Monday 1 September 2014

36.スル谷へのドライブとツァングラ村。

そしてカーチェイスが始まった。僕の隣に座っている男はポンコツのマルチ・スズキを時速80キロまで加速すると、仲間のバンを右側から追い抜いた。そしてスピードを維持したままコーナーに突っ込んでいく。ミッション・ギアには一切触らずフットブレーキを目一杯踏んで減速し、車は大きくかつ不安定にそのお尻を左に滑らし、深いカーブを砂煙を上げながら運良く乗り切ると、再び時速80キロまで加速する。ここは標高4000メートル弱のガードレールもないナミカ・ラ(峠)の下りである。男にとってギアはノッキングしたときにだけ使うものであり、エンジンブレーキというそんなコジャレた機能のことはもちろんまったく知らない。だから危険な時は男は黙ってフットブレーキをベタ踏みすればよいのだと思っている節がある。そして男の運転は決してうまくはない。いやむしろここが日本だとしたら下手糞なドライバーの上位1パーセントに文句なく入る栄誉をもらえるだろう。まぁそんな状態で数十もの峠のコーナーをほとんどは運が味方をしてくれて、それを征服し終えると僕はこわばりながら掴んでいたドアの上部にあるハンドルから手を離した。もし男があの有名な豆腐屋なら、豆腐が顧客に届いたときにはそれはきっとヨーグルトになっているはずだ。

チクタン村の仲間と今日はスル谷のパニカル方面へピクニックに行く日である。そして良く晴れた良い日だ。僕たちを乗せた車4台はカーチェイスもほどほどにカルギルの街に着くと、キャンプのためのいろいろな物資を調達し、そしてスル谷へ向かった。スル谷の日に輝いている清流沿いを車は走らせる。途中昼食はサンクーの木々で囲まれた芝生の上でカレーを料理してみんなで食べる。先ほどまで後部の座席で鳴いていた鶏たちのうちの一羽が、僕の食べるカレーの中に良く煮込まれたむね肉となって浮いていた。僕たちは昼食を終えるとさっそく出発する。




サンクーの長い長いバザールが道の両側に続く。そこでは商店の脇で座る老人たちが杖に寄りかかりつつ日向ぼっこをしていたり、スカーフで髪を隠した子供たちが2つで1ルピーのミルクトフィーを買い求めていたり、ご婦人方が店主とキャベツの値段の交渉をしている姿が見えた。このバザールはザンスカールとスル谷の中でももっとも大きなマーケットでいつも多くの人たちで賑わっている。もしスル谷やザンスカール方面に行くときに買い忘れたものなどがあればここでいろいろ購入すれば良いと思う。

しばらくいい道が続いたので隣の男は車を加速させる。見渡す限りの広々とした丘陵地にインド軍の基地があり、その中を道が貫いている。その道には空のドラム缶が並べてあり、車を減速して、そこをゆっくりとスラローム状に進まないと通過できない仕組みになっている。男は時速80キロを維持したまま、そのドラム缶が並べられたスラロームの道に突っ込んで行く。僕はここを無事に通過できない方へ10ルピー掛ける。男はその速度を維持したままハンドルさばきだけで行けると思っている。きっと慣性の法則を無視したありえない動きをするボリウッド映画の見すぎだ。世界一運転が下手糞なその男がとっさにハンドルを切るも車はドーンと言う大きな音と共に正面からみごとにドラム缶に突っ込んでいった。2本のドラム缶をなぎ倒し、車の正面を大破させつつも、警備兵が飛んでこなかったのをいいことにできる限り遠くまで僕たちは逃げ続けた。僕はあの速度ではスラロームを抜けるのは不可能であり、ドラム缶に突っ込めば車の正面のライトは粉々になり、大きくボディは凹む事ぐらいは考えたのだが、隣の男は想定外の事だったらしくかなり狼狽している。もっとしっかりボリウッド映画を見て練習を積んだ方がいい、もしくはあとほんの少し想像力を働かす事が出来れば、男ももっと楽に人生を過ごす事ができるだろう。僕は男に実は命のスペアを持ってこなかったんだと重大な告白して、別れを告げると早々に違う車に乗り込んだ。


