Tuesday 9 August 2011

2.爛熟のデリー。

 
 パハール・ガンジより細い辻に入り、崩れかけた雑居ビル二階と三階の間にチックの部屋はある。雑居ビルの階段の踊り場にはカシミール・ツーリスト・カンパニーのポスターが張られている。しかしこの先にはそんな会社などない。階段の行き止まりの扉を開けると6畳ほどの小さな部屋がある。

 その部屋には壁一面、床一面にヒンディーの神様の小さな彫刻が飾られている。神様たちはいつもこの部屋で取引されるきな臭い話の一部始終をここで見聞きしているのだ。もちろんチックはヒンディーの神様など全く信じていない。彼はその前にムスリムだ。不良ムスリムの典型的なタイプだ。

 そしてそこにはすでに先客が来ていた。チックはイスラエル人観光客たちを相手にスリナガル・ハウスボート・ツアーの斡旋をすべく熱弁を振るっている。

 チックは僕に気づきチラとこちらに目をやるが、すぐにイスラエル人たちの方に向き直り、ツアー料金を車が何台も買えるほどの値段からイスラエル人たちの値切り努力により一般的に法外な値段と言われている妥当な料金まで値を下げていた。

 イスラエルは自国でパレスチナや隣国相手に政治的軍事的に残酷なショーを演じているが、近隣のムスリム国への旅行が難しいので、インドの中の悪名高いムスリムの国スリナガル、カシミールで安全な旅行を試みようとしているのだ。彼らは自国に戻ると、きっと仲間にこう云うだろう。

「そうさ、あのスリナガルに行ってきたのさ。えっ?やばい事もあったけどどうにかして切り抜けたぜ。なんてったってあのスリナガルなんだぜ。そうだろ?」

 こうして仲間たちの間で彼らの株が上がる訳だ。もちろん彼らにはスリナガルで自国の非道を贖罪しようと言う気持ちなんてまったくない。みんなヒーローになりたがっているのだ。一週間のスリナガルツアーを80000ルピーで彼らは手を打った。イスラエル人たちが部屋を出て行くと僕とチックは久しぶりの再会に軽く抱擁をした。

「相変わらずぼろい商売してるな。」

「人聞き悪い事言うなよ。俺はちゃんと客たちを親切に安全にスリナガルに送り込む事を条件にお互い納得の上の料金を貰ってるんだ」

「そうだな、チックのところは他の業者と違いレイプはしない。客の鞄の中の金に手をつけないをモットーとしてるんだったな」

「一つどうだ」

 チックは自分が吸っているハシシを僕に渡そうとした。

「僕はドラッグとスモークとアルコールはやらないんだ」

 僕がそう云うと今度は目の前のクッキーと紅茶を勧める。

「今はラマダンなのにいいのか?クッキーとか紅茶とか飲んでて?」

 僕がそう云うとチックは天を見て

「アッラー、ごめんなさい」

 と云うと、またクッキーを食べ始める。彼は不良ムスリムの鏡だ。見事なもんだ。
 近況の話でお互い適当に盛り上がり、そして僕はチックの部屋を後にした。

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 不快が渦巻くパハール・ガンジを歩いている。僕は半ば人に興味はあるのと同じくらい人をまったく受け付けない。僕は基本的に集団が嫌いなのだ。人が多い通りを見るとぞっとする。多数派が嫌いで、ダイナミズムが嫌いで、資本主義が嫌いで、コミュニストも嫌いで、強い物は嫌いで、有名観光地は嫌いだ。

 雑踏よりも静寂を愛す困った奴なのだ。ニューデリー駅が人波の向こう側に見えてきても居心地の悪さは変わらなかった。

「ヘイ・ジャパーニ」

 馴れ馴れしく若いインド人が突然僕の肩を掴んで来た。不快は頂点に達していた。その瞬間僕のサイドバッグがふと軽くなったと感じた。とっさに目をそれに向ける。ジッパーが大きく開かれていた。やられたと思った。三人組が蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げながら左右の辻に散っていくのが見えた。

 右の辻に入っていくネイビーのTシャツを着た青年の手に僕のカメラが握られているのを確認すると、僕は大声で喚きながら即座に追いかける。僕が右の辻を入ると男は路地の先の分かれ道を左に曲がろうとする所だった。僕も後を追いながら、その暗く薄汚れた路地を左に曲がる。

 するとそこにはたくさんの人が行き来していて、追う者と追われる者の動向を興味深く見守っていた。男は人を右に左にかき分けながら進んでいく。僕はそのかき分けたところにできた隙間をなんなく真っすぐ追いかける。

