Tuesday 15 July 2014

15.ストク・ベースキャンプ・トレイル2。

山小屋を出発して再び僕たちは歩き始める。峠と谷をくりかえし奏でるこのトレイル・コースは止むことのない交響曲のようにも感じてくる。とある峠を越えると面前の谷から冷気が吹き込み、真っ白な雪が川沿いを覆っている。コースは谷に降りていくように続いており、いつしかそのコースも雪に飲み込まれていく。雪上を歩くと雪はさくさくと音をたてつつ靴はその重みで沈んでいき、時おり雪上に現れる亀裂は浅いクレパスである。雪面の端は薄くて脆く踏み抜くと川面に転落するかもしれない。この辺りは天候が崩れると何月になっても降雪がある。谷は山に隠れるように深い影を作っていて、まるでその影にとじ込まれるように万年雪が静かに横たわる。雪面の端のつららは折ると水を豊富に含んでいて、乾いた口にその先を向けると、尖った先っぽから閉じ込められていたヒマラヤの源流がほとばしるようにのどに落ちてくる。そのきらきらとした水は一度疲れた体に染み込むと、後でその体はきっと輝きを取り戻す。口元にこぼれ落ちた水をぐいと手の甲でぬぐい取ると、僕は再び次の一歩をヒマラヤの谷に刻み込むために歩き始めた。




また数時間歩き続けると山肌のトレイルコースも下りはなくなり登りだけになってくる。標高が足の疲れと比例して徐々に高くなってくるとそれにともない酸素も少なくなってきて、口元はガラスの鉢に放たれパクパクしている金魚状態となってくる。きっとあの山の向こう側にはベースキャンプがあると信じて何度も山を越えるがいっこうにそれは見えてこない。気がつくとすでに空に手の届く高さである。なめし革色をした山は次の山にもまた次の山にも続いていて、その山肌に1本のトレイルコースの傷がついている。その傷跡を希望と絶望が交互にやって来る中ひたすら歩き続ける。途中、谷が二股に分かれているY字谷が見えてくる。僕たちは進路を左の谷に取り、ひたすら歩き続ける。途中マーモットたちの巣穴が山肌に無数に見え、その穴から仁王立ちで彼らが鼻をひくひくさせながらこちらを見ている。目が合うとそそくさと穴に隠れるが、時に”キキ”と声を上げ、仲間たちと”妙なやつらが来たぞ!気を付けろ!”と連絡を取り合っていたりするのだろうか。しばらくそんなヒマラヤの牧歌的風景の中を歩き続けると、生きる目的がまるで歩き続ける事のように思えてくるから不思議だ。様々な思いを背負って生徒たちもまた歩き続けているのだろうか。



山の谷が大きく開けてきて、裾野に白いテントを被った大きなゲルが見えてきた。第一ベースキャンプだ。時計を見ると午後の三時をすでに回っていた。ここには数人のフォーリナーが滞在してるようで回りの小さな青色のテントにいくつかの荷物が見てとれた。白いテントは空の青に良く映え、際には清流がさやさやと流れ、目前にストク・カングリの頂きが見えとても美しい場所なのだが、標高4500メートル地点のここは酸素が非常に薄く、生徒たちは少々お疲れのようで、しばしゲル内で休憩する事となった。とはいってもここはラダック、ただの休憩ですむ筈もなく、生徒たちは歌えや踊れの大騒ぎで、ゲル内のフォーリナーたちは興味津々に最初はその様子を眺めていたが、途中から写真を撮り始めたり、踊りに参加したりして多いに盛り上がった。その後次の行動を決めるため生徒たちは話し合いをする。そこで決まった事はここから先の第二ベースキャンプに進む者とここに留まる者のチームに別れ、今すぐに出発する。一日で第二ベースキャンプまで進むのは非常に稀な事で、途中気分が悪くなったらすぐに引き返して来る事が決まった。




僕は前者の第二ベースキャンプに進むチームに入り早速出発した。時間は夕方近くになり空気は良く冷えている。僕も含め生徒たちの服装はとても軽装で中には半袖短パンの者もいる。山のきつい傾斜を登っていくが、みな一様に足取りは重く、途中で気分が悪くなり脱落していく者が次々に出てくる。僕も最後には歩を止めリーダーの意見を聞く。ここから先の第二ベースキャンプまで一日で行くのは今の状態しかもこの夕暮れの時間帯そしてこの氷点下の気温の中ではやはり困難で、もしこのまま気持ちだけで登っていくときっと命を落とす者も出てくるであろうという事で、僕たちは引き返すこととした。第二ベースキャンプは標高4800メートルほどの所にあり、僕らのいるこの地点でもすでに標高4700メートルほどあるという。目の前の名峰ストク・カングリはまるで手の届くがごとく距離に見えるがそれでもまだまだ遠い。僕らはさっそく引き返した。冷えた体を引きずって第一ベースキャンプに戻ってきた時はすでに夕方の五時を過ぎていた。



