Monday 21 July 2014

25.ザンスカール・パドゥムでのダライ・ラマによるティーチングとその他のエピソード。

開門された朝のポタン・ゴンパには、すでにたくさんの人が集まっていた。外国人用のスペースには昨日よりも多い50人ほどが来ており、その中には日本人が4人と、高い占有率を占めていた。そして今度新たに知り合いになった日本人は、しんのすけ君といい、明治大学を一年休学して、沢木耕太郎の深夜特急さながらのルートをたどり、日本からポルトガルまでを陸路での走破の途中だという事だ。もちろん彼のバックパックの中にはその深夜特急が全巻入っている。



最近は外国を旅して回る若者が減っていると聞いている。七十年代は若者がインドなどを目指すのは政治的背景を考えるとそれは自然な流れだったし、八十年代はバブル期という事もあり、海外旅行が一種のステータスだったし、八十年代から九十年代は沢木耕太郎の深夜特急がブームとして読まれ、海外に出る若者が多く出たのを覚えている。しかし今現在、日本という恵まれた環境にいながら、世界の中の0.1パーセントという狭い日本から一歩も出ることなく、99.9パーセントの外の世界を見ずに一生を終わるかもしれない若者は多く、例えば、ある砂漠の民が一摘まみの砂漠の砂が世界のすべてだと信じ、それは砂漠にいながらラクダも知らず、オアシスも知らず、ピラミッドもスフフィンクスも知らないまま一生を終えてしまうこととなり、本当の意味で砂漠の民とは言えない。それと同じことで日本という単一の狭い世界に籠る若者は、それは内から見るとあたかも普通の日本の若者ようだが、本当の意味で大きくアイデンティティーを失うこととなり、純粋な日本の若者とは決して言えないのではないだろうかとつくづく思う。

さっそく”ブオー”の縦笛と変拍子の太鼓の音とともにダライ・ラマが奥の方よりお出ましになる。一歩一歩ゆっくり歩きながら周りのザンスカールの人々に手を振り、会話を交わしている。そして昨日はそのまま拝殿にお入りになったのだが、今日の行動は少し違い、ダライ・ラマはこちらの外国人席の方へ一歩一歩お近づきになる。そして僕と目が合うと目の前でゆっくりと立ち止まり、僕が手を差し伸べたところ、ダライ・ラマはその手を優しく取り、涼しい目をして一言お尋ねになる。
「あなたは日本人かな。」
「はい、日本人です。」
会話はただのこれだけだが、僕にとっては深く深く心に刻まれることとなるとても良い思い出となった。そして最近真っ黒に日焼けした僕を日本人と見分けられる人がいなかったので、ダライ・ラマの千里眼にも少々驚いた事も事実だ。そして次に僕のとなりに移動するとダライ・ラマはしんのすけ君と握手をして、声をおかけになる。
「あなたは韓国人かな。」
「い、いえ、日本人です。」
しんのすけ君の白い肌が僕と違う色だったので、自然とそう質問したのだと思う。照れながらしんのすけ君は否定したが、その目はきらきらと輝いていた。ここで彼は素敵な経験を目一杯吸収した。そしてきっとこの事がこれから彼が生きてゆく上でのとても大きな礎になっていくのだろうと思うし、実際ダライ・ラマと会話を交わす前と後とでは、彼がまったく違う人間になっている事を発見したのはここだけの秘密だ。



それからのダライ・ラマによるティーチングは、夢うつつの二人にとっては無意味なものになってしまった。ごもっともな事でまったく話に集中できないのである。でもなんとか今日の朝8時から昼の12時まで4時間ばかりのティーチングが終わり、僕らはポタン・ゴンパの外に出る。


さて午後からはさしてすることもなく、僕としんのすけ君はポタン拝殿の外に止めてあるトラックに飛び乗った。そのトラックにはすでにたくさんのザンスカールの人々が乗っており、ティーチングのお祭り気分はたけなわで、とても盛り上がっている。そしてトラックは動き出す。トラックの荷台に揺られているという表現は間違いだと僕らは知る。実際はトラックの形をした洗濯機の脱水層の中で揉まれているが正解だということに気づくのにそうは時間はかからなかった。トラックの荷台は暴れ、人々は振り落とされないように柵を両手で掴んでいる。ひとりのおばさんが僕らに話しかける。
「あなたたちは、どこに行くのかね。」
その時、僕らは行き場所を決めてなかったことに気づく。
「北へ。」
中央アジアを駆け抜ける風は砂を巻き上げながらも強く吹き荒れ、それはトラックの荷台をも容赦なく叩きつけ、僕たちは目を細目ながらも北を見ていた。


