朝の倦怠の中、アパートのたてつけの悪い窓から顔を出すと、正面にダル湖から吐き出された胡乱な気分に沈んでいる深緑によどんだジェラム川が流れているのが見える。昼は37度、夜も30度を下らない部屋の中は蒸し暑く、床には何匹もの虫が夜を越せずに死んでいた。
下の階のテラスよりむっちり太った管理人のおばさんがずり落ちそうになった頭のスカーフを直しながら声をかけてくる。
「あんたラダッキかい?ここらへんではみない顔だね。」
「姉さん、こう見えても僕は日本人です。」
「あれま、日本人っていうのはもっと、こう色が白いんじゃないのかい?」
「カシミールに長くいると日本人でも色が黒くなりますよ。ここはどのくらいの標高なのですか?」
「標高1700メートルを越えているはずなのに、毎日こんなに暑いなんて困っちゃうわ。」
「そんなに高所なんですか、スリナガルは。」
「そうよ、部屋の他の連中はまだ寝てるのかい。」
「はい、僕の足下に数人転がっています。」
「最近の若いもんは朝のお祈りとかしないんだね。困った事だわ。」
そう云うと管理人はちらとジェラム川に顔を向け悲しげな影を落とした。
「ところであんた今までカシミールのどこにいたんだい?ラダックかい?」
「チクタン村に長い事滞在してました。」
「チクタン村ってあれかい。カルギルの近くの。」
「そうです。」
「そういや、うちの親戚の友人が数年前チクタン村に嫁いだわ。いいところだって云ってたわね。」
「夏は涼しく、緑が多く、空気もおいしく、本当にいいところでした。」
僕はそう云ってから窓を閉め、上半身裸で寝ているチクターニの同居人たちを蹴り上げて起こしにかかった。
「朝だよ!」
「ハイャ!」
荒れた道を歩いていると正面からやって来た馬車は手綱をもった男のかけ声とともに僕の横をすりぬける。昼のダル湖の淵の道沿いは傷んだアスファルトの照り返しが暑い。欧州からの大勢の観光客が地元のガイドのカシミリー英語に顔をしかめながら何かの説明を聞いている。
僕はダルゲートを北へ向う。今にも崩れ落ちそうな木造の渡し橋がハウスボートに繋がっている。橋が揺れる度にそこにかかっている洗濯物もいっしょも揺らぐ。そんな揺れる桟橋がダル湖沿いに数百ものハウスボートの数だけひしめき合っている。ハウスボートの間の水面に浮かぶ緑藻の上にたくさんの蚊柱が舞っている。
たまに貴婦人を乗せた木舟が水面に波紋を描きながら優雅に湖の上を流れる。僕は京都丹後半島の伊根の船屋群をこの光景を見て思い出した。日本海の荒波の影響を受けないその入り江には、ひっそり格納されている古い木舟が半分ほど船屋から出ていて水に浮いている姿が水面に静かにひしめき合っていたのが霧の中に見える。
ハウスボートと船屋の古びた木の匂いに流れたさびしげな時が感じ取れる意味では僕にとっては同じような感覚だった。
「ジャパニ、部屋を探しているのかい?いい部屋あるよ。」
僕は部屋なんか探していない。ダル湖に記憶の断片を反映させているだけだ。
「ジャパニ、どこにいきたい?いいツアーあるよ。」
僕はツアーなんかにいきたくない。ただ湖を眺めていたいだけだ。
「ジャパニ、ジャパニ、ジャパニ・・・・・」
客引きの喧噪をすり抜けて、ダル湖から離れると右手の丘の上にハリ・フォルトが見えてきた。石で出来た古い城だ。霞んだ景色の向こうの丘の上に静かに横たえる、国破れても山河も城も残っているその強靭なところは、現在のスリナガルの建築を見ていると文明の退化を感じてしまう。
現在のスリナガルはイギリス植民地時代の建物がほとんどそのまま残っている所も多く、植民地時代の建築のノウハウはほとんど伝授されておらず、建物が酷く傷んで修復もできないのに、そこに人々は住み続けている。
赤煉瓦作りの古い建物は右に傾き、左に傾き、上部は崩れ落ちている物も多く、僕もそんな不安定な建物のアパートの一室に住んでいる。夜はたまに建物が軋む音で目が覚めるが、所詮インシアッラーでしかないのだ。周りはだだっ広く、いつの間にやら寂しげで怪しげな、お墓のエリアに迷い込んでしまったようだ。
墓の土地には数匹の野犬が徘徊している。そのエリアを怖々と進んでいくと、何やら柔らかい歌声が風に乗ってやってきた。僕はあるエリアの一角に立っている一本の木の近くのお墓に目を向けた。
そこには両手で花束を抱えた女性がひっそりと立っており、おさえていても良く通ってしまう声でカシミールの音楽を口ずさんでいた。
その悲しげで儚い透き通った歌は歌詞は分からずとも、ある種の鎮魂歌だろう事が分かる。歌は踊らずどこかに流れていき、寂しげな歌声にどこからとも無く遠くから野犬の遠吠えが絡み、それがよりいっそうの不安げな状況を紡ぎ出す。カシミールの現在が凝縮されたようなこの空間はさらなる深い悲しみを生んでいるようだ。
僕は通りの反対側に腰をかけてその女性の歌を聴いている。まだ若いその女性は静かに歌い終えるとそっと花束を石碑の前に置く。一筋の涙が頬を伝って流れ、それは一枚の花びらを濡らす。女性が振り返ると僕と目が合う。その女性は白い肌に深く澄んだ茶色の目を持っていた。それは紛れも無くカシミーリの目だった。
