Friday 15 April 2011

3.ラダックの日常と悪夢。

 朝起きるとラダックは薄い雪の衣装をまとっていた。

ladakh



 朝の洗顔と洗髪は凍り付くような気温の中だったが、これもラダックの風情なのだと自分に言い聞かせた。とは言ってもとても寒かった。凍り付くような空気の中頭を水で濡らして、石けんで泡立て、冷たい水で洗い上げる。石けんで洗顔をした後、歯を磨く。天窓の穴から漏れて来る微かな明かりを頼りに体と心を洗うのだ。

 そして朝食を食べた後、アビディンとアクタルを学校に連れて行く。アビディンを学校に送ってから長い坂を白い息を吐きながら下るとアクタルの学校がある。僕はアクタルの学校にお邪魔する事にした。アクタルの学校の名前はモラビアン・ミッション・スクール・レー。キリスト教系の学校だ。

 この学校は主に世界中のラダックを訪れた事があるツーリストが資金を出し合って建てられている。レーの学校の中でも異彩を放っている。ミッションスクールだが宗教は関係なくウェルカムの学校なのだ。ちと学費は高いようだが。門をくぐるとムスリムの子供たちもブッディストの子供たちもみんな一緒だ。

 僕はアクタルを送り届けるとジミーの家に戻った

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 午前中はジミーの父の会社に遊びに行く事にした。ジミーの父はミュージシャンとしてラジオ・インディアに努めている。会社はレーの中腹の知っている場所にあった。知っている場所というのは、あの僕が入院したSNMホスピタルの向かいにあったのだ。

 セキュリティー・チェックを受けて僕とジミーは中に入った。建物の中を迷いに迷ったあげくようやくジミーの父、アリを3階に見つけた。アリがいたオフィスは20畳程の広さで、窓が南向きに大きく取ってあり、遠くにはラダックレンジの山々が頂きに白い雪を冠ってレーの街にその冷たい息を送っていた。

 アリのバンドのメンバーが全員揃っていて、今からテストレコーディングがあると言うので、あつかましくも僕も付き添う事にした。となりのレコーディングルームに入るとおのおののメンバーが持ち場所に座り、自分の楽器の音の調整を入念にしている。そしてテストレコーディングが始まった。

 トラディッショナルなラダッキミュージックが次から次へと演奏されていく。朗らかな雰囲気のなか始まったその演奏は、有史以来ラダックの文化の歴史の一端を担い続けて、苦難の道を歩んできた何層もの音楽家たちの、今も生きている歴史の一番上の挑戦、停滞、誕生を繰り返している新しい層を僕は目撃しているのだ。

 レコーディングが終わると僕とジミーはラジオ・インディアを後にした。

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スルナ

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ダマン

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ダフス

 そして僕らはジミーの両親がいるチョグラムサルに向かった。途中の道の一変してしまった風景に僕は驚いた。去年のあの古い家々が立っていた、ラダックの良心とも言える風景が洪水の影響で瓦礫化しているのだ。途中のサブー、チョグラムサルは一番被害が酷かったと聞く。

 ジミーの両親の家は辛うじて点在して残っている家々の一つと成っていた。到着するとジミーの父アリは先に到着していた。チョグラムサルの家で僕たちは昼食を頂くと折り返しジミーの家に向かった。

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 途中クリケットの試合を観戦した。寒空の下、未来のプロを夢見るクリケットの選手が熱戦を繰り広げていた。氷点下の気温にもめげずに観覧席は人で埋まっている。吹き下ろしの風が体温を奪い取って行くがそのぶん熱戦の熱気でまた体温は元に戻る。雲の切れ目から日が差し込んで来る。

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 ラダックの本格的な春はすぐそこまで来ていた。



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