2014年9月30日火曜日

「セヴァンの地球のなおし方」上映会

いわくらシネマ代表の本城です。

2014年10月19日(日)に「セヴァンの地球のなおし方」上映会があります。是非皆様のご参加をお待ちしております。



「どうやってなおすかわからないものを、壊し続けるのはもうやめてください」。1992年、リオデジャネイロで開催された地球サミットで、12歳の少女、セヴァン・スズキは大人たちに環境破壊を止めるよう訴えかけた。

その伝説のスピーチから、来年で20年。もうすぐ母親となるセヴァンは「大切なのは生活の質と健康、そして子供。だから私は自己中心的に、自分たちをどう救うかを考えていきたい」と、未来の子どもたちのために発言を続けている。セヴァンが今、世界に伝えたい

2014年9月17日水曜日

42.Workshop on glacier hazard in Stok village, Ladakh on 10th September 2014

満月の光が怪しく漂う雲とストク全体を照らしていたポーヤデイ(フルムーン・デイ)のあくる朝、にゃむしゃんの館でとあるワークショップが行われた。それは氷河による災害に関するワークショップで新潟大学の教授、奈良間氏による監修の元で開かれた。彼は教授というよりも登山家のアスリート然とした風貌の持ち主で、中央アジアを中心とした様々な山の氷河湖を調査しており、とても熱く山について語る横顔はまさしく山の男そのものであった。




ワークショップの参加者が集まると、まず始めに奈良間氏はヒマラヤ・レンジ全体の氷河の状況について語り始める。
「ネパールやブータンの氷河は大きく減っています。それとは対照的にカラコラム山脈の氷河は増えています。ここラダックはと言うと氷河が少しづつ減っていっています。」
そして教授は続ける。
「ラダックの1965年と2010年の氷河の大きさを比べると、天候の変化の影響で小さくなってきており、氷河の縁に小さな湖がいくつも出来てきています。」
「中央ラダックに氷河の数は237個、ヌブラには159個、ストクには6個、ザンスカールには73個で、ラダック全体の氷河湖の数は475個に及びます。」


41.にゃむしゃんの館。

にゃむしゃんの館。ストクの村のさらに奥、ストク・カングリへのトレッキング・ポイントの拠点となる場所にその素敵なゲスト・ハウスはある。日干し煉瓦壁に埋め込まれている古い木製の扉の上には暖かな文字でNEO LADAKH にゃむしゃんの館と書かれている。そんな扉を潜り抜けると目の前にラダックの伝統的な作りをした大きな家が古き良きライフスタイルを主張するかのごとくデンと建ってる。日干し土煉瓦で作られているその家の肌は、ラダックの目も眩むような青い空に良く映えるなにげに土香の薫る白色である。そんな壁に寄り添うように階段が付けられ、その足元には9月のはんなりと引き締まった空気の中、幾つものコスモスが気持ち良さげに揺れていた。

40.チクタン村とスイス・ツーリスト・キャラバン。

いつになく暖かいチクタンの朝の起きがけに、朝日が光のカーテンを干している屋上で、 Paul AusterのAuggie Wren's Christmas Storyを読んでいると、盲目のおばあさんがAuggieを抱き締めるくだりに来たところで、ジャファリ・アリの数十フィートほど先のフィールドから、僕を呼ぶ声が聞こえた。早速彼のところへ行ってみると
「今からキャラバン隊がくるので、この石積みの塀の幅をもっと広げて車がフィールドへ入ってこれるようにして欲しい。」
とこうくる。僕は石垣を崩しながら、石を塀の脇に放り投げていると、一台のトラックがタイヤを土に滑らせながら入ってくる。トラックはフィールドの中程で止まると、荷台からキャラバン隊のガイドたちが次から次へと飛び降り、見事な段取りでテントをいくつも設営してゆく。そして遅れるように入ってきたのがマウンテン・クロスに乗った八人のスイス人ツーリスト達だ。この八人のツーリストと七名のガイドとの合わせて十五名の大キャラバン隊は今日はチクタンで一泊、明日はラマユルで一泊、それからレーに戻る予定らしい。往復八日間かけてのキャラバン隊にサポートされながらのサイクリングだ。段々畑になっているフィールドの上段にキッチン・テントとティー・カウンターが併設されているレスト・テント、そして二段目に八人のツーリストたちのテントがいくつか設営されている。チクタン村でのこのフィールドから見える景色は、もっとも美しいとされる場所のひとつで、フィールドの小麦の秋の収穫は半分ほど終わってはいるが、その美しさは変わらず残っていて、奥にはチクタン城の後ろ姿が垣間見える。


