ラダックの四月はまだ寒い。
8時にレー・エアーポートに到着すると僕は、近くの知らないラダッキにモバイルを借り、ジミーに連絡した。
モバイルの向こうでジミーが驚いている。
「なぜ連絡してくれない。来るのは来年じゃなかったか?オーケー10分で空港に行く」
ジミーは5分で来た。僕の突然のサプライズ訪問に久しぶりの再会をジミーは喜んだ。車に乗り込むと町の様子を案内してもらった。
このラダックでは去年の8月の洪水で多くの村々が被害に遭っている。
チョグラムサル村、サブー村、ピャン村、ニモ村、バズゴ村、レーとカルギルの間の全ての橋、シャカール村、チクタン村、ハグニス村、パルギュ村、ズガン村、ワカ村、ヨグマカルブー村、サンジャク村、チクタン村に続く道にある全ての橋、そしてこのレーの街もレー・スカンパリ・マネセルモ、レー・マネチェリンで被害を受けて、約1200人が亡くなっている。
現在のレーの様子は復興が進み、新しい建物が完成したり建築の途中だったりしている。マーケットがあったエリアはテントがひしめき営業を行っている。
ジミーの家に着くと家族が全員揃っていた。ジミーの奥さんのクルスン、クルスンは相変わらず世話好きでいて美しい。クルスンの妹のラジー、ラジーは相変わらず照れ屋でキュートだ。ジミーの子供のアビディンとアクタル、相変わらずのいたずらっ子ぶりを披露している。
早速朝食のティーとカルギルケーキを頂いた。懐かしい味がした。去年何度も出会った味だ。朝食を食べながらみんなと話をした。僕がLHFでボランティアをするために来た事、6ヶ月のビザが降りた事、その後はスリランカでボランティア活動をする事など、いろいろ話をした。
僕はここで気になる事を聞いた。チクタンエリアの事だ。去年の洪水で被害を受けて以来、まったく復興される気配さえないということだ。僕が驚いているのはここレー・ディストリクトは資金が大量に投下されて復興が進んでいるのにカルギル・ディストリクトのチクタンエリアは全く復興がすすんでいないそのギャップにだ。
ラダックの四月の昼は気温ぐっと上がり10度を超える。暖かくなるとマーケットにも人が溢れ出す。そして僕はと言うと昼食にチャパティとグルグル茶を頂く。チャパティは小麦を引いて水とそれを練りこんで薄くして焼いたものだ。グルグル茶は塩とバターと紅茶で作ったものだ。
人にも寄ると思うが僕はこのグルグル茶に慣れるのに苦労した。日本ではまずお目にかかれない味なので体が長い期間拒絶し続けていたのだ。でも慣れて来るとどうって事ない。日本で外国人が梅干しを食べて目を丸くするようなものだ。
でさっきの話に戻す。僕はここである葛藤を抱え込んだわけだ。レーにあるなんでも揃っている至れり尽くせりのNGO・LHFでボランティア活動をするべきか?何も無いチクタンエリアでボランティア活動をするべきではないのか?僕はチクタンエリアの深い悲しみについてLHFのボランティア活動と比べ葛藤したわけだ。
どうすべきかまだ結論は出ていない。
ラダックの四月の夕暮れは気温がぐっと下がり0度に近づく。夜の帳はマイナスになる。マーケットから人波が引いて行き、夜は犬たちの世界に変わる。僕はと言うと夕食を頂く。バトゥだ。カシミール、パンジャブ、ビハイル地方などで食されている料理だ。
中身はライス、豆、マサラ、塩、ハルディ、ガラムマサラ、油、オニオン、トマト、チキンなどで作られる。味はなかなか奇妙でいて異文化的でセンセーショナルな出会いが胃袋を強く打つ。打ち続ける。
僕が高山病を発病したのは野犬が吠え盛る深夜だった。
S.N.M HOSPITAL
レーは標高3500メートルの高地にある。低標高のデリーから飛行機で連れ去れて標高3500メートルの高地に放り出されると、高山病を発病する人は少なくない。僕はトイレに走り入り浸り、今日食べた者を全て戻してしまった。頭痛が激しく寝返りも激しく、見る夢は悪夢ばかり。
気がつくと僕は病院のベットにいた。鼻に酸素の管を通している。幾分気分は良くなったようだ。病院の名前はSNMホスピタル。レーの中心部にある病院だ。24時間診療している病院で、先生、スタッフ共に女性が多い。日本の病院に比べると質素なのだが、その分患者と先生の距離は非常に近い。朝までぐっすり眠る。
朝になりすこぶる調子がよくなり僕は病院の周りを散歩する。ラダックの朝はすこぶる美しく空気が輝いている。地獄から天国に上り詰めると誰でもそう感じるかもしれないが・・。
そうこうしているうちに僕のラダックでの生活が始まったのだが、いろいろな事がこれからも起こると思うが、見守って欲しい。ラダックからみなさんへ愛を込めて・・・。
病室から見える山脈。僕はこの景色に救われた。
ドクター(左)と看護婦さん(右)ありがとう!
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