2011年8月14日日曜日

3.ジャングルの中の村、ミーウェラワ。

 僕と僧侶のダマはクルネーガラのバスターミナルから古バスに乗り換え北へ向った。果てしなく続くココナッツの木やバナナの木の並木道をバスに揺られてひたすら進む。陽気な音楽がバスの中にかかっている。僕もスリランカ・レゲエのリズムを口ずさみながら車窓の風景を眺めている。

 沿道にときおり見える店はあくまでも南国風で、瓦やバナナの葉で作られた屋根が常夏の日差しを受けて輝いている。遠くに大きな湖が見える。その湖から飛び立つ白い鳥の群れは青い空をゆっくり旋回しながら北へ向うところだ。

 窓から吹き込むインド洋とスリランカ内陸を旅してきた風は、小さなつむじ風を作って向かいの窓から抜けていく。沿道のジャングルたちは付近の村人たちによって掃き清められており、淀んだ淵のような所は見当たらず徹底的に清潔だ。

 ヒマラヤ山脈の乾いた山肌にはよく人を不安にさせる強い色の赤土が見られたが、この土地によく見られる赤土は優しくてさわやかな赤だ。木陰の下の赤土に犬が横たわっていたり、猫があくびをしていたりする。そしてときおりそこで人も昼寝をしているのだ。

 もちろんその上ではバナナの木の葉が涼しげに揺れている。そんな事を考えていると気持ちいいバスの揺れ方は眠気を誘う。そんな中長い長い木のトンネルを古バスがえっちらほっちらと尻を右に振り左に振りながら進んでいく。

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 バスは4時間ほど走っただろうか、僕とダマはジャングルの中の交差点で降りる。僕は交差点の真ん中に立って北を見る。道は地平線まで続いている。東を見る。道は地平線まで続いている。南を見る。道は地平線まで続いている。西を見る。道は地平線まで続いている。

 そしてそこは徹底的に静かで、空気は緩く、太陽は眩しい。目を凝らすと西の果てには砂埃がかすかに見え、それが徐々に近づいてくるのが分かった。そして待つ事10分、緑と黒のツートンカラーのトゥクトゥクがえっこらよっこらとやって来た。

 インドのトゥクトゥクはただの瓦礫の汚れた棺桶に見えたのだが、スリランカのトゥクトゥクは違った。それはまるで走る三輪の旧式ミニクーパだ。まるで人が乗る事ができるてんとう虫だ。太陽によく映える磨き込まれたその緑のボディは、光を柔らかく反射して、自然の中に優しく溶け込んでいる。

 小さな羽根がついているかのようで、今にもしゃかしゃか音を立てて飛んでいきそうでもある。僕たちはトゥクトゥクに乗り込むと西へ向った。トゥクトゥクはジャングルの中、真っすぐな土の道を走る。道の両側には低木の原生林が続いており、その向こうには小さな湖がいくつも見える。

 数種類の水鳥たちはのどかな中、高い声や低い声で時折歌う。家は一軒も見当たらず深いジャングルはまだまだ続く。はてこんな所に村なぞあるのだろうかと少し不安になる。30分ほど走っただろうか、家が一軒また一軒とジャングルの木々の間に見えてくる。

 そして村らしい程よい密度が現れるとそこでトゥクトックは停まった。僕たちはトゥクトゥクを降るとダマの生家に向う。

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 そうこの村はダマが生まれた村なのだ。村の名前はミーウェラワ村。スリランカ北方のジャングルの中にある小さな村だ。スリランカの北方はクルネーガラより乾燥しており、ジャングルは広大だが密ではなく木々の間は広い。サバンナの中にある亜熱帯のジャングルという感じなのだ。

 高く青い空の下に、緑輝くバナナの木やココナッツの木が程よく茂り、その下に覗かせる少し乾いた大地の上に、南の島独特のスタイルの家々が点在している。ダマの家の敷地は広く(敷地の概念があるのかは謎だが)南国風の家は平屋でも広く、始終開け放している扉からはスリランカの香りを乗せた風が入ってくる。

 村には大きな井戸がたくさん点在していて、水も豊富にあるのだ。さっそく到着したばかりの汗まみれになった体を井戸水で洗う事にした。井戸の縁で僕は上半身裸になると、井戸に沈んでいる樽を素早くロープを引きつつ引っぱり上げる。樽の中にたんまりと入った井戸水を頭からかぶるのだ。

 そして石けんで体を泡立てて井戸水を何度も頭からかぶると汗とともにそれらをきれいに洗い流す。僕は体をタオルで拭いながら村の表情を眺めている。黄昏に沈む村の姿はとても美しく、木々や家々が長い影を作り、その影の間を子供たちが遊び回っている。

 名も知らない数多くの鳥たちがいっそう高く鳴き、近づきつつある夜の帳の事を語り合っている。夕暮れの風は昼間の常夏の風とはまた違い、日本の彼岸あけの夜風に似ている。風の中に微かな夏の匂いを閉じ込めているのだ。もしこれが日本なら秋の到来を告げる風にもなろうかと思う。

 悠久の彼方遠くの時代とあまり変わらない生活が続いている。空は昔から変わらずに同じ空の表情を演出し気が遠くなるほどの長い年月を淡々と繰り返している。木々もまたそうなのであろう。そしてそこにある全てがそうなのであろう。そこに人が住み着き、また昔とあまり変わらない生活スタイルを守り続けているのだ。

 今の世界の陳腐な飽食の時代に、そのスタイルは斬新で美しい明日の顔を世界中に見せつけているようでもある。これから世界は今とは違う文化的価値を求めてせわしく輪廻するかもしれないが、この村は過去から未来へとゆっくり発酵を続けながら成熟していき大人の文化を世界の片隅で蒸留してきたようでもある。

 急ぐ必要は無く取り込まれる必要も無くいつか世界が気づくかもしれないこの素敵でシンプルな価値観は次世代のラダックになるかもしれないと思った。

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