2011年8月5日金曜日

1.黄昏のデリー。

 デリーのパハール・ガンジ(メインストリート)から少し外れた場所の喧噪の中に一軒の食堂がある。デリーの菌糸がまとわりつくような空気と霞んだ黒茜色の空の下、その食堂に僕は向った。

 店の狭い間口には、惣菜に群がる蠅たちを追い払う目的と少しでも涼しく快適な空間が提供にできるようにと、大きな錆びた鉄の箱の中で巨大な羽根が不快な轟音を響かせながら回転し、店内に生温い空気を送っていた。

 通りに面した椅子に座ると目の前に乱立している露店が見え、その向こうには渋滞する車たちがクラクションの雨を街中にまき散らしており、それらすべてがデリーの素晴らしいイメージを不動のものとしていた。去年のデリーと比べてなんの変わりもないこの街に、少し半ば安堵して半ば残念だと思う自分がいる。

 僕は従業員の少年にオムライスとスープを頼む。そうこの店には日本的な洋食があるのだ。それは100ルピーを切る値段なのだが一食10ルピーから40ルピーと主に生水だけで過ごしてきた僕にとっては痛い出費だ。10分程待つとさっそくそれが出てきた。

 フライドライスを外のオムレツごとスプーンでいってみる。懐かしい味がした。日本の定食屋のオムライスとさほど変わらない味のそのオムライスは、ぱらぱらと散らばるような炒め方とほんのりに醤油のような風味も手伝って、僕はその思い出の味をじっくり反芻した。

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 「ちょっといいじゃろか。」

 オムライスを食し終わると、一人の老人がテーブルを挟んで僕の向いの椅子で黄昏れる。仕立てられたばかりのような白いシャツを着て、ピート・タウンジェントを銀髪にしたようなその容姿の黄昏老人はズポンのポケットからココナッツの皮の一片を取り出すとそれをしゃぶり始めた。

 するともう一片をポケットから取り出し僕に勧めた。それを受け取ると僕は匂いを嗅ぎ、舌でチロとなめ、変な匂いとおかしな味もせず、舌のしびれも無かったので、大丈夫だと判断して早速しゃぶり始めた。

「あなたはどこから来さった?」

「日本からです。」

 黄昏は静かにうなずくとまた口を開いた。

「ココナッツはだな、こうしておいしく頂く事もできるし、ココナッツバターやココナッツミルクなどいろんな料理の材料やココナッツオイルなどの美容品にもなったりする。ココナッツの皮の繊維で昔は服を作ったりもしたんじゃ。どこも捨てるところがないのはクジラみたいなものじゃ。クジラは日本の伝統的な食文化だったじゃろか」

 僕は静かにうなずく。

「クジラは食べた事があるかね?」

 黄昏はおもむろに質問する。

「昔、食べた事があります。今はあまり市場では見かけなくなりましたね」

 僕がそう云うと黄昏の目の奥が少し揺れる。

「そうじゃろ。そうじゃろ。もしいま食べているココナッツがなくなったらインドとて大変じゃ。食べるだけ食べて木をすべて伐採して開拓なんて事になると、インドからココナッツは消えてしまう。それと同じで世界中からクジラが消えたら大変な事になるじゃろ」

 黄昏はたたみかけるように話し出す。

「あなたが住んでいるところの近くに大きな湾とかはあるかね?もしあるのならその湾の名前を教えてもらえるじゃろか?」

 僕は答える。

「三河湾です」

 黄昏は一呼吸おき、水を口にしてそれをテーブルの上に戻すと、また続きを語り始めた。

「そこでじゃな。その三河湾というのを使ってクジラを養殖してみたらと思うんじゃがどうかね。クジラは食っても減らないし、まあココナッツの木みたいなものじゃ。ひたすら植え続けるのじゃ」

 僕は黄昏の話から興味が失せると、ぼんやりと黄昏の肩越しに通りを行き交う人たちを眺めている。

「2000ルピーでどうじゃ。この話をあなたに2000ルピーで差し上げようと思うのじゃが、ど・・」

「いやです」

 僕は即答する。

 黄昏は一瞬寂しげな表情で顔を崩すが、すぐに次の話題を切りそれをテーブルに広げる。

「わしはじゃな。今まで秘密にしておったのじゃが、何を隠そうブータンからやってきたのじゃ。日本と同じ仏教の国じゃ」

 僕は失った興味をほんの少しだけ取り戻す。

「そうなんですか」

 黄昏はひたすら走る。

「ブータンの大学で教授をしておったのじゃが、60才を越えてから受け入れてくれる大学が無くなってしもうてな。家族はブータンにおるのじゃが、家族で働いていたのはわしだけだったので、教鞭の口を探しにインドに出てきたんじゃ」

 僕はそれを聞いて短く答える。

「ブータンはすばらしい仏教国と聞いてます」

 黄昏は目尻を下げながら続ける。

「そうじゃろ、そうじゃろ。インドの大学で教員の口が見つかったんでな、今はブータンにおける仏教についての学問を生徒たちに教えておるのじゃ」

 僕はおもむろに立ち上がり黄昏に云う。

「僕はもう宿に戻ります」

 黄昏も立ち上がり僕に云う。

「途中まで送ろうかのう。これも何かの縁じゃて。」

 黄昏と僕は肩を並べて喧噪のバザールを歩き始める。

 向こうから荷馬車がやって来る。黄昏は最後の口を開く。

「今朝じゃな、荷馬車に足を踏まれてしまってな。」

 黄昏は自分の足を縁石の上に放り出す。

「ほれ、靴の底が取れかかってしまっておるじゃろ。」

 黄昏の靴底が3分の2ほど取れて垂れ下がっている。そして黄昏は云う。

「あなたの宿のベッド横に転がっている予備の靴をじゃな。わしに・・」

 今日も黄昏のデリーにいつもの夜の帳がおりてくるのだった。

 数日後、同じ食堂に行くとあの黄昏老人がオーストラリア人相手に神妙な顔つきで話をしていた。

「それでじゃな。あなたの宿の枕元においてある予備の腕時計をじゃな。わしに・・」

 デリーの黄昏は今日も健在だ。 

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