Sunday 17 October 2010

4.砂漠のオアシス、パルミラ。

Restaurant at Palmyra

次の日の朝、僕はダマスカスのガラージュ・ハラスターに向かった。セルビスやバスのターミナルをシリアではガラージュと呼ぶのだ。セルビスと言うのは、大型のワゴン車を使ったタクシーの事だ。SERVICE TAXIと表記する。ガラージュ・ハラスターはダマスカスのガラージュの中では規模が大きく、朝のまだ日が昇る前から人であふれていた。ターミナル沿いには格バス会社のチケット売り場が並んでおり、その向かいには多くの売店やレストランが朝の空腹の乗客を飲み込んでいる。



 僕はここからパルミラへ行くバスを探す。時刻表や案内図の前で立ち尽くす。すべてアラビア語だ。もちろん僕はそれらをまったく読めないでいる。でも心配はご無用。ここシリアは前述した通りホスピタリティーが非常に高い国なのだ。この危機的状況を回避したいのなら、ただ困った顔をすればよい。するとどうだろう。ほんの数十秒で2、3人のシリア人が僕の事を心配して駆け寄ってくる。僕は彼らにパルミラに行きたい旨を伝えた。彼らはパルミラ行きのバスのチケット売り場まで連れて行ってくれて、そして僕が乗るべきバスも教えてくれた。バスは30分後に出発だ。出発までの短い時間彼らと話をした。
「僕の友人は、日本に仕事で行っている。僕は友人から日本の事をいろいろ聞いて、すばらしい国だと言う事を知っている。僕は日本を非常にリスペクトとしている。日本の道路にはゴミが一つも落ちていないと聞いたが、本当か?」
 イヤッド・バセムが言った。
「本当さ。日本の道路は非常にクリーンだ。僕もシリアの事を非常にリスペクトしている。シリアのホスピタリティーの高さは世界一だ。」
 僕がそう言うとイヤッド・バセムは大変嬉しそうな顔をした。
 出発の時間が来たので僕はバスに乗り込む。バスに揺られながらダマスカスを出てしばらく走ると、目の前に砂漠地帯が広がってきた。バス内の気温が徐々に上昇する。開いているバスの窓からは乾き切った砂漠の空気が風で車内に運ばれて来る。シリアの匂いがした。

 三時間ほど走ると、パルミラの街の郊外に到着する。バスステーションで降りるとたくさんのタクシーの運転手が降客のまわりに寄ってきた。パルミラの中心まではここからタクシーで行かなくてはならないのだ。僕は一番安いタクシーをチョイスすべく値段の交渉に入ると、タクシー運転手同士で、ののしり合いがはじまった。
「こいつはアリババ・タクシーだ。乗るとぼったくられるぞ。」
とか
「こいつのタクシーに乗ると身ぐるみ剥がされて砂漠の真ん中に捨てられるぞ」
とか、不仲のお二人のようだ。僕はけんかしてるタクシーを横目に年老いた運転手のタクシーにそそくさと乗り込むと、すぐに出発した。振り返ると”お前のせいで客が逃げたではないか!”などと言っているのだろうか。天を仰ぎつつまだののしり合っていた。本当に仲がいい二人だ。

 パルミラの街の中心でタクシーから降りると、僕はレストランで朝食を取る事にした。

 僕はブレッドとティーを頼んだ。よく地方では手頃に食されている薄焼きのパンだ。名前はホブスと言う。インドのナンにも似ているが、食感が全然違う。素朴な味がする。バターやジャムを塗って食べたり、ヨーグルトに付けて食べたり、肉や野菜を巻いて食べたりといろいろな食され方をしているのだ。

Breakfast at Palmyra


 僕は朝食を食べ終えるとさっそくパルミラの遺跡へ向かう。

 パルミラはシリアで一番有名な観光地だ。ナツメヤシのオアシスに存在する巨大な遺跡群なのだ。古代よりシリア砂漠を行き交うキャラバン隊にとって重要な拠点となっており、地中海沿岸と、東のメソポタミアやペルシャを結ぶ重要なオアシスだったのだ。歴史は古く旧約聖書にタドモルという名前で出てきている。一世紀から三世紀までがシルクロードの拠点として一番栄えた時期だ。しかし273年にローマ帝国の攻撃によって陥落し、ついに廃墟となってしまった。

Palmyra


 僕は古い石畳を歩いている。太陽が容赦なく照りつけ僕を困らせる。水を口にしながら歩く。5、6人の子供たちが石畳の上で自転車に乗って遊んでいる。子供たちは疲れ果てた僕の表情を見て、自転車の荷台を指差す。僕が荷台に飛び乗ると、一人の子供は自転車に立ち漕ぎをしながら、一人の子供は自転車の荷台を押しながら、残りのの子供たちは”がんばれ”と声援を送る。子供たちは僕をパルミラの遺跡の入り口にある記念門のところまで運んで行ってくれた。
「シュクラン。(ありがとう)」
 僕はそう言うと、バックパックから日本から持ってきたお菓子を取り出し子供たちに与えた。
「アフワン。(どういたしまして)」
 子供たちはそう言うと、丘の上の家に向かった。

Camel and ruins


 列柱が道の両側にそびえ立っている。太陽の光をその柱が歴史を感じさせるざらりとした表面で受け止め、輝いていた。柱の根元には一頭のらくだが休んでいる。彼は僕の方をちらりと見たが、大きくあくびをすると、興味なさげにまたゆっくり休み始めた。

Left side tall ruins


 僕は列柱道路を歩き出す。遥か彼方に見えるドライマウンテンの頂上にアラブ城が見える。まだ午前中の朝早い時間帯なので観光客は少ない。空は果てしなく青く広く、砂漠も果てしなく広く、早く人類の痕跡を消したがっているようだった。

Peeps ruins


 遺跡の間を覗き込むとまた遺跡が見える。ここパルミラでは遺跡の見つからないように歩き回るのは不可能だ。次から次へと押し寄せて来る歴史の波に、僕は思わずたじろぐ。圧倒的なこの光景に目を回して頭上を見上げると、一匹の大鷲が気流に体を預けて遠くの獲物を狙っていた。

Long pillar and arab castle


 列柱の間からアラブ城が見える。いつ誰がアラブ城と呼んだのかはしらないが、正式名称はQALA'AT IBN MAAN。17世紀にFakhr ad-din al-MaanIIが建てたと言われている。この城から見える夕暮れ時の景色が大変有名で、僕は時間的に見る事が叶わなかったが、この風景を見た友人があまりの美しさにアラブ城から転げ落ちたと言っている。

Pillar and arab castle


 列柱の間から見えるアラブ城。

Ruins and arab castle


 列柱道路の間から見えるアラブ城。

Merchant and camel


 僕は列柱道路の一番奥まで行き、引き返す。遺跡の入り口付近ではラクダとベドウィン風のアラブ商人がいた。ベドウィンのスカーフのカフィーヤを売っている。赤い柄をしているカフィーヤはベドウィンの証であり、誇りでもある。ベドウィンとは街ではない場所に住む人々の事で、放牧やラクダでの輸送で生計をたてているアラブ系の遊牧民の事を指す。ベドウィンの特徴は強い血縁関係の部族社会だ。イスラム教が布教される以前、いにしえの時代よりこの社会形態は存在していたのだ。ベドウィンの歴史はパルミラの歴史と同じくらい古いものかもしれない。

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