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2014年9月1日月曜日

39.ゲストハウスの2階を作る。

チクタン村で僕はゲストハウスの2階部分を作っている。今回雇った大工さんは5名。みんなネパールからの労働者だ。まずは土干し煉瓦から作っていかなくてはならない。土をいろいろな場所から集めてくるところから始める。土は敷地の縁の部分を深く堀りそこから取ってきたり、段々畑の一部を崩してそこから取ってきたり、近くの川原から運んできたりする。もちろんそんな土は小石が混ざっているので除去しなければならない。手で除去をするとあっという間に年が暮れてしまうので、ここでインド式の秘密兵器が登場する。四辺を木切れで作った枠の中に網が掛けられている。それは木枠の四隅をかろうじて錆びた釘で止めてあるので、倒れるときっと簡単に壊れる。ここではそれで十分なのだ。そこらへんに落ちているものを拾ってきてちょちょいと作ればそれで完成。お金はかからないし、山を越えてまでも店に行き、お金を払って買う必要もない。たとえお金を払って秘密兵器を買ったとしても、兵器はきっと手作りとそう変わらないレベルだ。逆に言えばそこら辺で拾ったものをかき集めてちょちょいと何かを作れば、ここではそれで立派な店先に置ける商品になるのだ。チクタンの仲間が以前、路上で売られている手押し車に積まれた中古の服の山を見て、僕に申し訳なさそうに質問した。
「日本には中古の服なんか売ってないでしょう。」
「まだ使えるのに捨ててしまう文化と、こうしてリサイクルして使えなくなるまで使う文化とではどちらが先端を行ってると思う。決して恥じる事はないよ。」
僕はそんな会話を交わした事を覚えている。


38.チクタン村とランドセル。


チクタン村の晩夏が薫るある朝、水路に沿って忍び足で歩く二つのふわふわとした固まりがある。その一つが家の影から頭を覗かせている。その光る瞳は用心深く左右の様子をうかがい、村の洗濯場の横の石階段を駆け降り、ぴたりと止まるとまた左右を確認する。そして忍び足から駆け足になり、水路の横を駆け抜けてゆく。猫である。昔からチクタン村に住み着いている少々痩せてはい

37.スル谷のダムスナ村とパニカル村。

スル谷の至高の宝石ダムスナ村に到着する。ここは他のスル谷の村々とは違い、太陽に細かく乱反射する錦糸のような川がいくつも流れていて、どことなくザンスカールの匂いをまとった湿原地帯になっている。ヒマラヤの山々に囲まれた谷は徹底的に平らで、その馬や牛たちの楽園は、緑色をしたビロードの絨毯に覆われている。なにかに見られている感覚がしたのでふと見上げると、谷の遥か向こうには真っ白な衣を身にまとい天を貫くようなヌン・クン(7135m・7035m)の勇姿が、眩いばかりの青い空にもたれ掛かっている。右側の富士山より3300mほど高いインド最高峰の山がヌンで、左側の山頂付近が鉄槍のようになっているのがクンだ。このヌン・クンに行くのであればスル谷最深部のパルカチク村から挑むのが良さそうだ。


