Thursday 24 July 2014

29.スリナガルの人々。

インド・スリナガルのとある川の両側にはイギリス植民地時代以前からの古い町並みが広がっており、その中のひとつの地区にある家族が住んでいる。これはそんな家族の小さな物語である。





戸の少し開いてるところから言葉を覚えたばかりの小さなフィザが、よちよちと歩きながら入ってくる。ファティマが朝食を終え、台所でくつろいでいるところである。
「マンマ。」
フィザはファティマのところへ歩み寄ると、彼女の大きなお腹を抱き締めるように沈みこむ。ファティマもフィザを抱き締めてから、そのほおに朝のキスをする。そしてフィザはケラケラ笑いながら手に持った小さな袋を逆さにし、脇にあるソルト・ティーが入ったカップの中にそのお菓子をすべてあける。するとファティマの太い腕が唸りをあげ、フィザを殴り倒す。
「ばちーん。」
フィザは一回転して、体を壁にしこたま打ち付ける。一瞬何が起こったか分からないのでフィザはキョトンとするも、次の瞬間くしゃくしゃになりつつある顔の喉ちんこが見えるほどの大きな口を開け、突然滝が降ってきたかのような泣き顔になる。
「わぁーーん!」
その様子をそばで見ていたバヌーがフィザを抱き上げるとファティマに言う。
「何をするの。子供をぞんざいに扱って、体に傷ができたらどうするの。」
バヌーはフィザの服をまくり上げると、背中に傷が出来てないことを確認し、優しく抱き締めてあげる。

大体朝の毎日はこんな感じで始まる。



ファティマはとても太った中年の女で、きっとこの家の主人である。高血圧に糖尿病を患っており、一日一歩も外に出ない事のほうが多く、日々太ってゆくのが分かる。しかし料理の腕は一流で、それに関しては近所の主婦たちより一目置かれている。

バヌーはダル湖のとあるハウス・ボートに家族を持つ若干二十歳の女性で、ファティマとの関係は不明だが、小さい頃からこの家に住み着いている。



衣装棚の裏からスプレーをまく音がし、そこからフレグランスの甘い香りが漂ってきたので、バヌーが見てみると、フィザがコロンのスプレー缶をあたりに撒き散らしており、すでにそのほとんどが空になっている。バヌーはフィザを思いっきり引き倒すと、彼女の背中を二、三回踏みつける。するとフィザは世界がひっくり返ったような大声でまた泣く。
「わぁーーん!」
すると彼女を今度はファティマがつまみ上げ、そして優しく抱き締め、いつものごとくフィザはファティマの胸に回帰してゆく。

隣の家に住むホセインが部屋に入ってくるなり、腕をまくりあげ、床に座り込み、熱くジェスチャーをし始める。ホセインは生まれつきの唖である。お腹を大きく見せ、彼は両手で頭の上の棒を掴む所作をし、顔は苦しそうに力んでいる。彼の股よりなんとか一人の赤ん坊が出てきたように見えた。彼のほっとした表情もつかの間、またとても苦しそうな顔をし始める。彼は自分のお腹をさすると、呼吸は早くなり、再び両手は天を掴む。赤ん坊の頭が出てきたように見える。彼が低く唸ると二人目の赤ん坊はポンという音ととも生まれでてきた。そしてほっとしたかと思うとまた彼は苦しみだす。そして今度は横になると、呼吸はよりいっそう乱れてくる。彼は苦しみながらも手をさしのべるとバヌーはその手を取って
「がんばれ、後もう少し!」
と言っている。そして三人目をバヌーが引っ張り出す動作をする。ホセインが最後のふんばりを見せるとその赤ん坊はやっと生まれ出ることができたようだ。今度は本当にほっと安心している。彼が伝えたがっていた事はきっとこうだ。
「近所で三つ子が生まれた。」
それはよーく伝わった。その横でフィザがけらけらと手を叩いて喜んでいた。



「ドォーン」という鈍い音と共に、「ギャー」という大きな悲鳴が聞こえた。バヌーがバスルームに駆け込むとファティマが失神して倒れている。感電したのだ。大きなドラム缶のような容器に水を貯め、そこに直接プラスとマイナスの電極コードを突っ込み、水のなかで放電しながら温水を作るのが、カシミールでの一般的なお湯の作り方だ。電極をドラム缶に差したまま、きっとファティマは直接溜め込んであるお湯に触れたか、ドラム缶の下部の蛇口を捻りそこから流れ出るお湯に触れたのだろう。居間に運び込みファティマを寝かせる。意識は戻ったようだが朦朧としている。彼女の右手には重い痛みが走り、自由に動かなくなくなっている。小さなフィザが心配そうに彼女の大きなお腹にしがみつくも、ファティマがフィザを抱える力は今はない。

