2011年10月21日金曜日

14.コロンボの朝と昼と夜と。

 午前中はコロンボの宿坊で中島敦を読んで過ごす。

 山月記の主人公李徴はとうとう自分の詠む詩歌だけでの生活に窮してくると、突如発狂して妻と子供を残したまま山野に消えてしまう。

 数年後のある月がとても美しい夜、李徴の友人であった袁傪は旅の途中に洞穴の中より人の声のようなものが聞こえてくるのを感じ、そこを覗けばなんと人の言葉を発する虎がおり、話してみると昔疾走した李徴であることが分かる。

Sri Lanka


 李徴の告白は昔山野に迷い込み虎に変わり果てた自分に気がつき、今は人と獣の心が行き来しているが、今後その心もどうなるか分からないので、ここで自分が記憶している詩を書き残してほしいと云う旨を袁傪に伝える。

 そして李徴は自分の女房子供より先に詩の事に心が動いた事をとても恥じ、家族には自分は亡くなったと伝えて欲しいと告げる。袁傪は詩と家族の件を了承して山を離れる途中で後ろを振り返ると、残月に向って咆哮している一匹の虎の姿がそこにはあった。


 この味わい深い物語はひとつの古譚として書かれているが、スリランカで過ごしていると本当にそんな事が起こっても少しも不思議ではない気配さえある。虎や豹は人から進化や変異した動物なのではないかと思えてくるのだ。小動物にさえ時にそう思う事もある。

 ここにいると夜空に浮かぶ月が人だけのものではない事がはっきり分かる。ぽっかり浮かぶ満月が夜に穴をあけた日、人は空を見上げる。その時節にココナッツの木の上の隣人たちも鼻をひくひくさせつつ、首を精一杯のばして、夜を見上げているのが分かるだろう。

 森の中で月に向かい咆哮している獣の気配も感じられる。月光を右から左へ横切る鳥たちの群れはどうだろうか。彼らの影もまた首を傾げるようにおそらく月明かりの方角を見ているだろう。それは彼らが人の様と云う事ではなく、人が彼らの様と云う事なのだ。

 満月のもとでは人や獣や小動物の差異がきれいに消える。人としてではなく生きとし生けるものとして、万物を共有するは自然の権利だ。

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 昼食を宿坊の食堂で取る。一階の明かり取りの窓よりやわらかい光が迷い込む。その明かりの先には長いテーブルが置いており、その上にころころと太ったご飯にスリランカ・カレーの総菜たちがのる。僕は皿にご飯を盛り、テーブルの端より一つずつおかずたちのもとを巡る。

 野菜、魚、疑似肉、いも、パパダン、フルーツの煮物など豊富なおかずをご飯に順番にのっけていく。赤、緑、黄、橙、茶、黒、白など彩りは次第に鮮やかになり、皿の上に一つの抽象画が完成する。”地球生命と自然色彩の関係をブッディズムより考えるその効果と方法”という名の作品を皿の端から食していく。

 毎日そんな壮大な宇宙を食べている訳だが、日に日に健康になっていくのが分かる。そして最後にはデザートが出てくる。今日はカードと言う名の水牛のヨーグルトとモンキー・バナナだ。カードはくせがかなり強く独特の臭みもあるが、それは旨味と同義語だ。底に溜まる液体だけを飲む事もできる。

 それらは豆乳のような粗雑さと発酵の神秘だけが引き起こせるちょっと大胆で不思議な味。むっちり太ったモンキーバナナはいつも熟れていて、皮をめくると同時にその芳香は柔らかく放射状に広がり、その皮をゴミ箱に入れておくと一日中天然のコロンの香りが部屋に居座る。

 バナナの味も歯ごたえはしっかりしているのに口の中で豊潤な濃厚さが騒ぎながら溶けていく。そして庭に抜ける中途半端に開いた扉が風で大きくあくと、そこからリスたちが順番に顔を覗かせる。彼らの背後には森へ続く深い緑が広がっていて、時折遠くから聞こえてくる車の音は、そこに住む小動物たちの鳴き声にかき消される。

 室内に入ってきた姿無き優しい風は小さな怪盗となり、華麗にバナナの香りを盗み出すと、その香りを隣の部屋へ運んでいく。

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 午後にスーツを買いに出かけ、夕方よりコロンボの海辺をつらつらとそぞろ歩く。沈みつつある太陽はゆっくりと溶け出し、その赤いアイスクリームは水平線の淵を舐めるように染めていく。水平線の上では赤く染まった雲とそれを浸食しようと試みている夜がせめぎあっているのが見える。

 海辺からの風は強く、大陸を旅してきた彼らはコロンボの沿岸で行き場を失うと分散し、ある者は上陸を試み、ある者は海へと帰っていく。風にあおられた波は高く白い飛沫をあげながら砂浜を洗っていく。浜辺では夕暮れの恋人たちがハイヒールを手に持ちつつ波と戯れている。

 もう決して使われる事の無い錆びた大砲が海に向って無言の咆哮をし続けている。昼が完璧な夜を知らないように夜も完璧な昼を知らない。それと同じように大海の遥か彼方に目を向けると、世界もしくは宇宙は決して知る事のできない事象で埋まっているのが分かる。それらは真理の表と裏であったりするので余計やっかいだ。

 存在は密接に感じられるが決して知覚する事はできない。語ると離れていき、つぐむとまたそこに気配がある。そんな事を考えているといつの間にかいつもの優しい夜の闇が街を溶かし始めている。

 そして時折吹く強い風が、目の前を歩く少年の手から絡み取った赤い風船を天高く舞い上げると、それはあっという間に夜の闇に塗り込められる。今宵の美しい月とそれに照らされて流るる雲に向って、僕は李徴の虎のように何かを吠えた。しかしその声は暗くて深い波間に藻くずとなって消えていく。

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