トラックは川を渡り、右手にカルシャ・ゴンパを見ながらまだまだ進む。僕らはカルシャ村の次の村で降りる事とする。人々がユラン村と呼ぶこの村は風は強いがとても静かで、なだらかな高原地帯のような顔を持っていた。小さな小さな清流が流れていて、僕たちはそれに沿って歩いてゆく。右手に小さな小さな集落が見えてくる。その高原に咲く白い花たちを見下ろすように建っている集落もまるで小さな小さな花の集まりに見えてくる。しばらく進むと左の丘の上にも集落が見えてきて、それはザンスカールの山々を背にしてとても美しく見える。ますます僕らは村落の奥へと進んでゆく。高原に流れる清流沿いをなるべく進むようにする。しばらく進むと正面の山の頂上に小さな白い建物の集まりが見えてきた。ユラン・ゴンパだ。僕らは無言で山肌につけられた足跡を辿ってゆく。上に行くにしたがって強かった風はますます強くなってくる。ゴンパは風の一番強いところの山頂に建っており、僕たちは風を避けるためにそこに飛び込んだ。外のドアは押すと簡単に開き、僕らが中庭に入って行くと、そこはとても静かで人の気配はしなかった。中庭の正面には古い建物があり、そこで念のため、そこにいるかもしれない誰かに声をかけるがやはり人の気配はしない。ドアが風で閉まったり、開いたりしている。台所にも人はおらず、しかし何時間前には人がいた気配がかすかにした。僕たちは山頂にある、そのひとけのないユラン・ゴンパをゆっくりと降りてゆく。







遠方のパドゥムの町に吹き荒れる竜巻が見える。



さて大河の対岸にあるパドゥムの荒野の一番奥がパドゥムの町である。僕らはここで良からぬ考えをする事になる。対岸に渡るには、視界の外にある橋まで移動して、そいつを渡らなければならない。徒歩という事もありそれはきっととても時間がかかる。ではこのまま真っ直ぐ歩いていって川を横切れば、話は早いんじゃないかと二人の意見はざっくばらんに一致した。とにかくユラン村から真っ直ぐ川の方に歩いてゆく。遠い。いくら歩いても川にたどり着かない。一時間は歩いただろうか、やっとのことで川にたどり着く。川辺には小さな花々たちが大地を埋め尽くしており、その向こうはヒマラヤの山である。川の浅く流れが緩いところを渡ってゆくが、川の水はとても冷たく、長い時間裸足でその中にいるのはとても危険に思えた。なんとか一つ目の川を渡るとすぐに二つ目の川が横たわっている。そこの川の流れは先程より早く、水深も少しだけ深かったが慎重に渡りきる。三つ目の川の音が聞こえた瞬間、僕たちは川を渡るのをあきらめた。それは川幅のとても広い大河で、けたたましい轟音を響かせている川の流れはとてつもなく急で、水深はきっと想像を絶する深さだ。泳いで渡ろうとすると、きっと僕らはザンスカールの藻屑となってしまうだろう。



結局僕らはとなり村のカルシャまで歩き、ここまでくるとヘトヘトで、日も暮れかかっているのでここで一泊することにした。カルシャ村の茶屋で飲み物を買い、どこかに屋根を貸してくれる宿屋はないかと尋ねると、その家の主人からうちへ泊まっていきんしゃいと威勢のいい返事が返ってきたので、僕らはそこに泊まることとした。

三日目最終日のダライ・ラマによるティーチングも無事に終わり、パドゥムの町に戻ると、ぼろ雑巾のようになり、へろへろの状態で歩いているグループを発見する。一人はあのロシア人のウラジミールだ。ラマユルから奥に入ったハヌパタという村からザンスカールまで歩いてきたと言う。その横には日本人の女の子もおり、すでに虫の息だ。彼女からの話によると、レーのとなりのサブー村のメディテーション・センターで偶然ウラジミールと一緒になり、彼の発案のザンスカール・トレッキングを試みたが、彼女にとって初トレッキングで大変だったと、疲れた表情ながらけろりと言いのける。とにかく久しぶりの再会だ。バザールのダバ茶屋で乾杯だ。ウラジミールはあのドレッド・ヘアーのアメリカ人英語教師ともどこかでお知り合いになっていたようで再会を喜んでいる。みんなでミルクティーで乾杯とした。女の子はインド・グジャラートの大学へ留学中で休暇でラダックにやって来たと言う。経験上僻地で会う日本人は女性がとても多い。日本人男子よ。がんばれ。またラダック自体はイギリスと同じくらいの面積を持っているが、そんなところで、僕とロシア人のウラジミールとアメリカ人のアダムと同時に会い、しかもそれがみんな知り合いだったなんて世界は狭いもんだと思った。実際はとてつもなく広いのだけれど。

そして僕は明日このザンスカールを後にする。






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