バヌーのハウス・ボートに行った観光客から苦情が入る。二人の若い兄弟と思われるのがそこに住んでいて、マリファナを勧めてくる。観光客がそのマリファナを断ると、若い兄弟は
「人生楽しもうぜ。」
と言って、執拗に再びマリファナを勧めてくる。それを断ると、
「それじゃ、今から山に行こう。ガイド代は10000ルピーでいい。前金は今支払ってもらう。」
とその兄弟はラリりながらそう言う。その観光客はこう言う。
「山は私も好きだ。しかしあなたたちのようなクズどもと行こうとは思わない。人生たのしめだと?私の人生は今のあなた方のマリファナ人生よりは幾分か楽しいし、そんな事はあなた方に言われる筋合いは毛頭ない。」
「マリファナが嫌なら、紅茶でも作ってやるよ。」
「あなた方から提供されるものは何もいらない。エブリシングだ。意味は分かるか?あなた方以外から提供されるものは喜んで頂こう。それはクズから提供されるものは何一ついらないという事だ。」
観光客はそう言い放つと、ハウス・ボートを去っていった。
バヌーはすぐにハウス・ボートに連絡を入れて、その兄弟に激しく説教をするも、この件は彼らがすでに逮捕されたか、されていないかも含めて、その後どうなったかは誰も知らない。



ファティマが何やら大声で、きっと百メートル四方の近所には聞こえるくらいの大声で、泣きながら何やら歌っている。それはアリの悲運を語るシーア派の歌にとても似ているが、きっとそれではない。歌い泣き始めて30分ほど経つがいっこうに止める気配はなく、まだまだ続く気配でもある。近所の窓という窓が一斉に開け放たれ、そこにはいくつもの顔が並び、みな一様に心配そうにファティマの家の方を見ている。
「おお、アラーよ。」
「私は何て不幸な女なの。体の調子はとても悪く、じきに私は動けなくなるなる。私にはわかっている。これがアラーが私に与えた試練という事も。」
「私は何て不幸な女なの。この年になって夫には逃げられる。私にはわかっている。これがアラーが私に与えた試練という事も。」
「おお、アラーよ・・・・・。」
浪曲のような調子で、自らの悲運を泣きじゃくりながらファティマは歌い上げてゆく。それを聞いていたバヌーはいたたまれなくなり、ファティマに飛びかかると、悲運が歌われているその口を両手で塞ごうとする。しかしそれも敵わずバヌーはファティマに簡単にねじ伏せられると、ファティマは再び泣き歌い始める。そうしているうちに近所から七人のご婦人部隊が部屋になだれ込んでくる。ご婦人たちはファティマの肩に手を置き、
「一体どうしてそんな歌を歌うのかね」
と親身になって聞いてやる。ファティマは声にならない声でおいおい泣くばかりである。ご婦人たちは
「わかってる、わかってる、あなたの事はこの私たちが一番わかってるし、もう心配する事はない。あなたには私たちがいつも傍にいる。」
そう言うとファティマの手を握りしめ、頭を抱き寄せ、ご婦人の胸でおいおいと泣くがままにしてやる。その傍らには小さなフィザが心配そうにその様子を眺めていた。

「うわぁーーん!」
フィザが天地がひっくり返るがごとくの声をたてて泣いている。
「行かないで。行かないで。どこにも行かないで。」
今からファティマが身体中の病苦を見てもらうために病院に行くのだ。いつも家にいるファティマが外に行くことで、フィザはこの世界から彼女が消えて無くなってしまうと思い、今まで感じたことのない最大の恐怖と対面している。
「嫌だーー!どこにも行かないで。いっちゃ嫌だー!」
その声はますます大きくなるばかりである。その顔は涙と鼻水ですでにくちゃくちゃになっており、それでもファティマが消える恐怖には勝てないでいる。スリナガルにはすでに暗い雨が降り始めていて、雨の中やって来たリクシャが表に止まる音がすると、ファティマの後ろ姿が扉の向こうに消えてゆく。フィザはバヌーの腕の中で声にならない嗚咽を漏らし、ファティマがいない恐怖と戦っていた。

幾時間が過ぎ、扉が開くとゆっくりとファティマが部屋に入ってくる。フィザがファティマによちよちと駆け寄れば、彼女は小さなフィザを持ち上げてぎゅっと抱き締める。
「帰ってきたよ。」
そしてフィザの頬に星の数ほどのキスをするのであった。

夕食後、部屋の扉がまた開くと、扉の方を見たフィザが再び大泣きを始める。
「うわぁーーん!」
扉の傍には一人の女性が立っており、彼女の頭はきれいなピンク色のスカーフで覆われていて、年は二十代の中頃、肌の色は幾分か黒く、微笑むとその口元から白い歯が溢れる。女性は両手を差し伸べるも、背を見せるフィザはファティマにしがみついたまま、ただただ泣くばかりである。
「嫌だーー!」
フィザの本当のお母さんが迎えに来たのだ。こうしてこの家族の一日は終わり、夜はいつものように更けてゆく。すでに雨は上がっており、空には卵の黄身のような月がポッカリと浮かび、スリナガルの町を煌々と照らしていた。

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