Monday 25 June 2012

6.アドルガム村とカクシリクシャ村。

空からペンキが降って来た。朝、バザール裏の細い道を歩いていると頭上に缶ごと白いペンキが降って来たのだ。建物の二階部分を古はしごに乗って、白ペンキを塗っていたネパール人が、手を滑らして、ペンキを缶ごと落としてしまい、そこに運悪く僕が通りかかったと言う訳だ。僕は怒る時間も惜しんで、全力で宿に引き返し、バスルームに飛び込んで、服を脱ぎ捨てて、水を何度も何度も浴びて、石けんで体と服を洗った。なんとか奇麗にペンキが落ちたのでほっとした。なにかと日本とかってが違い、何が起こるかわからないスリリングな日々だが、事が起こってからの素早い対処が一番必要だと思った。デリーでひったくりにあったときも躊躇せずに追いかけて行ってカメラを取り返したりした事など、細かい事をあげればきりがないが、対処はできるだけ早い方がいい。

カルギルのメインバザールを出てからスリナガル方面へ続く道を歩く。右手にスル・リバーを見ながら進むと、あっという間に街は途絶え、そこは自然の中の静けさだけになる。川は流れ、木々はざわめき、ヒマラヤの空は低く、雲は漂う。10分程歩くと左の山の腹に小さな村の家々がそこはかとなくあるのが確認できる。崩れ易い山の斜面に石を積んで家の土台を作り、その上に、木枠の中に土レンガ積み上げて土と木でできた屋根をかぶせた、昔ながらの家が多く立ち並ぶ。この地域はアドルガム村と呼ばれている地区でカルギルから出てスリナガルに向う道中で一番始めに出会える村だ。この道は車が時折通り、スリナガルからの車がカルギルへ吸い込まれていく。その村の下手へ僕はどんどん歩いていくと右手の川側に掘建て小屋のような小さな小さな店が見えて来た。周りはすでに村の家々は途絶えていて、店の背には川が、面前には切り立った崖が見え、その上に濃い緑が広がっている。僕はその店で小休止する事にした。店の前に設置してある、少しだけ傾いたベンチに座り、店のおやじに200mlの小さな紙パックに入ったオレンジジュースを注文した。無精髭にイスラム帽を被ったこの男は一年中この自然の中にいて時折止まる車を相手に商売しているのだろうか?冬もここにいるのだろうか?僕はこんな事を考えながら紙パックのジュースをすすってぺちゃんこにした。この周りには美しい自然以外に何も無いようなこの地域もアドルガム村と言うなの地区で、川沿いに長く横たわっている。耳を澄ますと時折通る車と川の音以外何も聞こえてこない。いい時節だと思う。

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小さな休憩も終わり店先を出て少し進むとカルギル・ミュージアム(博物館)の川に立派な鉄橋が架かっている。その鉄橋を渡ると向こう側に見える村に行けそうだが、鉄橋があまり風流でないので、僕はこのまま真っすぐ進む事にした。左の崖の軒先に二羽の鳩が気持ち良さげに寝ている。足下に視線を落とすと靴がペンキで白くなっていた。今朝の白ペンキ事件の時、服だけに気を取られて靴にまで気が回らなかったのだ。まぁいいか。いろいろ歩き回ればいつかは奇麗に落ちるだろう。茶と緑と青と水色と色彩豊かなこのヒマラヤの渓谷をしばらく歩く。凪いでいた風が午後になって少し強くなって来た時、右手対岸にフジツボのようにへばりついている小さな村が見えた。そしてこちら側から向こう岸へ架かる吊り橋も同時に見えて来た。

吊り橋はとても細くて風に揺れ、そして弱かった。僕は注意深く吊り橋を渡り、中程まで来た時、眼下を流れる川を見た。流れは早く、足下からの川の音はよりリアルに足裏から体に伝わる。今、僕はスル・リバーの上に浮いているのだ。鳥の目で川を見ている。僕はいつでもここから飛べそうな気がした。遥か彼方に見えるはずのザンスカールまで。

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吊り橋を渡り終えて美しきその村の懐に入っていく。この村の名前はカクシリクシャ村。村の中心には手作りの水路がさらさらと流れていて、村の女性たちが水路のいたる所で洗濯をしている。ほとりにひっそり立っている木々の間から溢れる午後の陽光が水路をキラキラと輝かせている。その水路の脇には石や土で作られた家々が立ち並び、中には昔より突然移動して来たような古い建物がある。その建物のところどころには時代がある。その建物は近年にたてられた石造りの家々に溶け込んでいる。木々と家々の間から突然子供たちが駆け出してくる。村のいたるところの路地では子供たちの笑い声が絶えない。それを見守るように老人たちが軒先の土で作られた縁に座っている。そしてその目は徹底的に涼しいのだ。そしてその目はここでしか見られないようなラダックの涼しさなのだ。

昔は今とあまり変わらない生活をしていたのだという事が分かるのだ。それは決して時代に取り残されているのではなく、今ここに必要でないものは、シンプルにただないと言うだけなのだ。現代を映し出す鏡のような作用がラダックにはあると思う。その証拠に近年、都会の片隅で疲れ切った多くの旅人がラダックの有なる自然と無なる現代を求めて、ラダックの静かなる悠久の時間に身を委ねにやってくるのだ。空は広く低く徹底的に青く、緑はわずかな土地からの恵みを精一杯吸い取って、濃く深くそして鮮やかに生きている。土の匂いはあらゆるとこまで付いて来て、それは家だったり、野菜だったり、衣服だったり、いつまでも続く土の上の自分の足跡に感じられる。そしてその素敵な村を取り囲んでいるのがあまりにも広くて全てを知覚するのが困難なヒマラヤの山々だ。ヒマラヤの山を完全に人の心に取り込むにはきっと宇宙にからでないと難しいかもしれない。とてつもなく大きく、まだまだ前人未到のエリアも数多くあり、ここにはとても人間だけの概念ではとらえきれない魅力と魔物が住み着いているのだ。そして有史以来それらに取り付かれた人たちが入り込み抜出せなくなり、またはヒマラヤの塵になり、それは今も変わりなく続いているし、これからも続くのであろう。

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