2011年6月27日月曜日

42.チクタン村のつれづれなるままに 其の四。

 白無垢の自然の中に佇んでいる学校は、たとえそれが新築であっても砂は風に吹かれて、ほこりは彼の体で舞い、緑は彼の周りで容赦なく踊りつつ、気分が乗らないと太陽を隠したりし、動物たちの咆哮は彼の中でなにやら学んでいる人といわれる動物の声をかき消したりする。

 しかしそれらは決して悲観することではなく、自然が人間たちを受け入れた証拠でもあるのだ。そんな自然の枝葉のひとつである学校の標語はひめやかにかつ微笑ましくも"Human made is bad, nature made is good."だったりする。

 その学校を覗いてみると朝に歌われるのムスリム唱歌は時々牛や鶏の声が混じってくるが、子供たちの歌声はヒマラヤの幽谷に深くすこやかにそしてたくましくこだまする。

 チクタン村の学校はクラス1からクラス12まであり、この分け方は日本でいうところのクラスとは全く違い、学力の実力で分けられていて数字が大きいほど博識深いクラスだ。だから一つのクラスには、ばらばらな年齢の生徒たちが混在しているのだ。

 頭のいいといわれている子供はとてつもなく明晰で日本の小学校生くらいの子が中学生、または高校生くらいの子らといっしょのクラスだったりする。彼らの教科書を覗いてみると、日本では信じられないような難問を年端のいかない子たちがやすやすとまではいかないが、四苦八苦しながら解いている。

 数学や科学や歴史など(国語以外)の設問はすべて英語なので、それが理解できないともちろん設問はちんぷんかんぷんなのだ。でもちんぷんかんはちんぷんかんのままでいいのだが、そうなると毎年試験に落ち、上のクラスには上がれない事になるので、置いていかれないようにみんながんばる。

 ここで扱っている根幹の英語はイギリス英語で日本の義務教育が基軸としているアメリカ英語とは全く違うといっていい。複雑な論理展開と証明が組み込まれているイギリス英語は日本人からしてみると、やはり相当難解な語学だといえる。チクタン村の子は6歳くらいから英語教育を始める。

 子供たちのこのくらいの年から始めた英語は、苔むす深い森の部分に太陽が射し、露草の一滴の水滴が瞬くようなところにある大木が、その根から栄養豊富な恵みを目一杯吸い上げるかのごとく、吸収する。

 クラス11とかクラス12くらいの神童になると、チクタン村の学校でも手に負えなくなるので、カルギルやレーなどの教育が充実している学校に編入になるのだが、赤貧な家族は学校に行かせるお金がないので、クラス10くらいで打ち止めになり学校を卒業する生徒も多い。

 そして家業の農業だけを手伝う生活に戻るのだ。ここでも貧富の差が出て来る。大変難しい問題なのだ。もし村の家族にお金があり子供に大学まで行かせて卒業させたとしても、次は仕事の問題にぶつかる。このエリアでは農業以外にはたいして収入源になる仕事はなく、プライベート・カンパニーは皆無といっていい。

 ガバメント・カンパニーはあるにはあるのだが、やはり需要と供給の差が大きすぎて学がある人みんなが仕事にありつけるというわけではない。

 例えばカルギルを徘徊しているとカルギル・バザールのラル・チョウクあたりで人だかりが出来ている時がある。

 気になるので僕もそれに割って入っていくと、ショップ横のペンキが剥げかけた壁に、張り紙がしてあり、ボドカルブー村のミドル・スクールの教員若干名募集だとか、バルーのオフィス職員の空きができたので若干名募集だとかが採用試験の日付と共に書かれている。

 いつしか再びカルギルの街を歩いている時、「そういえば今日が教員採用試験の当日だったなぁ」なんて思い出して試験会場へ足を運ぶ。そして会場付近に集まっている人に話を聞くと、教員若干名の募集に8000人近くが集まってきているのだという。このエリアの_仕事の問題は底が見えないほど深くそして混沌としている。

ladakh


 夏はネパールあたりから大勢の労働者がカシミール入りして、インドの大事業を手伝ったりしている。その事業を三つほど紹介したいと思う。

 その大事業のまず一つ目は一年のうち数ヶ月しか通る事ができないという雪深くもあり悪名高いゾジ・ラに長く丈夫なトンネルを作って、一年を通じてスリナガルとカルギル、レーへと車が行き来できるようにする事業だ。

 今は冬の間でもカルギルの軍事空港からプロペラ機に同乗させてもらいスリナガルに行く事はできるのだが、狭い空港なので悪天候での冬期閉鎖が多く、そこらへんの村人が気軽に使えるかというとそうもいかない。だからどうしているのかと言うと村人は徒歩で雪中の峠越えをする事になる。

