Friday 22 July 2011

48.天空へのタクシー。

 カルギルにてラダックの名川スル・リバーに架かる深紅のプエンブリッジ付近に各村々行きのタクシーが所狭しと並んでおり、シェアする乗客を掻き集めている。僕は一台の白いタタ製の四駆に目星をつけて声をかけてみる。

「このタクシーはどこ行きですか?」

 良く肥え、良く日に焼け、良く働きそうな手を持つその運転手は答える。

「シャカール村へ。」

 僕は瞬時に頭の中で村へのルートを構築する。カルギルーカングラルーチクタンーシャカルドゥーシャカール。このタクシーは途中チクタン村には必ず寄る事になるはずである。僕はさっそくお願いする事にした。

「このタクシーへのブッキングをお願いします。」

「オッケー。12時に出発するので、それまでにここに来てくれ。」

 運転手はそう言うと、よく働きそうなその手を差し出した。

 白いタタ製の四駆は乗客を詰め込み、砂埃を巻き上げながら、夏が緑濃く輝くパスキュン村の中を走っている。右手の谷の深いところには両岸のヒマラヤ山麓を削り取りながらのワカ・リバーが流れている。ここ数日ラダックは夏の空気に包まれている。

 六月下旬から空気が入れ替わり、夜はすでに冬の衣を脱ぎ捨てて、青く薫る夏に包まれている。ゆっくり漂う雲の下、向こう岸の山の高いところに、黒や白の点の群れが跳ねたり飛んだりしながら少しずつ移動しているのが見える。羊たちだ。彼らも夏の緑を追い求めているのだ。

 前方にまた緑の固まりが、壮大なチーズ色の山肌の中に、濃厚に輝いているのが見えてきた。ロッツン村だ。この村を通り過ぎワカ・リバー沿いに進むと次はシェルゴル村に入る。
 
 その時、車はロッツン村より左の細い脇道に逸れていくのが分かった。あれあれ。僕は一瞬考え、そして悟った。車はこの脇道を使い、僕にとってはとてつもなく、謎の、未知の、神秘の、不思議な裏道に入り、シャカール村までショートカットしていくつもりなのだ。ということはチクタン村には寄らないと言う事になる。

 しまった。ここで降ろしてもらってもチクタン村行きのタクシーが通らなければ、この村で夜を過ごす事になるので、それは心寂しいし、心にうろが出来そうなので、また未知の世界への誘惑も手伝って、僕はこのまま同乗する事にした。

 僕はこのリンクロード沿いにある魅惑の村々の名前だけは知っており、時々名前を思い出しては村の様子を想像して、一人夜の暗闇の中でほくそ笑む事がある。なかなか行く事ができない遠き村々がこの道にはいくつも咲いているのだ。

ladakh


 車は細い砂道を右へ左へとお尻を揺らしながら、奥へ奥へと、深山に分け入っていく。この道に沿って陽に美しく輝く細い渓流が流れており、濃く薫る林に囲まれている並木道は、ある部分は夏の透明な影を作り、ある部分は何本もの光のすじを抱擁している。

 濃く青い緑の中に茶色がぽつりぽつりと見えてくる。ターチャ村が見えてくる。その緑の中に入ると干しレンガで作られた家々がこの細く遠い谷に集まっていて、時折その村の子供たちが投げかける言葉は夏風に乗って車まで運ばれる。

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 またしばらく渓流沿いを走る。細い谷が徐々に太くなっていき、奥にも広がりを見せつつ、輝く緑は谷一杯に膨らむ風船のような広がりを見せ始める。右側の頭のずっと高いところには、蒼々たるヒマラヤの頂きの嶺々が空の青いところより垂れ下がっており、天空に架かるそのカーテン様相が僕を楽しませてくれる。

 緑の部分がカリット村であり、天空の嶺の一つが今回越えるべくカルダン・キルダン・ラ(峠)である。カリット村は大皿の底に緑を敷き詰めたような作りになっており、その一番深いところに渓流がさやさや涼しげに流れていて、大皿の端の高い部分がヒマラヤ山脈の嶺々になっている。

 車は砂煙を巻き上げ、エンジンの回転数を上げつつ、カリット村を寡黙に通過して高度を徐々に上げていく。仰ぎ見るとつづら折りの道が天空を駆ける龍のごとくカルダン・キルダン・ラに巻き付いているのが見える。車はその龍の背中をえっちらおっちらと登っていく。

 次第に立ちはだかるチーズ色の嶺が目の前に迫ってくる。見下ろすと緑の輝きが小さく大皿の底に佇んでいる。風は徐々に強くなってきて、ヒマラヤの上空の冷たい空気は開け放した窓から容赦なく車に入り込んでくる。そしてカルダン・キルダン・ラの頂上に辿り着くころには心以外は冷えきっているのだ。

 後ろには今登ってきたカリット村より伸びているつづら折りの龍の背中が見え、前方にはこれから降りていく壮大で静かなる丘陵地帯が僕を待ち構えている。チーズ色の山肌は反対側に降りるとチェリー色の山肌に変わっており、その嶺付近には黒い無数の点が駆け巡っている。

 すり鉢状の丘陵はとても美しく、チェリー色の山肌に車が近づいていくと、黒い点がドンキーの群れだということを知る。

 そこで僕はある記憶を思い覚ます。

 美しくもうら寂しい東北の半島の道を86年式アウトビアンキで走っている。

 左手に朝日に照らされた津軽海峡を見ながら一つのカーブをゆっくりと曲がると、そこには壮大な丘陵が長く広く海に向って緩やかに勾配しており、その先端には風の歌を口ずさみながら光と戯れている白亜の灯台が、そしてその周りには黒いどっしりとした数百頭ものドンコ馬が風で流れる草原の草をついばんでいる。

 そこにあるのは海の音と風の音と草のざわめきだけだった。僕が今目の前にしているこの驚くべきヒマラヤの嶺の姿は、まるで天空の尻屋崎とでも云おうか。

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 美しき素晴らしき愛すべきヒマラヤの風景の中を突き進み、緑と花で埋まるラムス村とその泉を車で渡り、シャカール村に急ぐ。車は天空から徐々に舞い降りていき、深い歴史と緑が香るシャカール村に辿り着いた。

 僕は車を降り、黄昏時の茜色の空を仰ぎつつ、靴の紐をきつく結び直し、リュックをしっかり背負うと、チクタン村への一歩をゆっくり踏み出すのだった。

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