下の階のテラスよりむっちり太った管理人のおばさんがずり落ちそうになった頭のスカーフを直しながら声をかけてくる。
「あんたラダッキかい?ここらへんではみない顔だね。」
「姉さん、こう見えても僕は日本人です。」
「あれま、日本人っていうのはもっと、こう色が白いんじゃないのかい?」
「カシミールに長くいると日本人でも色が黒くなりますよ。ここはどのくらいの標高なのですか?」
「標高1700メートルを越えているはずなのに、毎日こんなに暑いなんて困っちゃうわ。」
「そんなに高所なんですか、スリナガルは。」
「そうよ、部屋の他の連中はまだ寝てるのかい。」
「はい、僕の足下に数人転がっています。」
「最近の若いもんは朝のお祈りとかしないんだね。困った事だわ。」
そう云うと管理人はちらとジェラム川に顔を向け悲しげな影を落とした。
「ところであんた今までカシミールのどこにいたんだい?ラダックかい?」
「チクタン村に長い事滞在してました。」
「チクタン村ってあれかい。カルギルの近くの。」
「そうです。」
「そういや、うちの親戚の友人が数年前チクタン村に嫁いだわ。いいところだって云ってたわね。」
「夏は涼しく、緑が多く、空気もおいしく、本当にいいところでした。」
僕はそう云ってから窓を閉め、上半身裸で寝ているチクターニの同居人たちを蹴り上げて起こしにかかった。
「朝だよ!」
「ハイャ!」
荒れた道を歩いていると正面からやって来た馬車は手綱をもった男のかけ声とともに僕の横をすりぬける。昼のダル湖の淵の道沿いは傷んだアスファルトの照り返しが暑い。欧州からの大勢の観光客が地元のガイドのカシミリー英語に顔をしかめながら何かの説明を聞いている。
僕はダルゲートを北へ向う。今にも崩れ落ちそうな木造の渡し橋がハウスボートに繋がっている。橋が揺れる度にそこにかかっている洗濯物もいっしょも揺らぐ。そんな揺れる桟橋がダル湖沿いに数百ものハウスボートの数だけひしめき合っている。ハウスボートの間の水面に浮かぶ緑藻の上にたくさんの蚊柱が舞っている。
たまに貴婦人を乗せた木舟が水面に波紋を描きながら優雅に湖の上を流れる。僕は京都丹後半島の伊根の船屋群をこの光景を見て思い出した。日本海の荒波の影響を受けないその入り江には、ひっそり格納されている古い木舟が半分ほど船屋から出ていて水に浮いている姿が水面に静かにひしめき合っていたのが霧の中に見える。
ハウスボートと船屋の古びた木の匂いに流れたさびしげな時が感じ取れる意味では僕にとっては同じような感覚だった。
「ジャパニ、部屋を探しているのかい?いい部屋あるよ。」
僕は部屋なんか探していない。ダル湖に記憶の断片を反映させているだけだ。
「ジャパニ、どこにいきたい?いいツアーあるよ。」
僕はツアーなんかにいきたくない。ただ湖を眺めていたいだけだ。
「ジャパニ、ジャパニ、ジャパニ・・・・・」
客引きの喧噪をすり抜けて、ダル湖から離れると右手の丘の上にハリ・フォルトが見えてきた。石で出来た古い城だ。霞んだ景色の向こうの丘の上に静かに横たえる、国破れても山河も城も残っているその強靭なところは、現在のスリナガルの建築を見ていると文明の退化を感じてしまう。
現在のスリナガルはイギリス植民地時代の建物がほとんどそのまま残っている所も多く、植民地時代の建築のノウハウはほとんど伝授されておらず、建物が酷く傷んで修復もできないのに、そこに人々は住み続けている。
赤煉瓦作りの古い建物は右に傾き、左に傾き、上部は崩れ落ちている物も多く、僕もそんな不安定な建物のアパートの一室に住んでいる。夜はたまに建物が軋む音で目が覚めるが、所詮インシアッラーでしかないのだ。周りはだだっ広く、いつの間にやら寂しげで怪しげな、お墓のエリアに迷い込んでしまったようだ。
墓の土地には数匹の野犬が徘徊している。そのエリアを怖々と進んでいくと、何やら柔らかい歌声が風に乗ってやってきた。僕はあるエリアの一角に立っている一本の木の近くのお墓に目を向けた。
そこには両手で花束を抱えた女性がひっそりと立っており、おさえていても良く通ってしまう声でカシミールの音楽を口ずさんでいた。
その悲しげで儚い透き通った歌は歌詞は分からずとも、ある種の鎮魂歌だろう事が分かる。歌は踊らずどこかに流れていき、寂しげな歌声にどこからとも無く遠くから野犬の遠吠えが絡み、それがよりいっそうの不安げな状況を紡ぎ出す。カシミールの現在が凝縮されたようなこの空間はさらなる深い悲しみを生んでいるようだ。
僕は通りの反対側に腰をかけてその女性の歌を聴いている。まだ若いその女性は静かに歌い終えるとそっと花束を石碑の前に置く。一筋の涙が頬を伝って流れ、それは一枚の花びらを濡らす。女性が振り返ると僕と目が合う。その女性は白い肌に深く澄んだ茶色の目を持っていた。それは紛れも無くカシミーリの目だった。
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