2014年3月1日土曜日

11.世界中のアレグザンダー・スーパートランプたちへ。


chiktan

"Initially you're overwhelmed. But gradually you realize it's like a wave. Resist, and you'll be knocked over. Dive into it, and you'll swim out the other side."
きっと日本語ではこんな感じだ。
”インドでは始めは圧倒される。しかし徐々にそれが大きな波のようだと感じて、抗おうとするが、あなたはすぐに引倒されるだろう。そう言う時は飛び込むんだ。そして身を任せればいつかは対岸に辿り着ける。” 映画『The Best Exotic Marigold Hotel (邦題)マリー・ゴールドホテルで会いましょう』で砂埃と喧騒のジャイプール街をバックに、インドについてこう描写しているシーンがある。
そして映画の中でこんな言葉も出てくる。
Everything will be all right in the end... if it's not all right then it's not yet the end.” 
きっと最後にはすべてうまくいく。もしあなたがいまだ困難な状況にあるのであれば、それは最後ではなく、まだ道半ばという事なのだ。


また映画 『3 Idiots(邦題)きっとうまくいく』 の中で "All is well"という言葉が何度も何度も出てくる。インドではこの言葉はちょっとした魔法のようなものだ。でもこの魔法が効いているインド人が見た事ないのも愛嬌だ。そして僕は今日もきっとどこかで言うだろう。"All is well"と。

chiktan


チクタン村を離れる朝が来た。まだ太陽は隠れているが、透き通った朝の空気の中に浮かぶ山の端は、徐々に明るく輝き始めている。

僕はバスを待っている。

たぶん朝7時。バスは予定時刻をきっと1時間遅れて、おんぼろの車体を揺らせながらやって来た。僕の他に4、5人の村人をのせて早速出発する。インダス川の支流でヒマラヤの清流カンジ・ナラに沿って、いくつもの村を通り抜け、頭の中でルイ・アームストロングの『What a wonderful world』を6回口ずさみ終わるころあいに、カングラルという名の村に辿り着く。僕はこの村でバスを降りた。レー・スリナガル・ハイウェイとチクタン村への道の三叉路になっている拠点の村だ。ここでレー行きのバスに乗り換える。
朝の太陽は完全に山の端より顔を覗かせ、村や畑を照らし出しながらも、なんだか眠そうだ。
バス停には母と娘の親子がバスを待っており、かばんからラダックのパンであるタキを取り出し食べていた。のんびりした時間が流れる。ここでは時々時間にはリアリティがなく、今は何時だとか、あと何分待つとバスが来るんだろうかとか、なんだかどうでもよいことのように感じてしまうし、そんな事は実際どうでも良い事なのだ。僕は今日が何日かも良く知らないし、何曜日かもわからない。何月かと聞かれてもきっと自身がない。レーの街についたら調べるとするか。

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道の果てから近づいてきたものはバスではなかった。羊と山羊の群れが道いっぱいに広がり近づいてきたのだ。それを追うのは手にポプラの小枝を持った牧童たちだ。アッサラームと声をかけると、ワレーコンサラームと返ってくる。どこに行くのと声をかけると、ここで一番高い山の頂上を指差す。チロリンと首に鈴を付けた山羊と羊はンェェェーとメェェェーとやら各々の美声を聞かせながら、生涯一度も天敵を見た事がないような平和な固まりとなって、道ばたの雑草をついばみつつ、僕の前をのんびりぞろぞろと通り過ぎる。通り過ぎたあとには、ころころとたくさんのフンが転がっていた。

道の果てから近づいてきたものは一台のおんぼろバスだった。遠目からでもバスが少し膨らんでいるように見え、目の前でバスが止まった。バスには開閉扉はもちろん無く、ステップで乗客が手すりにつかまりつつも、外まではみ出すほど満員だった。しかし心配しないでほしい。ここは森羅万象が渦巻くインド、どんなに満員でも必ずあなたのスペースはあるのだ。とても込み合って乗れないかもしれない状況でも、途中で100人拾えば、バスが壊れる壊れないにかかわらず、必ず100人全員が乗れるのだ。そして僕は乗り込んだ。大きい荷物をバスの屋根に上げると、モーゼが海を分つがごとく、乗客の間に隙間が出来き、バスは僕を深いところまで飲み込んでいった。

