ーー 2011年よりシリアは大変深刻な時期を迎えております。 日々ニュースから入ってくる情報は辛い話ばかりです。もう誰一人として死んで欲しくはないのです。僕はこの内戦が終わる事を心からお祈りしています。ーー
*シリアのショート・ムービーを作りました。 ここに写っているのは2010年の平和なシリアです。*
僕はパルミラからホムスに向かうミニバスに乗っている。ミニバスは満員で観光客は僕一人のようだ。シリア商人、ベドウィン、女たち、さまざまな種の人たちが乗っている。ひたすら砂漠の中を走る。バスの熱気と臭気がアラブの雰囲気を演出する。バスの窓から入る風だけが体を冷やしてくれる。
数時間砂漠の中を走り、ホムスのガラージュに到着した。ホムス・ガラージュは人にあふれていた。僕はハマの街に向かいたいのだ。ホムスの人たちにハマ行きのバスはどこかと僕は尋ねる。するとここからはハマ行きのバスは出ていないと返された。市バスに乗ってホムス市内の違うガラージュに向かわなければならないらしい。
僕はホムス市内を周遊している市バスに飛び乗った。観光客が市バスに乗り込んでくることは珍しいらしく、僕はその大きなバックパックと相まって注目を浴びた。僕はシートに身を埋めてホムスの景色をぼんやり眺める。途中のバス停でおばあさんが乗ってきた。僕はおばあさんに席をゆずる。するとどうだろう。バスに乗っている男たちが次々と女性や子供に席を譲り始めた。バスの中、立っているのは男たちだけで、座っているのは女性、子供、老人だけになってしまった。僕は驚きつつも少し嬉しかった。
ガラージュに到着したので僕はそこで降りて、ハマ行きのバスに乗り込んだ。ミニバスに揺られて数時間後、僕はハマの街降り立った。
ハマはオロンテス川を懐に抱き、数多く点在する水車が多くの人たちを魅了する。水車は紀元前10世紀頃には登場していたようだ。昔は灌漑のために水車が使われていたが、今はもっぱら観光用としてしか動いていないようだ。今年は干ばつのためオロンテス川の水は少なく、水車は行き絶え絶えにやっと動いてるという状況だ。ハマはシリアでは五番目に大きな街で、大きさがファニーなサイズなので、街を散策するには適当な大きさだと思った。ハマの人たちは大変親切で、子供たちは無邪気すぎるほどだ。ハマのある場所に新石器時代から石器時代の人類の痕跡が残されている。
シリアの近代史上最大の悲劇、1982年に起こったハマの大虐殺に触れないわけにはいかないだろう。この話は1930年代まで遡る。その頃、バース党に対抗してシリアの学生とエジプトムスリム同胞団とでコーランに回帰しよう、ムハンマドの言う真実の世界を考えようと言う運動が盛んに起こったのだ。
そして1970年以降にハマではムスリム同胞団に対抗して少数派であるアラウィー派のアサド一族が支配を強めていく。ハマの街ではアサド政権に対するゲリラ戦が恒久的に行われるようになる。
そしてついにムスリム同胞団は1980年7月にアサド大統領の暗殺を企てるものの暗殺は失敗に終わった。すぐに政府はムスリム同胞団を駆除する法案を通過させた。
1982年の1月、ムスリム同胞団はホムスからバース党と政府機関を移動してきて、ハマを”解放区”とする宣言をする。そしてついに1982年2月アサド大統領率いるシリア軍はハマの街を包囲して降伏を迫った直後に総攻撃をかけた。それは日本が高度成長の絶頂期を迎えようとしている時、ベトナム戦争の後遺症でアメリカが疲弊している時、そしてジョン・レノンが凶弾に倒れてから2年目の出来事だった。
市民35万人のうち1万から2万5千人の人々が亡くなり(もっと多くの犠牲者があると言う話も)、その犠牲者のほとんどは女子供だった。モスクや教会などの様々な遺産も旧市街ごと破壊つくされた。この大虐殺の後、シリア内のムスリム同胞団とその支持者は処刑され、一部は国外に逃げ伸びたようだ。
その後の話によるとハマからはほとんどの市民が海外に逃げ出し、今住んでいるのはハマの外からやってきた人たちらしい。
僕はへたれなのでこの歴史についての感想は特にない。ただそれを事実として受け止め、今の新生ハマの街を見てみたいと思ったのだ。
水車ごしに見えるハマの街並は美しかった。モスクの尖塔がこの景色にアクセントを与えていた。
街の界隈を歩いてみる。色とりどりのナッツが売られている。
ハマの少年兄弟に会う。写真を取ってほしいとせがまれて僕はカメラを向ける。
ハマのハンドクラフトセンター。ハマの名工を集めて、手工芸品をここで制作して販売をしている。
ハンドクラフトセンター裏の高台に広がる市街地と月。
機織り職人。
盲目の手工芸人。見事な腕さばきで工芸品を作り出していく。
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