 僕の男の背中にあびせる罵詈雑言の汚い言葉はギャラリーをも驚かせていた。次の細いT字路で男が右に行こうか左に行こうか迷った一瞬に僕は彼に追いつく。僕は男の肩をはずれんばかりに掴むと強引にこちらに振り向かさせる。

「ハッ!」

 僕は男の右脇腹におもいっきり左のミドルを叩き込んだ。ムチとなった大木が男の脇腹をえぐる。男の臓器が瞬間シュリンクする。男は背中を丸めて小便臭い路地に崩れ落ちると声にならない声をたてた。

「あー」「あー」「あー」「あー」

 男は地面で亀のようにもがきながら口から胃液を吐いている。僕は男の手からカメラをもぎ取ると、男の右足首を掴み引きずって表通りまで引っ張っていこうとするが、体の大きな男は苦しんだまま動こうとしない。

 僕は少し考え一人で大通りまで出ていく。そして警察を連れて戻って来た。その間1、2分だがすでに男の姿は無かった。

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 警察の調書を作成するためだけの現場検証と事情聴衆が終わったのはデリーが黄昏始めた頃だった。解放された僕はパハール・ガンジの西のエリアにあるレストランに足を向ける。そのレストランは大通りより一つ中に入った辻の二階にあった。

 扉を開けるとブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの”チャン・チャン”が流れていた。ルート66沿いのモーテルにあるような怪しいファニチュアがさりげなく置いてある。

 なにげに抜群にセンスがいい店だ。店の奥でジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグが店内でいい女を物色していそうで、そしてその先のテーブルでトム・ウェイツが酔いつぶれていそうな雰囲気の店だ。

「この店のビートニクはまだ生きている」

 そう感じさせられる店だ。”ジョッキー・フル・オブ・バーボン”がかかれば完璧だと思った。
 チックが奥の席で仲間と戯れていた。チックは僕に気づくと右手で仲間のジョークを制止して云う。

「へい兄弟!さっきポリスのバイクの後ろにあんたが乗ってたのを見た時、これは何かあったなと思った。いったい何があったんだい?」

 僕はチックにカメラ事件の一部始終を話した。どうやらカメラ泥棒の悪たれ達はパハール・ガンジの東側に暗躍している不良グループでチックにも心当たりがあるらしい。

「あんたには悪い事したな。この事件の幕引きは俺にさせてくれ」

 そう云うと、チックが投げたダーツの矢は的の中心で上下に震えて長い影を作っていた。

 次の日の朝、僕は予定より二日早いパハール・ガンジからの一刻も早く脱出を試みるべくホテルのオーナーに訴えてた。

「そういう訳で先払いした二日分のホテル代を返して欲しいのですが」

「ホテル代は返せないな。カメラを取られそうになったのはホテルの外で、中ではないんだろ?」

「お願いします。返してください」

「何度も言うようだけど、返せないね」

「オーケーいいでしょう。もしあなたがお金を返さなければ僕は日本に戻ってこのホテルには泊まらないほうがいいと、その1000ほどの理由と共に、ウェブ上や出版社への投書でこのホテルの真実の姿を訴えかけるでしょう。もしあなたがお金を返してくれたら日本に戻った時、このホテルは素晴らしいと1000ほどの理由と共にネット上や出版社への投書で褒めたたえるでしょう。選択するのはあなたの自由です。どうしますか?」

 するとホテルのオーナーは右の頬を引きつらせながら

「払わないとは言ってないだろうに、なぁ」

 と従業員に相づちを求め、机の引き出しから500ルピー札2枚を取り出すところだった。僕はその手から合わせて1000ルピーをもぎ取るとホテルの前を通りかかったオート・リクシャを呼び止めてそれに飛び乗った。

 オート・リクシャはパハール・ガンジの西の端を左に曲がると赤信号で溜まっている渋滞に巻き込まれた。僕が視線を左に投げ掛けると、舗道上で一人の肌が浅黒い5歳か6歳ほどの少女がまるでスローのフィルムでも回しているかのようにゆっくりと手を使わず顔面でバック転をしていた。

 ちょうど路上にキスをするような形で顔を泥で真っ黒にして何度も何度もバック転をしていた。そして僕はその少女と目が合う。少女はバック転を途中で辞めると、車の間をすり抜け、僕のリクシャに近づいてくる。それから少女はゆっくり右手を僕の方に差し出した。

 僕は先ほどホテルのオーナーからむしり取ったしわくちゃの500ルピー札2枚を少女の手に握らせた。信号が青に変わり忙しく出発したリクシャの後ろから聞こえる少女の声は、街の喧噪と車の砂埃にかき消されていた。

 風の便りで、その数日後インドの新聞の片隅にパハール・ガンジに住む一人の男の失踪の記事が載った事を知ったのは、それから数週間が過ぎてからだった。

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