Thursday 18 August 2011

5.アヌラーダプラ。

 ダマの生家より西方へバスで1時間半ほど行ったところにアヌラーダプラという名の仏教の遺跡が散在している聖地がある。バスを降りると聖地は人と熱気で溢れかえっていた。そこからスリーマハー菩提樹の入り口までの30分は幅広の一本の道が続いている。

 その道は一つの川を跨いでいて、ふと視線を右に移すと欄干の奥で沐浴をしているお坊さんの姿が見えた。スリーマハー菩提樹がある門の手前のすべての店は蓮の花を売っている。僕たちは店を一軒一軒吟味して回り、お気に入りのロータスの花こと蓮の花を小さな箱ごと買う。この蓮の花を菩提樹に奉納するのだ。

 しかしその道は平素に見えるが実は険しい。最大の関門が最初にあるのだ。ここにはあの魔物が住んでいるのだ。それは灰色の毛に黒い顔と長い長い尻尾を持った魔物だ。それは灰色の尾長猿だ。その魔物は蓮の花を見ると案の定一気に飛びついてきた。食べるつもりだ。チョコレートより蓮の花が大好物なのだ。

 罰当たりな魔物から僕は花を全力で守る。僕とダマはその魔の区間を素早く通り過ぎやっと門に辿り着いた。僕たちは門の前で靴を脱ぐ。門をくぐると目の前にスリーマハー菩提樹が見えてきてその回りを寺院が囲んでいる。

 そしてその寺院には大勢の人たちが押し合いへし合いしながら、蓮の花を奉納するべく、長い行列が右から左から正面からと出来ていた。菩提樹の寺院からほんのちょっと離れたところでたくさんの人が各々の姿で一心にお祈りをしている。

 その熱気は日本の初詣に半ば似ているが、半ば似ていない。やはりこのスリランカ仏教独自の空気なのだ。絶望的な日本の初詣的混雑ぶりは見られず、あくまでもたゆたう水のごとくゆらりとした平和な混雑ぶりなのだ。

 そしてインドのブッタガヤから運ばれてきて、1000年以上の年とともに成長してきたこの分け木は、その太い幹から無数の枝が育っており、その姿は、照り返す太陽の元に熱心に拝まれている翁が誇らしげにしているようにも見えてくる。

 そして僕はここでの裸足での生活が短いので、足の裏は火鉢が弾けているような感覚とともに敷き石に焼かれていた。僕たちはやっとの事、菩提樹下の寺院に潜り込み、少し蓮の花を置き、祈り、また少し蓮の花を置き、祈り、そしてすべての蓮の花を置き、祈り、奉納を済ます。

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 僕たちは裸足のままでスリーマハー菩提樹の近くにあるもう一つの聖地に移動する。足の裏を焼きながら長い石の連絡道を歩き続ける。その熱さは足の裏の肉でステーキが焼けそうなほどだ。心頭滅却は非常に難しい。火はいつまで経っても火であった。

 そして何とかルワンウェリ・サーヤ大塔に辿り着く。そしてこのパコーダはでかかった。天をも恐れぬその大きさのパコーダは、青空に美しい白亜のむっちりとした円錐型のシルエットを映し出す。さんさんと降り注ぐ太陽の光はパコーダの肌に反射して白熱している。このパコーダもたくさんの巡礼者を吸い寄せる。

 スリランカン巡礼者はこのパコーダに向かい熱心に祈りを捧げている。そして外国人観光客はフライパンの上で踊っているかのごとく、焼け付く足の裏を気にしつつ、ぺたぺたと忙しなく歩いている。

 僕たちはパコーダを中心にして左回りに歩く。パコーダもまた一つの怪物だ。この地にそびえる巨大な怪物だ。人の思いを食べて成長する怪物だ。それは強く優しい怪物だ。時を超える怪物だ。二千年近き昔の思念を乗せて今を羽ばたく怪物だ。怪物は微笑む。静かに暖かく微笑む。

 その微笑みは祈る者に届き、祈らぬ者にも届き、アジアに届き、世界中に届く。怪物は語る。静かに暖かく語る。その語りは祈る者に届き、祈らぬ者にも届き、アジアに届き、世界中に届く。その優しき怪物はこう云うのだ。
 
「仏陀の声を聞きたければこの高い塔に登って天に呼びかけるのではなく、その低い地上から雑踏に向って呼びかけなさい。仏陀は雑踏の中にある。あなた方もまた一人の仏陀なのです」

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 僕たちはアヌラーダプラの雑踏の街中から古バスに揺られながら、クルネーガラに帰る。熱さに疲れと相まって僕たちは座席に体を支えられ眠った。青い空のもとジャングルの中に続く一本の道を古バスは右に左にお尻を揺らせながら進む。そこには平和なスリランカがずっと続く。

 スリランカは2年前にLTTEとの戦闘を集結した。長い長い民族間の紛争が終わりここアヌラーダプラから北部地域東部地域にも平和が訪れた昨今でも、まだまだ沿道上には厳重な警備が続いている。今までも大変だったが、しかしこれからの道のりもまたまた大変であろうと思う。

 真の平和が訪れたならば、それは本当の意味でのスリランカの出発点だ。あらゆる民族・宗教が融和し協調しこの国を良き方向に導いていくのだ。

 世界は泡沫である。人生は束の間に過ぎない。
 母体に宿るそもそもから、墓場にいたるその時まで、
 人生は苦の連続である。揺りかごからとり出される。

 それから気兼ね苦労で育て上げられる。
 さて、こうした末に、成り上がった人の命が不壊なればこそ、
 生命の頼りがたなさは、水に描ける絵、砂に刻める文字もおろかである。

 内地にいて感情を満足させたい、
 これはけだし人間の病気である。
 海を越えて、他国に行くことは、
 困難であり、また危険である。

 時には戦争があって、われわれを苦しめる。
 しかし、それが終われば
 こんどはまた平和のためにいっそう苦しむ。

             ~詩人ベーコン

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