Thursday 20 October 2011

13.コロンボ行き。

 聞き間違いであろうか。蚊帳の中、闇にくるまり息をひそめ耳をそばだてる。
”こつこつ”

 ケッタラーマ寺の宿坊のとある小部屋の扉が二度確かに鳴る。常世が薄らぎ現世が沁みてくる暁七つの午前四時。いったい誰であろうか。上下二枚開きの上の扉の鍵を引きそっと開いてみる。残月の淡い青光に照らされて僧ダマナンダーがそこに立っていた。そして小部屋の中に射すその影がゆらりと揺れて低く云う。

「時にあなたは大統領の弟に会わなければならない。スーツをコロンボで一つ新調しましょう。今宵は雲もなく風は静まっています。コロンボに旅立つなら今が最良の時。」

 こうして僕は前回のコロンボ行きより間を置かずにまた旅立つ事となった。沐浴を手早く済ませると、僕は僧ダマナンダーと共に寺を出る。

Sri Lanka


 寺の入り口に一本の菩提樹がある。ケッタラーマ寺の彼は今病気で床に伏せている。枝には風もないのに葉は一枚も見られず、陽気は上々にもかかわらず彼の顔色はかなり悪い。先日菩提樹のお医者様がいらして処置をしてもらっていたが、彼を見守っている村人たちの心中は穏やかではない。

 コロンボの人たちにの菩提樹への信仰はとても厚い。日本での桜と同じに、いやそれ以上にここで菩提樹は万人に愛され続けている。桜の木の下には死体が埋まっていると坂口安吾と梶井基次郎はしたためているが、菩提樹の下には二千年以上にわたっての様々な人々の思いが今も生き続けている。それ自体が菩提樹と言う名の人々の思念の姿なのだ。

 白色が空の淵より徐々に沁み出し暗闇にその歯を立て始める。そしてそこに響き渡るは二つの違う音色と音階の足音。僕たちは田のあぜ道や森の中の小径をゆっくりと歩いている。そして僕たちは終始無言である。森の中の辻をいくつも曲がり、ようやく最初の鳥が鳴き始めた頃、僕たちは幹線道路沿いのベージュ色がはげた誰もいないバス停に辿り着く。

 短い時が過ぎると何台ものスポーツ自転車が目の前を疾走していく。またはジョギングをしている人たちの汗が朝日に反射して肌に光る。しばらくして丘陵の道路のてっぺんより朝焼けの光を背に受け、一台のトゥクトゥクがこちらにやってくるのだ。

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 クルナーガラを出発して古バスに揺られながら走っていると目の前に一台の古バスが割り込んでくる。僕の目の端に”△△水車小屋スイミングスクール”とバスの後面に書かれた文字が飛び込んで来た。それは衝撃的でいてかつ素敵な再会だった。昔僕はあのバスに乗って、そのスクールに通っていた事があるのだ。

 まさかこんな所で再会できるとは子供の時はもちろん今もそんな事は思いもしなかった。僕たちのバスは加速するとその古バスに並ぶ。そのバスと少しの間並走して、また僕らの古バスは再加速する。その時僕が隣の古バスで見つけたものは、遥か後ろに風のように流れていった車窓から外を眺めている少年時代の僕の姿だった。

 午前九時、コロンボ郊外の道路にバスより僕たちは吐き出された。雑居ビルの二階へ続く階段を上り突き当たりの安食堂で朝飯を取る。僕たちがパンを頼むと日本でいうところの食パンが一斤出てきた。その干し草のベッドのようなふかふかのパンにカレーをつけて食べるのはまた格別だ。

 このパンはテーブルから床に落とすとおそらくきれいな放物線を描いて大きく弾むに違いない。スリランカのパンの美味さは目を見張る物がある。混じりけの無い質素の中に自然の風味香りがふんだんに含まれており、味は舌に沁みるだけではなく心にもじわりと沁みていく。

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 朝食を終えてお寺に向う。香り立つ果物の屋台が立ち並ぶ雑踏の中より、裏通りのイスラム教徒の居住アパート街に入り、雑草の生い茂った細い道をしばらく歩くと突き当たりに錆びた鉄の大きな扉に行き当たる。その扉の切れ目から腕を差し入れて錠を回すと、きしむ音をたててそれは開く。

 この裏口から入ると目の前すぐに大きな宿坊が現れる。僕たちはその宿坊の二階に通されそこに逗留した。宿坊の横に苔むしたコンクリートで囲まれた貯水槽があり、そこは静かなる沐浴場になっている。その浴場のコンクリートの淵を急がしそうにしたリスたちが駆け抜けていく。

 そして彼らは地面に滑り降りると同時に、目の前の大きなココナッツの木に飛び移り、駆け足でそれをよじ登ると、あっという間に天に消えていく。僕たちは腰から下を布で包み、颯爽と沐浴場に足を踏み入れる。右手を逆手にして木桶を持ち、立て膝を付いて一気に水を汲み上げれば、立ち上がると同時に桶から放たれる圧倒的な水量を頭から浴びせる。

 それを何度も繰り返し、石けんで体中を泡立たせ、また樽の中の水を頭の上より何度も開放する。身がきれいになった頃合いを見計らって、壁面に架けてあったタオルをさっと引き抜き、手早くかつしっかりと体を拭いて、沐浴場から颯爽と上がりつつ空を見上げると、コロンボの灼熱の太陽が顔の水滴を気持ちよく蒸発させてくれる。

 空を翔る鳥たちが夏の光を受け旋回している。僕は常夏の光に眩んだ目を細めつつ、コロンボはまだ真夏なのだと感じる。

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