僕が乗り込んだバンの運転手はインド軍で働いており、チクタン村出身者に良くみられるとてもおっとりとした性格であるが、運転はとても慎重でいて安全だ。車は何かとうとうととしがちな午後の木漏れ日の中、スル・リバー沿いをひたすら進むと川の縁にたたずんでいるような、ひときは美しい小さなモスクが見えてきた。そのモスクは緑色の帽子をかぶり白い肌を持っていて、背後には数件の家々が建つ丘がそびえており、その向こう側には午後の光にきらきらと輝いているスル・リバーが豊富な水量を抱いて流れている。良く見るとそのモスクの懐には古めかしい小さな小さな家のようなものが建っていて、それはモスク自体が雨や風避けの役割をしており、その家をしっかりと守っているのが分かる。

この村はツァングラ村と呼ばれる村で歴史的にひときわ重要な村なのだ。そしてこのモスクはセイド・ミル・ハシムの墓と呼ばれる場所になっていて、この歴史はハシムの妻のリギャル・カートゥーンがこのスル・カルチェイの王シ・ナムギャル(1660~1700)へ、ムスリムの伝道師ハシムを紹介したところまで遡る。王の息子のムハンマド・サルタンはハシムとカシミールからやって来たアクフーン・ファジルにより、良く教育され、後にラダックでもっとも有名な王の一人となる。ムスリムの教えはスル・カルチェイ全体に広がり、そしてハシムとリギャル・カートゥーンとアクフーン・ファジルの努力が実りその頃のカルギルの歴史にも現れ始め、そしてワカへはハシムとアクフーン・ファジルが伝導し広がってゆく。そしてこの場所に偉大な宗教学者であり伝道師のセイド・ミル・ハシムが静かに眠る。このような歴史がこのスル谷にはあり、地元ムスリムにとっての最も重要な聖地になっている。今日も参拝者が数人来ており、お祈りをしたり、お墓の掃除をしたり、お花の交換をしたりしていた。チクタン村のラダッキたちもお墓にお祈りを捧げると気分も新たにスル谷のさらに奥へ向かった。




スル・リバー沿いの村々はラダックでも最も緑は濃く、広大なお椀状の谷が深くまで続き、それは決して終わる気配を見せない。豊富な水量の川とそこに住む人々がスル谷に煌めく緑を育て、天空の楽園をみごとに作り上げている。だから空も青く深いし、その下に連なるシナモン色をしたヒマラヤの山々は不毛だが良く輝いているし、その谷の緑とそこにすむ人々の姿はとても眩しい。この永遠に続くような道はスル谷のパートとザンスカールのパートにペンジ・ラ(峠)を境に分かれている。スル谷は緑が深き輝く陽(よう)の谷で、ザンスカールが偉大なる不毛が続く陰(いん)の谷の様相を抱えている。実態がはっきりしている水晶玉のこちら側の世界がスル谷であり、玉を通してみる向こう側の魔術にかけられたような夢ごごちの世界がザンスカールだ。陰と陽の抜群なバランスで保っているこの世界で二つのエリアをつぶさに感じとるととても面白い事がいろいろと見えてくる。訪れる人々にはいろいろな表情を見せてくる。








話は変わるが、世界中にはとても良い本もあるし出来映えの悪い本もある。例えばそれがガイドブックだったりして、アゼルバイジャンあたりから出ていたとする。そこに”ここには見るべきものはない”などと書かれてあったりしたとすると(そんなバカげたガイドブックが世界に存在するとは思えないが・・)、その時点でこのガイドブックはただのきわめて個人的な日記になり、いろんな意味ですでに見込みはない。そして場所がエゴイスティックな著者を拒絶しているだけなんだという事が著者には永遠に分からないと思うし、そんな著者がとても可哀想に感じる。助けてあげたいが、きっと僕には助けられない。

人物の人生経験がほどよく発酵し、今までに出会ったことのない経験がその発酵物に加えられ、それが丹念に混ぜられると、感銘というその人にしか経験できない産物が心の中に生まれてくる。それは人とはまったく違うものができるかもしれないし、同じものができるかもしれない。また様々なものが欠けている人物が見ると、その場所の魅力は決して見いだせないかもしれない。また様々な魅力が詰まった人物が見ると、その場所はあなたに堰を切ったようにいろいろ語りかけてくる。あなたはきっと後者の人物だと思う。あなたはきっと様々な場所との対話ができる人物だと思う。そんなあなたはいつかきっとこのラダックにやって来ると思う。そう、いつかきっと・・・。

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