2011年6月29日水曜日

44.羊追い。

 黄昏時、山から戻ってくる羊たちのおかげでにわかに村内は騒がしくなる。汚れてすり切れた赤いジャンパーを羽織った羊使いに連れてこられた羊たちの群れは、村に入ると一斉に羊使いの手から解放される。羊たちの無数の土を踏む音と舞い上がった砂煙が、村人たちと羊たちの捕物帳協奏曲の序章の幕開けとなる。

 この瞬間から村人たちは自分の家の納屋に羊たちを連れ戻すための奔走が始まるのだ。もっぱらこの役目は子供たちが引き受ける場合が多い。村中の草をついばみつつ、村中の至る所に神出鬼没し、村中の至る所より姿をくらます鬼ごっこの達人の羊たちは時にはその遊びの熟練者の子供たちをも凌駕する。

 ある子は片手に火炎樹の小枝を持ち羊たちの後ろから「シー、シー」と声をたて追い立てる。ある子は進み過ぎた羊たちに後ろより「カタカタカタカタ」と声をたて戻ってくるように命令する。

 ある子は愛情不足のため言う事を聞かない羊が反対側に逃げようとすると、その鼻っ柱から数センチのところに火炎樹の小枝や小石を正確無比に投げ込む。羊からしてみれば突然目の前に現れた小枝や石の形をした悪魔の魔法の道具に驚き、顔色を変え、踵を返して戻ってくるのであった。

 もちろんうまくいく場合ばかりではない。逃げ惑う羊に翻弄されている子供たちもたくさんいて、村中がひっちゃかめっちゃかになったりする。

 役目を終えた羊使いが石垣に座り、ポケットからは小さな黄色い袋をつまみ上げ、それを手のひらにササッと振って噛みタバコを取り出し、それらを一気に口に放り込むと、子供たちが羊を追っている姿を映画館でポップコーンを食べながら鑑賞している観客のごとく楽しみ始めた。

 そしてその男がチンと手洟を見事に飛ばした直後、僕と目が合った。顔にしわくちゃで満面の笑みをたたえながらのその男の挨拶はどんな時でも右手を大きく振り上げて

「グッドモーニング。」

ladakh


 水路沿いの小径を羊の集団が無数の足音と砂埃を巻き上げながらこちらにやって来たが、僕の姿を見るなり集団の秩序が砕けたパズルの破片と化し、四方八方へ散らばっていく。谷に子供たちの怒号が飛び交う。

「その羊お願い。」

「これか?」

 と言いながら、僕は一頭の羊を追おうとしたが

「それ違う。あっちの。」

 そう言われて、注意深くあたりをうかがうと、もう一頭が奥の路地で草をついばんでいる。それは羊ではなく山羊だった。

「こいつね。」

 と言った先からその山羊は体をひるがえすと地面を蹴って村の家々が建っている斜面を駆け上っていく。僕はすぐにその彼を追いかける。彼が右手の家の角を曲がったので、僕も急いでその角を曲がる。目の前に続く小路は二股に分かれており、そのどちら側にも彼の姿が見えないので、僕は注意深く耳を澄ました。

 右側の辻の奥の黄色い花が咲き乱れている向こう側から何やら音がした。その花園の間から彼がこちらを伺っているのか、挑発しているのかは分からないが、僕が彼を見つけたのを確認すると、安心したのかまた彼は走り出した。僕は途中で気がついたのだが、僕の追跡が減速すると、彼の逃亡スピードも減速する。

 そして僕の追跡が乗ってくると、彼の逃亡にも磨きがかかってくる。きっと彼は僕と遊んでいるのだ。僕は仕事をしていると言うのに、なんて事だ。山の斜面の最後の家の辻を通り抜けて彼は加速した。そこを抜けると背後には台地が広がっており、その奥には乾燥野菜を貯蔵するための大きな洞窟状の横穴がある場所に出る。

 さすがにそこまで逃げられると追っても追いつめるような場所がなくなり、僕の力では捉えるのが難しくなる。僕も最後の家の横を通り抜けて、目の前に広がる広大なチーズ色の丘の前で立ち止まる。見渡してみても羊の姿は見えない。どこに行ったのだろう。耳を澄ましてみる。風の音と鳥の鳴き声しか聞こえない。

 これはまずい事になった。僕は小走りでその丘を移動する。左手を見下ろすと、一面に緑の谷が広がっていて、その谷のところどころに赤黄白の花が咲いており、その谷の奥まったところにチクタン・カル(チクタン城)が見えてくる。しかし下界の谷にも山羊の姿は確認できない。

 目を細めて丘の上に立ち上がる山に目を向ける。そこにも山羊の姿は確認できない。ただ真っ白い一片の雲が山の上をゆっくり流れているだけだった。

ladakh


 僕はゆっくりと潜望鏡のように360度目を凝らして眺めている。二羽のカシャン・ブルーが黄昏に輝きながら風に舞って遊んでいる。どこから迷い込んだのかミツバチが花のないこの丘で迷子になっている。街より戻ってきた古バスが砂埃と軋む音をあげ、お尻を振りつつ、カンジ・ナラ沿いを走っている。

 斜面の家で野生の猫が半開きになった窓を叩いて、狙った獲物を頂こうと慎重に様子とタイミングを伺っている。最後のタンポポの綿毛が多数気持ち良さげにこの丘の上空にも飛んで来ている。鴉が山の子のところへ戻ろうと鳴きながら茜色を背負って羽ばたいている。

 そんな時、視界の一番奥のところに何か揺らぐものが見えた。それは男だった。その男は何やら楽しげに歌を口ずさんでいるようだった。男は長い影と共にだんだんこちらに近づいてくる。その男は右手に火炎樹の小枝を持っていて、汚れてすり切れた赤いジャンパーを羽織っていた。

 僕は視線をその男の足下に送ると、あのじゃじゃ馬な山羊が猫をかぶったように落ち着いているのがしっかりと確認できた。そしてその男はチンと手洟を見事に飛ばした直後、僕と目が合った。その男は顔にしわくちゃな満面の笑みをたたえると、黄昏の中、右手を大きく振り上げてこう言った。

「グッドモーニング。」

ladakh


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