2014年7月21日月曜日

24.ザンスカール・パドゥムでのダライ・ラマのティーチング一日目。

さて朝の五時にもぞもぞと起き出すと、パドゥムのアパートの部屋の同居人たちももぞもぞし始める。その部屋は平時ならアクショー村から出てきて学校に通う子供たちの住まいになっているのだが、今日ははれてダライ・ラマのティーチングということもあり、アクショー村からの村人が簡易宿としてこの狭い部屋を使っている。毎日夕刻に戻ると違う顔ぶれがいて、お互い毎日が新しい仲間なので、これもまた楽しいのである。外の薄闇の中で顔を洗い、歯を磨き、体を濡れタオルで拭くと、いつものミルクティにラダックパンのタキを頂く。




朝六時、アパートを出発する。原野のはるか彼方、丘の上のピビティン・グルがザンスカール・パドゥムの朝もやの中の柔らかい光の中に溶けてとても幻想的である。ダライ・ラマのティーチングが行われるポタン・ゴンパまでザンスカールの人々は歩く。その姿もまた朝焼けの靄の中に浮かび上がりとても幻想的である。パドゥムの原野の朝靄の中に始めは数人がゆっくりと歩く姿が見え、その後、朝靄の中には数十人がとぼとぼと歩く姿が見え、次第に数百人に膨れ上がり、気がつけば朝靄の中を歩く人々が千人を越えている。何もないこのパドゥムの原野を千人の人々が同じ目的を持ち、同じ方向に歩く朝靄の中の姿はとても神秘的で幻想的で詩情的だと思った。この民族の大移動は、パドゥムの人たちだけではなくザンスカールの様々な村々からやってきた人々も交えての大行進だ。そのほとんどの人々は民族衣装で正装をしており、女性たちのトルコ石をぎっしりと施した冠のような帽子はとにかく目を引いた。パドゥムの町を出て一時間半ほど歩いただろうか?柵で囲まれた広大なポタン・ゴンパが見えてきて、その周りをついには数千人ものザンスカールの人々が囲む光景は実に壮観だった。







朝八時、ポタン・ゴンパの門が開く。数千人もの人々がポタンに飲み込まれてゆく。外国人へのセキュリティ・チェックをほどほどに受けると、僕も中に滑り込む。長い長い参道を歩くと正面に深紅のポタンの拝殿が見えてくる。フォーリナーたちのためにちょうど拝殿の左側に大きくスペースが取ってあるのを見つけ、僕はその場所の前の方に座ると、ダライ・ラマの到着を待つこととした。この広いスペースに外国人たちの姿は少なくせいぜい三十人ほどであろうか。そのほとんどはダライ・ラマの信者か、熱心な仏教徒か、仏教の勉強や研究をしている人たちに見えた。


黒服のSPたちが持ち場に配置され出すと、会場は微かに緊張をし始める。そして人々は各々襟をただし始める。SPたちはアンディ・ラウのような造詣のアジア的な顔が多く、ダラムサラからやってきた人たちであろうか、彼らはポタンの拝殿を囲みむとそれに背を向け、人々の動向をつぶさに観察している。その時”ブオー”と低く唸る縦笛の音と変拍子の太鼓の音が打ち鳴らされ、人々の視線がポタン拝殿の左側奥にいっせいに向けられた。始めは高僧だと思われるモンクたちの列が通路をゆっくりと歩く。そして黄色の大きな日傘の頭がその後方に現れると、会場がざわめき出し、その傘は一歩進むと止まり、一歩進むと止まりを繰り返しながら進んでいる。


そしてご本尊の姿が人々の間から現れた。その時ザンスカールの人々はみな立ち上がりダライ・ラマに向かい、三拝しはじめる。ダライ・ラマは一歩進むと、立ち止まり、そばにいる人々にお声をかける。また歩き始めさらに一歩進むとまた人々にお声をかける。そんな調子で一歩づつザンスカールの人々と語らいながら、拝殿への通路をお歩きになる。拝殿に上るとダライ・ラマはさっそく玉座へお座りになり、コホンと咳をひとつしてから、ティーチングが始まる。ダライ・ラマはチベット語でお話になり、それを数人の翻訳者がラダック語、ヒンディー語、英語に翻訳してゆく。チベット語でのきっととてもありがたいであろうお話が続くと、英語での翻訳者の”エ~、ア~”という何か迷っているような言葉の後に一言二言ちょろっと英単語が述べられるという状況がしばらく続き、外国人客たちは一様にちょっと戸惑っているみたいだ。しかし一時間二時間と時間が過ぎると、その翻訳者はとてものりのりになってきて、自分なりになんとかこの危機を乗り越える要領を得たようで、その内容が正しいのか、間違っているのか、はたまた創作なのかは今さら確かめるすべはないが、とにかくなんとなくスピーカーから聞こえてくる翻訳作業は順調に進んでいるように思えた。しかし僕のとなりに座っている、卒業後は翻訳の仕事を目指しているウレトポからの女学生が業を煮やしたのか、スピーカーから聞こえてくるラダック語の翻訳から英語に翻訳しながら逐一とノートに綴っていたのが印象的だった。


その中でなんとかつかめた内容を書いてゆくと、ビルマ国境沿いやバングラデシュ国境沿いで仏教徒とイスラム教徒との衝突がいまだ続いていて、かたや仏教徒がイスラム教徒を襲い、かたやイスラム教徒が仏教徒を襲っている。またこのような状況は世界中いたるところで見られ、また仏教以外の宗教でも頻発している。キリスト教とイスラム教の対立。ユダヤ教とイスラム教の対立など、挙げれば枚挙にいとまがない。その状況に私は非常に危惧している。仏教というものは、例え宗教が違えどもそれを排除したり、戦ったりしてはならない。そのような行為事態仏陀の教えに反する。本来は共存共栄をはかっていかねばならないものだ。またそれは仏教以外の宗教にも言えて、世界が混乱することを決してイエスや神は望んでいないし、決してムハンマドやアラーは望んでいないし、もちろんそんなことは仏陀も望んでいない。私の友人にはイスラム教徒もいて、よく私の家に招待して語り合うが、彼らの意見も同様で、日々アラーの教えに耳を傾け、実直になれば決してこんなことは起こらないはずだと言う。それと同じでキリスト教徒もイエスの教えに真摯に耳を傾ければこんなバカな事は起こらないし、仏教徒も仏陀の教えを実践していれば決してこんな事は起こらないはずだ。きっとこんな内容だったと思う。




初日のダライ・ラマのティーチングは昼の12時までの4時間ぶっ通しで続き、齢80をお超えになっているとは思えないほどの体力をお持ちだった。後ろを振り返るとザンスカールのスキャガン・ゴンパ(ナン・ゴンパ)で出会ったドレッド・ヘアーのアメリカ人英語教師アダムが来ていたので、どうだったと聞くと、英語の訳がさっぱり分からなかったよと言って彼は笑った。



この二週間後、イスラエルのガザ地区への五十ヶ所にも及ぶ空爆が始まった。それは奇しくもラダック・レーでのダライ・ラマによるカラー・チャクラ・ティーチングが行われている最中であった。





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