36.スル谷へのドライブとツァングラ村。

そしてカーチェイスが始まった。僕の隣に座っている男はポンコツのマルチ・スズキを時速80キロまで加速すると、仲間のバンを右側から追い抜いた。そしてスピードを維持したままコーナーに突っ込んでいく。ミッション・ギアには一切触らずフットブレーキを目一杯踏んで減速し、車は大きくかつ不安定にそのお尻を左に滑らし、深いカーブを砂煙を上げながら運良く乗り切ると、再び時速80キロまで加速する。ここは標高4000メートル弱のガードレールもないナミカ・ラ(峠)の下りである。男にとってギアはノッキングしたときにだけ使うものであり、エンジンブレーキというそんなコジャレた機能のことはもちろんまったく知らない。だから危険な時は男は黙ってフットブレーキをベタ踏みすればよいのだと思っている節がある。そして男の運転は決してうまくはない。いやむしろここが日本だとしたら下手糞なドライバーの上位1パーセントに文句なく入る栄誉をもらえるだろう。まぁそんな状態で数十もの峠のコーナーをほとんどは運が味方をしてくれて、それを征服し終えると僕はこわばりながら掴んでいたドアの上部にあるハンドルから手を離した。もし男があの有名な豆腐屋なら、豆腐が顧客に届いたときにはそれはきっとヨーグルトになっているはずだ。

チクタン村の仲間と今日はスル谷のパニカル方面へピクニックに行く日である。そして良く晴れた良い日だ。僕たちを乗せた車4台はカーチェイスもほどほどにカルギルの街に着くと、キャンプのためのいろいろな物資を調達し、そしてスル谷へ向かった。スル谷の日に輝いている清流沿いを車は走らせる。途中昼食はサンクーの木々で囲まれた芝生の上でカレーを料理してみんなで食べる。先ほどまで後部の座席で鳴いていた鶏たちのうちの一羽が、僕の食べるカレーの中に良く煮込まれたむね肉となって浮いていた。僕たちは昼食を終えるとさっそく出発する。


35.チクタン村の小麦の収穫と冬のラダックの話。

7月下旬から8月中旬にかけてのチクタン村は、小麦の収穫のシーズン真っ只中にある。黄金色に実り風に揺れる麦の穂たちは、村人の手によって刈り取られ、麦畑の隅に集められ、後は脱穀を待つばかりだ。そんなに古くない昔、殻竿などの脱穀器具で脱穀をしていたが、ラダックの殆どの場所では現在、エンジンを搭載した脱穀機で脱穀をしている。

ある日のとても早い朝、家のおかみさんは、軽快なリズムを奏でるパン職人のように、団子状に練った小麦粉を右手から左手、左手から右手とこぎみ良く受け渡してゆき、一枚の平たい円形状のパンを作ると、タップと呼ばれる暖炉に牛糞と薪をくべ、その頭にパンを次々と載せ、それらをこんがりと焼き上げてゆく。そんな朝にトラクターに牽引された大型の脱穀機が、日干し土煉瓦で作られた壁の一角を壊しながら、小麦の刈り取りが終わったばかりの麦畑に入ってきた。トラクターは脱穀場を確保すると、しっかりと脱穀機の足場を固めて、エンジンを回す。
「ブルン・ブル・ブル・バ・バリ・バリ・バリ・・・」
ひきつった鶏の朝の鳴き声は、たちまち脱穀機の回る音にかき消される。この日ばかりは家族総出で子供たちも学校の休みをもらって家の作業に動員される。さきほど焼き上げたばかりのタキと呼ばれるパンの山は、お茶の時間や昼食時に青空の下で家族とともに食べるのだ。


34.チクタン・エリアのILP(インナー・ライン・パーミット)の話。

「ツーリスト・エージェンシーで必要な書類を揃えてからまた来て。」

上司が居ないのをいいことに、肩に携帯電話を挟んで恋人と会話をしてる感じの、なんだかとても投げやりに仕事をしているような、そして何も分かってなさそうな、カルギル・ディストリク・オフィスのスタッフからこんな答えが戻ってきた。僕は今チクタン・エリアのインナー・ライン・パーミットを再び取るためにカルギルに来ている。という訳で今からカルギルのバザール内にあるツーリスト・エ
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