Tuesday 15 July 2014

16.チェムデイ・ゴンパとスタクナ・ゴンパ。

ダンマハウス・サマーキャンプも中盤に入り、タイトに組み込まれたプログラムに従って日々は過ぎていくが、その斬新な内容は決して退屈するものではなく、日本では経験することがまずないものばかりなので、面白いし、興味深いし、楽しいし、嬉しいし、気持ちはいいし、大変ためになる事ばかりの毎日が過ぎてゆく。そんなある日の朝、ダンマハウスに一台のオンボロバスが乗り込んできた。生徒たちはバスに乗るように促され、その中で今からゴンパを巡るスタディ・ツアーに行く事を宣告される。そうなれば学生たちはバスの中で歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎだ。バスはひたすらレー・マナリ・ハイウェイを南下している。夏はラダッキたちのピクニック・シーズンで様々な学校の学生たちはバスをチャーターしてラダックのいろいろな美しい場所へ向かう。バスが何台も縦に並び学生たちを乗せ走っているのを光景をあなたもどかで見ることができる。そんな時はちょいとバスの中を覗いてみるがいい。きっと全てのバスの中は学生たちにより歌えや踊れやの大騒ぎ状態になっているはずだ。

オンボロバスはあるY字路にたどり着く。右に向かえばマナリ方面、左に向かえばパンゴン・ツォ(パンゴン・レイク)方面だ。僕たちのオンボロバスは左へ向かった。坂道をえっちらよっちらとバスは登っていく。先ほどのY字路から10分ほど進んでいくと、右手の岩山の斜面に白亜のゴンパ群がへばりついているのが見えてくる。青い空はそれらのゴンパをよりいっそう引き立たせる。チェムデイ・ゴンパ。レー・マナリ・ハイウェイからもちらと見ることができる、このなんとなくむっくりとカタツムリの風貌を思わせるゴンパに、バスはくるりと回り込んで徐々に近づいてゆく。道の行き止まりに止まったバスから吐き出された学生たちは徒歩でゴンパに向かう。







チェムデイ・ゴンパから見えるチェムデイ村も美しく、もちろんゴンパ自身もたいへん美しい。ゴンパ内のラカンはとても広くその壁は彩飾の美しい画で埋め尽くされており、その前にはケースに保管された数多くの像が立ち並ぶ。ここラダックのチベット仏教こと、ヴァジラヤーナはマハーヤーナ(大乗仏教)の一部でもあるが、黒魔術的な呪術も多く取り入れられていて、これはボン教からの影響が強いと言われている。ラカンの中心に奉られている像は、このチェムデイ・ゴンパを開いたリンポシェ(高僧)で、チベットの方よりやって来られたということだ。このリンポシェの金色に輝く像は大乗仏教の影響がとても色濃く、ここからもヴァジラヤーナとマハーヤーナの強い関係を感じとる事ができる。ラダックではこのような逆三角形に帽子を被った像が多く、この大部分はリンポシェの像だと思ってもいいかもしれない。またさまざまな像の手に持たれているリチゥアル(法具)があるが、ラダックのブッディストの名前にこの法具の名前が使われている事も少なくない。壁画は赤系統の色を主体にいているのでとても明るく感じるが、窓から差し込む光の加減は絶妙でとてもサクリッドな雰囲気がする。壁画の青い肌で複数の手を持つ阿修羅のような画はヒンドゥー教の影響が濃く現れている。どくろの壁画はとても呪術だし、壁画の鬼の地獄を模している画もたいへん呪術的に感じるが、よく考えれば大乗仏教にもこのような画は多く見られるし、呪術と密教はたいへん密接に繋がっていて、そこからもヴァジラヤーナとマハーヤーナの関係が浮き彫りになってくる。マハーヤーナとヴァジラヤーナはたいへん難解な宗教であるがゆえになかなか敷居が高く感じるし、仏陀の教えそのものよりも、抽象的な物に多くの意味を持たせてしまっているみたいで、それはとても複雑でその知の海に投げ込まれると迷路をさまよう子猫のようになってしまう。






