2011年6月25日土曜日

40.チクタン村のつれづれなるままに 其の弐。

 チュルングスの方が何やら騒がしいので行ってみると、男と女がけんかをしている。そしてその男女を取り巻くように村人たちが興味深くその様子を伺っていた。女はスコップでチュルングスのストリームから支流作って小麦畑に水を引き込もうとしている。男はその支流を壊しにかかっている。

 男が壊すと女は大声で男を罵倒しながらまたスコップで支流を作り始める。男が壊す。女は男を罵倒する。女は支流を作る。そしてそれが繰り返される。日にはんなりと焼けた女の容姿は美しく、そんな容姿とは裏腹に声は野太く低く谷を揺るがすほどの大きな声で女は男をののしり続けている。

 男は小男で寡黙にかつ精力的に支流を壊し続けている。遂にこの展開に終止符が打たれる事になる。女は突然力一杯男を突き飛ばすと、男はチュルングスに向ってゆっくりと崩れ落ち、大きな水を叩く音とともに尻もちをついた。男は立ち上がって何かを言おうとしたが、すぐに口を紡いで、頭をかきながら退散していった。

 村人たちもこの決着に満足したのかしないのかは定かではないが、静かに散って行った。村の小さなこの出来事は食事の席で村人の話題にのぼる事もなく、極当たり前すぎる口に出す程でもないささいな日常を僕だけがこっそりとここに書き留めたわけである。

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ジャファル・アリ邸の入り口の扉の横の朽ちかけた椅子に座って読書をする。村の昼間が温かい快晴の日でも夕暮れ時はぐっと気温が落ち冷え込んで来る。天気が悪く風が強い日はとても寒く読書なんかしていられない事もある。僕はマウンテンジャケットを着込んで、ジッパーを一番上まで引き上げる。

 チクタン村に来てから数冊の同じ本を何回も繰り返し読んでいる。今は集中して読む事よりも、内容は把握しているので目を文字の上にただ漂わせているだけというのが本当のところだ。そしてこの黄昏時のチクタン村の自然を同時に楽しんでいるのだ。

 夕暮れの中こがね色の光を浴びて岩山にその影を射す名前も分からない鳥たち。集団放牧で山に戻る黒い鳥たちと入れ替わりに山から戻って来る黒と白と白黒の無秩序な秩序の羊と山羊たちの群れ。火炎樹の小枝を手に手に持ちつつ山より戻ってきた羊と山羊を追い立て自分たちの家にある家畜小屋に彼らを入れようと四苦八苦する子供たち。

 気温が下がった夜の間に自分たちの畑に水を通そうとしているその堅牢な肩に長いスコップを引っ掛けて畑に急ぐ良く日に焼けた顔の男たち。

 平らな石の上に衣類を広げて赤い色の石けんをそれに擦り付け泡立たせてチュルングスの水で汚れを洗い流そうとしている時に、スカーフが濡れないようにと右手でひらりと首に一つ多くそれを巻く女たち。

 大きな古い金属の桶の中に沢山の汚れた食器を入れて厚く青々と葉が茂る木陰の水路でそれらを一つ一つ丁寧に洗っている子供たち。そんな村の協奏曲を楽しみながら僕は今日も木陰で本を読んでいる。

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 チクタン村は一日に4時間しか電気は通らない。朝は4時から5時の間(これは朝のお祈りの時間帯)。夜は8時から11時の間(ウィンタータイムは夜の7時から10時の間)。

 電気はチクタンエリアのマクリーションにあるディーゼル発電所からおくられてくるのだが、それは発電所というよりも小さな小屋であり、軽油を使いささやかな発電をしているのである。

 そしてついこの前そこで働く男が定年退職して、新しい男に職を譲ったのだが、この男の仕事方法がまだ成熟の粋に達しておらず、突然明かりが切れたり、寝坊をして朝村に通電されずにいたりとまだまだなのだ。それでも昔は電気自体が無かった訳で、そんな時代の時と比べると随分便利になったものだと老人たちは口々に言う。

 今は村には車もあるし、耕耘機もあるし、日本ではベスパと呼ばれている中折れ帽にストライプのスーツを着て工藤ちゃんが乗っていたあのバイクはあるし、チクタン村の今の時代はやはりとてつもなく便利になっているのだが、それでも村の人たちは昔の文化も大切にしていて、ある一つが便利になったからと言って昔の技術を完全に捨てるわけではなく、そこのところの折り合いが非常に難しいところなのである。

 でもやはりなくなってしまった昔の技術も掘り出せばある訳で、例えばランタックと言われるウォーターミルがある。これは日本で言うところの石臼なのだが、石臼が水路に仕掛けてあり、水の力でそれを回して小麦を挽いて粉にしていくものなのだ。

 あなたが村内の小麦畑のあぜ道をどこ行くともなく歩いていると水路に石作りの小さな小さな古い小屋が建っているのを見つける事が出来るだろう。

 そしてその小屋の中をシュクリアラーとかインシアッラーとか呟きながら覗いてみると中に見事なかつ使われなくなって久しいランタックが一人寂しく隠居生活を送っているのを深山生活で神経が研ぎすまされているあなたはおそらく気づくはずだ。

 彼があまりにも寂しくしているのであなたは声をかける時期を逸っするのだが、やはり朽ち果てていく文化が目の端の方で漂っているのを見ていると、あなたの心の中に一抹の寂しい風が吹き抜けるかもしれない。

 それが一旅人のわがままな一方的な寂しさなのか、はたまた村人もそう感じているのか、かれらの笑顔の奥に隠された心中は山慣れしたあなたにもわからない。

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