Tuesday 26 July 2011

52.ガルクン村。バタリク村。ツェルモ村。

 柔らかい朝の光が差し込むガルクン村を歩いている。最初のマニ車を通り過ぎるとそこから長い長いガルクン村の小径が始まる。ガルクン村の中心には木の陰より朝日が射す水路が流れており、水路に小径が寄り添っていて、小径には柔らかい光にかざされて杏の木の葉の陰が静かに揺らいでいる。

 少し歩くと女が水路で洗濯をしている。その若き女の水路の淵を見つめる眼差しは強く、洗濯物から顔を上げると、僕のジュレーの言葉にはにかみながらもジュレーと返すが、はにかむその表情の向こう側より時々僕を見つめるその眼差しは鋭い。

 女の肌は白く、鼻は高く、瞳は青色で、その東欧の美しいジプシー女やポーランド女を思わせるその風貌は岩山に咲く一輪の可憐な花のようだ。このガルクン村の人々はアーリアン系といえどもダー・ハヌーとは全く違う人種である事が一目で分かる。そしてここをさまようとそんな錯覚を誰でも起こす事になるだろう。

 ここはインドの中の東欧なのか。静謐の中に修道院でも立っていそうなそんな気持ちになる。でもここはブッディストの村なのだ。そのアンバランスな感覚が、またいっそう己の気持ちを深く広い思考の迷路に誘い込む。そして少し歩いていると頭の上に何か小さなものが落ちてくる。

 僕はその小さなものを拾うと手で2、3回拭って、口に運ぶ。杏だ。それも熟した杏だ。歯を立てると口の中でその蜜がほとばしり広がる。杏のジュースだ。それも熟した白桃と変わらぬ豊潤な味と香りを持っている。それは杏の白桃だ。

 その味は深く濃く広く、しかもその小さな体躯には似合わぬたくさんのジュースが口の中に弾け咲く。しばらく水路沿いの静かなる小径を歩く。杏の木のトンネルはまだまだ続く。古く大きな家を通り過ぎようとしたところ頭上より声がかかる。僕は見上げると朝の空気を共鳴させたのは子供たちの声だと気づくのだ。

 大勢の子供たちは窓越しに僕を見ている。彼女らは写真を取って欲しいのだ。子供たちの目は青い。まるで東欧の子供のようだ。僕は頭上の窓に向けてシャッターを切る。うまく撮れていればいいのだが。いくつかのマニ車を通り過ぎて、しばらく歩き左手の小さな家より出てくる女がいる。その女に聞く。

「ガルクン・ゴンパはどこにあるの?」

 その若き青い目の女は答える。

「5分も歩けば着くわ。」

 白い肌のその女は、鼻は高く髪の色は栗毛、目は透き通る水晶のような瞳を持ってその強い眼差しで僕を見ると、ふと視線を下げた。足下に2、3個の杏が落ちてきたのだ。女はそのうちの一つを拾って僕にくれた。僕はそれを口に運び頬張る。それはまだ少し酸っぱく自分を象徴するような未熟な味がした。

 ジュレーの挨拶をして僕はゴンパに向った。5分ほど歩くとゴンパが見えてきた。それはこの村の端に辿り着いた事を同時に意味していた。

 そのゴンパは切り立った崖のさきっちょに立っており、その渓谷を望むと遥か下には川の話す言葉がせせらぐ声になって谷に響き、向こう岸にはちょこんとチョルテンがそびえ、視線を高みに移すと青すぎる空は目に沁み、一筋の白い雲は心に沁みた。

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 バタリク村はラダック一番の低みにある村だ。そしてその気温はジャンムーとほとんど変わらないと言われる程暑い。その村の商店街はシャッターが閉まっている店が多く、ところどころに微かな緊張感が漂っていて、最前線のボーダーエリアの顔が全面に出てきており、表からは本当の村表情はうかがい知れない。

 しかし一歩村の裏に入るとこれが一遍するのだ。それはラダックの村の表情に変わる。木漏れ日、川のせせらぎ、水路にて洗濯をする女たち、古い家の窓から流れてくる赤ん坊の泣き声、カシャンブルーの咆哮、青すぎる空、そしてチーズ色の山々。いつでもどんな時でも、いとおしいあの情景が広がっているのだ。

 しかもそれは延ばせば手が届き、触る事もでき、確かめる事もできるものばかりだ。バタリク村は狭い渓谷にささやかながらに広がっており、その端は切り立った崖で、そこに立ち、前方を見るとより広い渓谷の緑が確認できる。そしてその大きな渓谷の輝く緑はグルグルドゥ村だ。

 その村の一番奥の岩に十字の白い印が付けられている。その向こうがパキスタンだ。1999年カルギル紛争の時にバタリク村とグルグルドゥ村は苛烈な戦場となった場所なのだ。両国の牙は今もお互いの胸に刺さったままだ。ゾラやディケンズを出すまでもなく、いつの時代も翻弄されるのは小さな村の住人だ。

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 ツェルモ村はバタリク村より標高を上げてきた場所の狭い渓谷に清流に沿って細長く広がっている村だ。その村の一番上のほうの清流を歩く。僕はその清流にてパンツ一枚になり水浴びをする。名も知らぬ鳥の鳴き声以外は何の音も聞こえない。その清流で体を洗う。気持ちがいいとはまさにこの事だ。

 チーズ色の山肌のささやかなる緑の中を走る清流ににしては水量があり、それに昼の太陽が射すと、岩に当たり砕けた水も気持ち良さそうに宙に舞う。その気持ち良さそうな水に飛び込むのだ。少し上流のところの岩陰から子供が覗いている。頭が一つ二つ三つ四つ五つ見える。彼らは僕と目が合うとにっこり笑いながら寄ってくる。

 僕はそそくさと着替えると、子供たちは写真を撮って欲しいとせがむ。僕は子供たちの写真を撮ってやる。それから僕は清流に沿って少し上流に向って歩く。森の中より誰かが語らう声が聞こえてきた。僕はその場所へ注意深く向う。木々の間より覗くと二人の乙女が湧かすお茶を真ん中に語り合っている。

 彼女らは僕に気づくと「こっちに来なさいよ」と云う。僕はその語らいの仲間入りをする。僕は出来上がったバター茶をすすりながら乙女たちととりとめの無い話をし、木陰の風薫る中、こんな素敵な日もいいなと少し思う。

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