このラカンではリーダーやヴィヴェックからヴァジラヤーナについての基本的な講義を受けたがやはり大変難しく、僕自信の意見ではやはり仏陀のシンプルでストレートな教えをより複雑にしてしまっているような気がしてならなかった。それはよく言えば知の発展だし、悪く言えば真理への遠回りのような気がした。またこの時期はテーラワーダでもマハーヤーナでもヴァジラヤーナでもモンクは新しい法衣を新調する。このチェムデイ・ゴンパのモンクもみごとな手さばきで法衣を縫い上げてゆく。ラカン内の光に照らし出されたその姿はとても静寂でとても神聖でそしてとても美しい。最後に生徒たちはここで静かに黙想を行うとチェムデイ・ゴンパを後にした。







オンボロバスは再びY字路に戻るとその村で、僕たち生徒は昼食にした。ここはレーとマナリとパンゴン・ツォへの道の三叉路になっているのでマーケットは村の規模に比べるとたいへん大きい。学生たちが注文するものはだいたいいつも同じもので、チョウメンかトゥクパかモクモクかフライドライスくらいで、多彩な物資が手に入らないので小さな商店のメニューは限られており、つい先日もヨーロッパからの観光客がジンジャーティーを飲みたがって、すべての商店で断られていた光景に出くわしたことがある。

オンボロバスは再び北上をし始め、雄大なラダックの大地を走り抜ける。悠々と流れるインダス川のほとりの小さな丘の上に陽に照らされた白きゴンパが見えてくる。虎の鼻の異名を持つスタクナ・ゴンパだ。スタクナ・ゴンパのある丘から東方を見てみるとはるか遠くの小山の縁にへばりついているようなティクセ・ゴンパを霞の中に見る事ができた。スタクナ・ゴンパのラカンはとても古く小さく薄暗く、しかし僕にはとても居心地が良い場所に感じた。最初の入り口で古い白い人形が出迎えてくれた。その口の端はわずかだが微笑んでいて、今まで見たどの像よりも命が宿っているように見えた。像の後ろに描かれている壁画も新しいものではないが、とても優しく、生命に充ち溢れていた。また別室の曼荼羅画の中心には蛇がねずみの尾を噛み、ネズミが鶏の尾を噛み、鶏が蛇の尾を噛んでいる。その次の円には黒と白、善と悪の表裏の世界が画かれており、次の円には天の二つの世界の兵士たちが巨木を挟んで戦っている画、天の動物たちだけの楽園、鬼たちが人を煮炊きしている地獄の画、そして名は失念したが手足が細くお腹が大きく口から火を吹く妖怪がいる世界の画、そして現世の祈りと教えの画、この六つの世界に仏陀が存在しているこの曼荼羅画は大変興味深かった。





最後に僕たちはあるお方との謁見が許されることとなった。生徒たちは帰り支度を始めていたが、その話を聞きくと歓声をあげ、大急ぎでゴンパに戻っていく。生徒たちはある部屋の前に一列に並び数人づつ入ってゆく。次に僕の番がきた。僕はその部屋に入ると、台座の上に小さな玉のような小坊主が座っていた。彼の名前はスタクナ・リンポシェ。年は三歳。前代のスタクナ・リンポシェが亡くなると、その生まれ変わりを探すためにスタクナ・ゴンパの僧侶たちは旅に出た。去年ヒマーチャル州で生まれ変わりと正式に認定されたこの小さなリンポシェが、ここスタクナ・ゴンパに若干二歳という若さで連れてこられたのだ。ここラダックでは小さな子供たちを決して跨いではいけない風習がある。その子供はどこかのリンポシェの生まれ変わりかもしれないからだ。そして不思議な事にこの風習は現代のラダックのムスリムの村にも伝わっている。決して子供たちを大人たちが跨いではいけない。またこのスタクナ・リンポシェに謁見できるのは稀なことらしい。まだほっぺに赤さが残るこのリンポシェがリインカネーションという現象によって三年前に生まれたのだ。それは事実かもしれないし、そうでないかもしれない。大切なことはそれを信じる事によって信仰が生まれるということだ。信仰が生まれると仏陀の教えは形こそ違えぞ生き続ける。それは大義では宗教という形で生き続け、小義では西洋人の言うところの道徳となる。本日の講義を終えた生徒たちは、ヴァジラヤーナにおける自分自身の解釈を胸に秘め、きっと将来のラダックの素晴らしきリーダーの一人となる事と思う。そしてきっとこのラダックは、マテリアリズムという概念で動いている世界の良心の核となってくれるだろうとも思う。




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