ギアは大げさにシフトされ、バスはゆっくりと、うなりを上げて動き出した。何とか通路に留まる事ができ、揺れは激しいが、周りは人のクッションなので、それほど衝撃はなく、快適とも言えないが、不快でもなく、しかし周りの景色を楽しむには窓の位置が悪く、また空想を楽しむには少し疲れすぎていた。バスの中の重力の変化で、今はどこを走っているのかがなんとなく分かる。後ろに傾けば坂道を上っており、前に傾けば坂道を下っている。大きく後ろに傾けば峠を上っており、大きく前に傾けば峠を下っている。今、フォトゥ・ラという名の峠を越えているのは、やはりバスが受ける重力の角度で分かった。うなりを上げてバスは上り、下りはエンジンブレーキの軋む音にオイルの匂いが混じっていた。

途中でバスは止まり、数人の西欧人の旅行者を掃き出していく。ここはラマユルという名の場所で、月面にたたずむような大きなゴンパが崖に沿って作られており、とても美しく観光客には大人気な場所だ。バスはそんな事を知ってか知らずか、砂埃を巻き上げながらもともかく動き出した。途中チェックポストでパスポートのチェック。そして次のカルシ村でバスは休憩に入る。僕はチャイとパンを胃袋に押し込んだあと、強い日差しよけのために帽子を目深にかぶり、椅子を二つ使い、一方に浅く座ると、一方に足を投げ出した。

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少しうとうとしかけたとき、けたたましくバスのクラクションが鳴った。出発の合図だ。僕がバスのステップに一歩踏み出したとき、運転手が言った。「寝るんならバスの屋根がいいぞ。」僕は少し考えたが、屋根に登る事にした。バスの後部には荷物を屋根にあげるためのはしごがあり、僕はそれを使い屋根に上っていく。最後のはしごのバーに手をかけた時、屋根から手が伸びて僕の腕をしっかり掴んで、引き上げてくれた誰かがいた。エンジンが震えると、バスは低いうなりをあげて出発した。僕を屋根に引き上げた誰かは、「パルギュ村のハミットだ。」と簡単に自分の事を語る。僕も「日本から来たホンジョウだ」と言うと「知っている。あなたは有名人だ。」と言って笑った。

バスの屋根から見るラダックの風景はとてもエキサイティングだった。歩きながらとか、自転車に乗ってとか、車の中からとか、とも全く違う豪奢な自然の世界が自分を中心に置きつつ、前から後ろへ途切れる事が無く流れていった。鮮やかすぎる青と茶の2色の風景は、前と後ろの地平線と左右に見えるヒマラヤの尾根まで続きながらも、時々緑が混じり、そして村に入ると強い白い茶が点々と山肌に広がる。この中央アジアの広い大地では、避けるものがないので、前方から、とても強い風が終始体を叩き付ける。”ゴッ”と風が鳴く。隣りに座る僕の新しい相棒の帽子が空高く舞った。それを屋根から2人で目で追うと、大きく回転しながらまるで天使に摘まみ上げられた絹のように空中に舞い、あっという間に点となり、空に溶けていく。

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生きている。
なぜだかそう思った。

いつからだろうヒマラヤの空気に色があるのに気づいたのは。フィルターがない状態の純粋な色がある事に気づく。純粋な山に、純粋な大地に、純粋な風が混じると、とても純粋な空気が発色するのだ。僕は自然というものに少しだけ語りかけられたような気がした。また何かが僕に今までにない自然の違う一面を見せてくれている気もした。実を言うとそれは違う一面ではなく、確かな自然の真実の一面なのかもしれないとも思った。ソローが森の生活で見たものはこの感覚だったのではないかと時々考える。

chiktan

レーの街はすぐそこだ。

chiktan

昔、クリストファー・マッカンドレスという青年がいた。彼はアラスカでの冒険の途中で1992年の夏に亡くなる。『Into the wild』という彼を描いた映画の中で、マッカンドレスが言った言葉が印象的だ。

一度は自分を試すこと。
一度は太古の人間のような環境に身を置くこと。
自分の頭と手しか頼れない、過酷な状況に一人で立ち向かうこと。

そして彼は旅の途中でアレグザンダー・スーパートランプという名を使っている。世界中には彼のような青年がたくさんいるし、僕もまたその1人のような気もする。自分をどっぷりと試して欲しいと思う。それはなんでもいい。今、あなたがいる場所ややっている事とは、全く正反対の世界や行動に身を置いてみるのもいいかもしれない。それはあなたにとって、 替え難い経験になって、あなたに返ってくる事だろう。そしてそこからまた新しい世界が見えてくるかもしれない。

”きっと最後にはすべてうまくいく。もしあなたがいまだ困難な状況にあるのであれば、それは最後ではなく、まだ道半ばという事なのだ。”

All is well 〜きっとうまくいく・・。





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