 峠の手前の宿は冬期の峠越えの村人で一杯になる事もあるそうな。たそがれの大禍時か夜中の暗闇も凍える丑三つ時に宿を出発して太陽が高いうちに向こう側の麓に到着するように峠越えをする。

 今までの峠越えが非常に困難だった事も考え合わせるとゾジ・ラにトンネルが出来た暁には、冬期は陸の孤島となる我がチクタン村の人々も、少しは生きやすくなるだろう。野菜などが欠乏する時期に凍てつき閉ざされた極寒の峠を頭上に感じながら、トンネルを使って都市間移動ができる事は村人がずっと待ち望んでいた事である。

 冬でもチクタン村では乾燥野菜以外の野菜や他の食料が手に入ると言う事は、人類が宇宙ステーションで生活できるようになった事よりも切実な進歩になるのだ。ところでこの乾燥野菜というものは、村で作った野菜をチクタン村の背中にあるおおきな岩山の浅く広い洞窟のような場所で貯蔵して乾燥させるのだ。

 この地で生きて行くための先人たちから受け継いだ知恵であり、また1999年のカルギル紛争の時は一年を通じてまさに離れ小島になっていたので、この貯蔵乾燥野菜はたいへん村人のためになったのだ。

 でもこの事業の完成までにはあと10年もの歳月がかかる。そしてこの事業も本当に10年で完成するという見通しはたっていないのだが、村人たちは信じるしかないのだ。

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 そして大事業の二つ目は巨大水事業だ。これは世界中で定期的にニュースになるので、知っている人も多いかと思う。もう一つの紛争。水紛争の話だ。インダス川の上流部分を中国に押さえられているので、有事の時、ここを止められたらラダックのみならず、カシミールの人たちはたちまち生きる事が難しくなるだろう。

 これはメコン川上流を中国に押さえられている東南アジアでも同じ問題起こっており、こちらの方が今は切実らしい。水質の悪化に留まらず、中国側のダムにより水が痩せたり太ったり自由に操作されているので、東南アジアでは災害が後をたたないし、それを外交の手段に使われたりしている。

 そしてインド政府はというとインダス川に頼らない大規模な水政策を展開しようということになる。それはヒマラヤ山脈やカラコラム山脈にトンネルをいくつも作ってインダス川以外の水源から水を直接主要な街や村々に届けるという巨大事業だ。

 すでに完成しているのもいくつかあり、僕が確認したものでは、カルギルのプエン村のトンネルから豊富な水が滝のごとく吹き出しているイクバル・プロジェクトと言われる事業。

 もう一つはヨクマカルブー村から深山の高いところに分け入ると、マーブルマウンテンと呼ばれている山があり、そこの山頂に近いところから水のトンネルが引かれていて、そこは隠れた観光の名所になっていたりする。

 最後に現在進行中の水事業はスル谷のミンジ村から進められているHCC・チュトク・プロジェクトという巨大事業がある。これはカルギルに巨大なオフィスがあるので、そこで話を伺う事ができるし、現地のミンジ村で工事の様子を見学する事も出来る。

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 そして三つ目の事業は電力事業だ。ローカルバスに揺られて仰ぎ見る山脈の荒涼としている甘いチーズ色の風景の中を走りながら目を凝らすと、羊たちの群れとともに作業途中の銀色鉄塔がところどころに点在しているのが分かる。

 今、山深い村々の発電は村ごとに小さな小さな発電小屋で発電された線香花火ほどのちいさな電力を村の家々に送電しているのだけれど、これは前述したように日に4時間程しか送電されないし、不安定なので、現在は完全に電力にたよる生活はほとんど期待できない。

 携帯電話の充電か、ほのぐらい電灯を点灯させるかくらいの使い道である。でも現在行われている電力事業はスリナガルの大規模な発電所から山脈を越えて、渓谷を渡り、川を渡り大量な野太い送電線を引っ張ってきて各村々に電力を送ろうという事業なのだ。

 これが実現すればチクタン村の人々もまたまた少しは生きやすくなるだろう。漆黒の闇に明かりが灯るのだ。子供たちが足を踏み外して暗闇の中トイレに落ちる事もなくなるだろうし、子供たちが暗闇の中転んでストーブに突っ込むという事もなくなるだろう。

 いろんな村々を歩いているとガスストーブや薪を焼べたタップに転んで突っ込んで怪我をした子供たちが非常に多いのに驚かされる。昔ながらの質素な生活はいいかもしれないけれど、今の技術で回避できる事故だけは、避けなければならないし避けられてしかるべきだと思う。

ladakh


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