ゲルの中では夕食の準備がすでに整えられており、生徒たちは順番に並び、お皿にライスとダルスープを受け取って、ゲルの縁に座り、夕食を食べる。生徒たちが夕食を終えて、時計を見るとすでに六時を越えていて、その顔はどれも憔悴しているようだった。そしてここでヴィヴェックからある事が宣告される。今からダンマハウスに戻るのだ。多くの生徒たちは僕も含めここで泊まると思っていたらしく、みんな一様に驚いている。食事も早々にして僕たちは第一ベースキャンプを離れた。




下りの道は容易いというが、それは半面正しく、半面間違いだと言える。足に力が入らず、斜面でズルズルすべる生徒が続出する。後ろからも前からもそして僕の足元からもずるずると滑るような音が聞こえてくる。既に転倒する者は多数出ていた。山の端に沈みつつある太陽は実にエキゾチックな風体を持ち、そのオレンジ色の閃光が山の峰々に走り、その対岸の山々は赤く燃えてる。とても美しいがとても残酷だと思った。生徒たちはこれから訪れる恐怖を知っている。陽が完全に沈んだ後の漆黒の闇を知っている。生徒たちは一様に無口だった。

トレッキング・ルートが徐々に色を無くしていくと、闇が山に徐々に染み込んでいき、その跡は形すらうかがい知れなくなってしまった。世界が光で出来ているという事を一番実感できる暗闇がやって来た。各々携帯電話を取り出し、その僅かな光を頼りに歩いて行く。闇のなかを一列に飛ぶ蛍のようにも見える。その光は右に左にゆらゆらと実に頼りないが、しかし着実に山を降りていっているのが分かった。ゆらゆらとしたその光の隊列の上空を見上げてみると無数の光が空に舞っていた。僕らの隊列の光もまた、その宇宙の星たちの一部を形作っていた。

”ザザザザー”
その時後方で大きく何かが滑る音がした。
「アッ!」
小さな声と共に何かが谷に消えていった。生徒の一人が滑落したらしい。みんな心配な顔をして谷を覗きこむ。しかし谷は浅かったらしく、しばらくするとその生徒は谷より這い上がってきた。それでも足の負傷は深刻でとても歩ける状態ではないようだった。その時遥か後方から”タッタ、タッタ”と何かが地を駆る音が聞こえてきたかと思うと、暗闇の中から一人のチンギスハーンのような大男が白馬に跨がって現れたのだった。その男は負傷した生徒をつまみ上げ、ひょいと馬に乗せるとその尻を鞭で一叩きし、馬のいななきと共に疾風が如く再び闇に消えていった。生徒たちはみな目を擦りつつ、今見た光景が夢ではない事を知り、非常に驚き興奮していた。後日談になるがこの大男はストクの登山ガイドで、偶然このダンマハウス隊の一番後ろに付き、下山しているところだったのだ。

途中の山小屋で一休みをした。来る時にその中に残していったインスタントラーメンをみんなで食べながら、火をおこし、みんなで暖をとる。ヒマラヤの夜の谷で冷えた体を暖める。そして少し体力が戻ってきた頃合いに再び出発する。とある峠でノルブが両手に小さなライトを持ち遥か後方に手旗信号を送っている。後方の遅れているダンマハウス隊が道を間違えてるのに彼が気づきこちらに誘導しているのだ。雪原をゆく後方隊が深く危険なクレパスの方に向かっていたらしい。彼は山岳ガイドのプロフェッショナルでもあり、ストク・カングリは彼の庭でもあるのだ。後方隊と峠で合流したところで僕たちは再び出発する。この時ほとんどの携帯電話のバッテリーは切れ、隊には再び暗闇が訪れていた。

数時間ほど歩くと遥か彼方にストクの村の明かりが見えてきた。生きて帰ってきた。生徒たちの間から歓声が上がった。一歩も動けそうもないその体に鞭打ってみな足を引きずりながら歩いている。あるものは仲間に抱えられ、あるものは谷で転び膝がぼろぼろになったズボンを引きずりながら、あるものは仲間たちと手を繋ぎ歌を歌いつつ、心が喪失しないように奮い立たせていた。そう僕たちは戻ってきた。腕にはめた時計のいつしかガラスにひびが入った文字盤を見ると、ダンマハウスを出てからすでに十八時間が過ぎようとしていた。



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