Monday 15 August 2011

4.ミーウェラワのお寺。

 朝ダマとミーウェラワのお寺に向かう。ジャングルの中のそのお寺は掃き清められて清潔であり、檀家の村人のたゆまぬ努力により丁寧に維持されていた。寺は村の一番奥にあり、淡い黄色と白を中心とした優しい寺の色使いは見る人を柔和な気持ちにさせ安心を誘う。

 寺の門をくぐると檀家の女性が顔を左にちょこんと倒して「アーユボーワン」と僕に云う。日本でいうとろのこんにちはとかさようならなどの挨拶に相当する言葉だ。僕も「アーユボーワン」で返す。島の青空に高々と鐘の音が響く。

 鐘は小さなキリスト教会にあるものと同じように小柄で、その音色も可愛くきんころと何度も何度も村の空に鳴いていた。南の島のこのお寺のホールにはすでに檀家の人たちがたくさん集まっていて、その風通しのいいホールでおのおのみんなくつろいでいる。白い服を着た村人は僧侶のダマの到着を待ちわびていた。

 ダマはホールの壇上に上がると、右手に持った大きなうちわでパタパタ仰ぎながら、お経を唱え始めた。ダマのスリランカスタイルのお経は歌だ。ダマは歌い続ける。日本のお経とはまったく異なったそのスタイルは、始めて聞くものにも優しく届く。

 夏の朝に響くダマの美声は鐘の音に乗ってそして風に乗って村中をゆらりゆらりと巡っている。ダマが一句歌うとそれに続いて村人も歌う。そして一心にお祈りをしている村人の横で一匹の犬があくびをしている。ゆるく流れる空気の中でダマの歌もゆるく流れ漂う。

 寺内の菩提樹はダマの言葉を拾う。言葉はうつろだ。だから言葉を拾うのではなくたぶん言葉の実を拾っているのだ。そして菩提樹はその実を食して成長し続けている。しかしその菩提樹もうつろだ。うつろが実を掴んでいるように思える思念のパラドックスに落ち込んでいく。

 心の中の世界は怖い。心で見て聞いて感じるこれもまたただの胡乱なのかもしれない。全てがあやふやな存在であり全てが明確に存在しているようでもある。しかしダマの歌声は実だ。確実に存在している。聞こえるだけではなく見る事が出来るし感じる事もできる。うつろではなくしっかりとここにあり続けているのだ。

 言葉の色が見える。言葉の匂いが嗅げる。言葉の味が分かる。それは実だ。しかし瞬間の確実性も次の瞬間には不安定な実になっている。それを掴もうとしている僕は目であり耳であり鼻自体なのだ。

 そしてきっと僕は一本の大きな大きな菩提樹なのだ。ふと僕は心地よい眠りより目を覚ました。寺内の菩提樹の下で犬とともに眠ってしまっていたのだ。

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 ダマは説法が終わり僕たちは、寺の片隅にある小さな家に入っていく。僕たちはその小さな家の奥の間に通される。その部屋でも一人の老僧がベットに力なく横たわっていた。彼の喉と胃からは医療用のパイプが出ておりその先は機械につながれていた。男はこの寺の住職だ。

 男は身振り手振りのジェスチャーでダマに語りかける。ダマはベッドの横に跪いて男の手を握ると男のジェスチャーを一心に聞いている。死が近づいてきている。それは誰にでも分かった。それを意図せずダマは健常者に語りかけるのと同じように男に優しく淡々と何かを語りかける。

 男も淡々とジェスチャーで返す。数分の不思議なやり取りの後、付き添いの医師よりストップがかけられる。お互い納得したようでダマは立ち上がると静かな笑みをたたえて無言で部屋を出る。部屋の応接室では檀家の方々が部屋の方向に熱心にお祈りをしている。中には泣いている者もいる。

 ダマはその泣いている檀家に歩み寄ると肩に手を置き一言二言短くつぶやく。その人は顔を上げ強くうなづくいて涙を拭う。そして僕たちは住職の家を後にしたのだ。

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 ダマの家では昼食の準備が出来ていた。僕はそこで初めてカードと言うなの水牛のヨーグルトに出会った。このヨーグルトは臭みがあるのだが、その臭みがカードの独特の食感と美味く戯れて、しっかりとしたヨーグルトに仕上がっているのだ。

 日本で食べるような水っぽいヨーグルトではなく、歯ごたえがしっかあるヨーグルトで、それにこの村で取れた蜂蜜をたっぷりかけて食べると、これまた美味さの壁を何段何段も突破したような名状しがたい味になるのだ。蜂蜜も日本の水っぽいものではなく濃厚で香り高くねっとり絡み付くような蜂蜜だ。

 これを惜しげも無くたっぷりとかけて頂くのだ。うまみの限界をすでに突破したそれらはすでにうまいとかまずいとか、そんなやりとりがまるでばかげているかのごとく、別のベクトルで高みからそれらを静かに眺めている達観した大人の味と人間の根源的な味覚に訴えるこのカードヨーグルトは実際ものすごく美味かった。

 食事の後、子供たちに誘われて僕は再び庭に出る。その庭では一人の少年がさとうきびを鉈で切って僕にくれた。そのサトウキビは一口食べると口元がべとべとになるくらいの豊満な砂糖汁が溢れ出てきているのだ。それを右手でぬぐいぬぐいしながら咀嚼する。そしてまた違う少年は熟したマンゴをたくさん持ってきてくれた。

 それの頭を少し食いちぎって、じゅじゅじゅっと吸い込むのだ。そのねっとりと甘く高らかに広がる香りと相まってこれもまた逸品中の逸品であった。僕は部屋の片隅にマンゴを転がせておく。そしてしばらくするとその濃密な香りは部屋中にゆっくり漂い、あらゆる場所に匂いを付けていき、自然のフルーツパフュームの出来上がりだ。

 ここの生活の多くのもの自然から手に入る。そして自然に戻すのだ。サトウキビやマンゴの皮もジャングルの奥になげやる。一日経たずにそれらは虫の食べ物となり、なり得無かったものはいつか土に戻るのだ。人もまた然りだ。水は地下水から汲み上げて、食料は自然より頂く。

 子供たちは生まれた時より自然と親しみ、その生活方法をいつしかより良く極めて、次の世代に受け渡す。仏教とともにあるここの生活は、仏教がこの地に根付く前より続いている生活かもしれない。しかし人間が迷い続けてきたその答えがたまたまこの村では仏教だったのだ。

 宗教とはそう云うものだ。仏教もキリスト教もイスラム教もその他の宗教も、元を辿ればよりよい人間であるための方便を技巧した戒めの法なのだ。それはなんであれその人たちが救われるならそれで良いのだ。そしてそれが全てなのだと僕は思う。

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