2011年5月16日月曜日

21.デジャブ。

 ズガン・チクタンよりカンジ・ナラ沿いの道を5キロ程下ると道が分岐していて、右に行くとサンジャク方面へ、左に行くとシャカール方面へ抜けるのだが、方向を左に曲げ橋を渡りふと見返ると、渡ってきたこちらがわのへりの遥かかなたに小さな村が背は乾いた山、お腹に畑を抱いて、カンジ・ナラの揺りかごに揺られながらあくびをしている。

 橋の麓には学校があり半分は先の洪水で流されているのだが、先生と生徒たちはたくましくかつ果敢に残りの半分で授業をしていた。ミドル・スクール・シャカルドゥ、男の子が25人、女の子が22人、先生が7人の校舎は小さくなってしまったが、割と大きい学校だ。

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 学校の裏よりは小径が続いており僕はそれを歩いている。まいたばかりの種から少しだけ顔を出し始めている緑の畑の中の小径を進む。やっと緑の季節がやってきた。緑が芽生えると村里は一気に色鮮やかな衣を身につけ始める。前方の木々が揺らいでいる間に村がしっかり見え始めた。

 パチャ・タン村だ。あぜ道のような小径を進んでいくと足下を木漏れ日が暑くもなく寒くもないちょうど良い気温に調節してくれて、その間から見え隠れする村は豊かな春の香りがする。小径は細く長くそれに沿って石や日干しレンガで作られた家々が並んでる。

 右から左へ髪をスカーフで隠した少女が駈けて行く。家の屋根でくつろいでいる女性は透明な優しい東欧アルメニアの言葉に似た発音でお茶に誘う。この小径は突然僕を単館系の東欧映画でも見ているような錯覚に引き込む。デジャブ。でもここは正教の世界ではなく、イスラムの世界。

 しかしここでの生活が神のもとでの静謐、敬虔、質素であるのにいつも穏やかで優しいのは同じだ。東欧映画のように深く濃い霧はないけれど、木漏れ日の中の修道院のような静けさは、いつでもどこにでも出没する。まさにこの村はそのようなところ。

 夜の中のゆれるろうそくの向こう側に見える静かに祈る姿。食事が始まる時と終わるときの賛美歌のような優しいつぶやき。女性たちから時々聞こえる細く優しいささやきにも似た話し方。男性たちからも聞こえる低く優しい話し振り。木漏れ日の中の古き家々。

 学校帰りの駈けていくお揃いの白いスカーフを巻いた女の子たちとその後ろから固まって歩いて来るお揃いの白いシャツを着た男の子たち。日常の当たり前の時間のしずくが貴重で本当に大切なものに感じるときがある。

 そんなときは両の手からひとしずくも落とさないようにと目を開き、耳をかたむけようとするのだけど、その優しく透明な短編映画は一瞬にして心の中を通り過ぎてしまう。

 残っているのは奇妙な疑似体験のかすかな残り香だけ。強烈な印象を残す村が10に1つはあるが、そのような村に限って徹底的に静かだったりする。なかなかうまく言葉では伝えられないけどパチャ・タン村もそんな村の一つだ。

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