくモスクには白い長着を来た人が沢山集まっている。おごそかな礼拝の時間がゆったりと流れている。モスクの前には一台のフルーツ売りの屋台があり、売り子のお兄さんがしばらく暇そうにしていたが、こちらが気になるのかちらちらと僕の方を伺っている。そして僕はお兄さんと目が合った。気まずいのでにっこり笑う。再び時間だけが流れる。またお兄さんと目が合う。お兄さんが何か話しかけてきた。
「هل تأتي من؟」
もちろん僕はアラビックはまったくわからないので、お兄さんに英語で返したが向こうもさっぱり英語はわからないらしく、とにかく僕が「アサラームアレーコム」と言った言葉だけが通じたので、お兄さんと僕は奇妙な空気の流れに身を委ねつつ、いつの間にか中途半端に打ち解けあっていた。お兄さんは身振り手振りで話をする。意味を推測しつつ僕も身振り手振りで返す。そんな状態がしばらく続いた。そしてお兄さんは僕の前からいなくなり五分後また戻ってきた。お兄さんは仲間を二人連れてきていた。その一人が口を開いた。
「ハロー!どっから来たんだい?」
 彼は英語が少し話せるらしく僕はちょっとだけ安心した。
「日本からです。」
「ここで何をしているんだい?」
 彼が不思議に思うのも当たり前だった。あとで聞いた話なのだが、ダマスカスに来る観光客がこのダハディール地区に入ってくる事などまずないのだ。観光の名所でもなく、宿もなく、まずインターネットではひっかからない地図にさえも載っていない地区なのだ。
 僕は答えた。
「友達を待っている。」
 そう僕がここに立っている理由は友達を待ってるからなのだ。途中で僕もここで何をしているのか分からなくなるほど不思議で奇妙な時間が流れていた。
 あれは数日前の事だった。

 僕はラダックから帰ってきた旅の興奮も覚めやらず、撮りためた写真を整理したり、友人から借りた写真集、ニコラ・ブービィエの「Dans la vapeur blanche du soleil,Zoe,1999(太陽の白い霧の中で)」を見たりして、仕事の合間の時間を過ごしている時にダマスカス在住のラーマ・マフマッドから一本の電話があった。
「シリアに来てみれば?」
 そしてこの一言で僕のシリア行きが決まったのだ。

 僕がラーマ・マフマッドを待っている間に地元の若者たちにいろいろな質問をされていると、礼拝が終わったらしくモスクから人々がぞろぞろと出てきて、老若男女、僕を興味深そうに取り囲んで僕の周りにはいつの間にか人だかりが出来ていた。若者がその状況を嫌って、僕が友人を待っている時間内で、このダハディール地区を案内してくれると言う。干しレンガとモルタルで作られた建物の間を縦横無尽に路地が走っている。もし一人でここに迷い込んだら二度と出て来れないような気がした。路地から路地を若者に案内してもらう。

Dahadeel,Damascus


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