Monday 1 September 2014

35.チクタン村の小麦の収穫と冬のラダックの話。

7月下旬から8月中旬にかけてのチクタン村は、小麦の収穫のシーズン真っ只中にある。黄金色に実り風に揺れる麦の穂たちは、村人の手によって刈り取られ、麦畑の隅に集められ、後は脱穀を待つばかりだ。そんなに古くない昔、殻竿などの脱穀器具で脱穀をしていたが、ラダックの殆どの場所では現在、エンジンを搭載した脱穀機で脱穀をしている。

ある日のとても早い朝、家のおかみさんは、軽快なリズムを奏でるパン職人のように、団子状に練った小麦粉を右手から左手、左手から右手とこぎみ良く受け渡してゆき、一枚の平たい円形状のパンを作ると、タップと呼ばれる暖炉に牛糞と薪をくべ、その頭にパンを次々と載せ、それらをこんがりと焼き上げてゆく。そんな朝にトラクターに牽引された大型の脱穀機が、日干し土煉瓦で作られた壁の一角を壊しながら、小麦の刈り取りが終わったばかりの麦畑に入ってきた。トラクターは脱穀場を確保すると、しっかりと脱穀機の足場を固めて、エンジンを回す。
「ブルン・ブル・ブル・バ・バリ・バリ・バリ・・・」
ひきつった鶏の朝の鳴き声は、たちまち脱穀機の回る音にかき消される。この日ばかりは家族総出で子供たちも学校の休みをもらって家の作業に動員される。さきほど焼き上げたばかりのタキと呼ばれるパンの山は、お茶の時間や昼食時に青空の下で家族とともに食べるのだ。




フィールドに固められて寝かされている小麦の穂の束を一人一人が担ぎ脱穀機まで運ぶ。脱穀機ではその運ばれてきた束を脱穀機の口に次から次へと押し込んでゆく。脱穀機は体を震わせながら籾殻と麦殻を選別してゆき、籾殻は袋に次々と積み込まれ、麦藁は細かく裁断され脱穀機の脇へ山のように積まれる。この麦藁は冬季の家畜の飼料として使われる。そして籾殻は後の行程を経て小麦粉になってゆく。時おりバキバキと不自然な音がするのは、脱穀機に部品が取れてしまい、穀物が機械に詰まってしまったからである。そんな時は脱穀機の持ち主が機械を止め、部品を締め直したり詰まった穀物を取り除いたりする。その間は家族みんなでお茶の休憩だ。朝作りだめしたパンとミルクティを大地に広げる。機械が動いている間は村中に麦藁のダストが舞う。夏の間、いつも戸や窓は開け放たれているのだが、この収穫のシーズンになるとダストが入ってこないように、家のすべての戸や窓が閉ざされることとなる。さてやっと機械も再稼働しだすと、休憩を切り上げ作業に入ってゆく。麦束を脱穀機まで運び、手から手へそれは渡され、それは脱穀機の口へ吸い込まれてゆく。それら一連の行為がフィールドの麦束がなくなるまで根気よく続けられる。すべての麦束が脱穀機の口に吸い込まれると、機械は止まり、その向こう側にはうず高く積まれ細かく裁断された麦藁が、こちら側には麦殻がぎっしり詰まった袋がいくつも並んでいる。さてこれで本格的な休憩に入れそうだ。







チクタン村の中を流れる清流に沿って上流に向かうと、いつしか家並みがなくなる。その狭き谷には夏の木々が広がっていて、そこを歩いてゆくと右手に貯水槽が見えてくる。日がまだ高く空気が暖かい時間のこの貯水槽ではすでに数人の少年が泳いでおり、夏の谷に彼らの歓声が響き渡る。貯水槽の一辺は6、7メートルほどの正方形で、高さは3.5メートルほどの粗末なコンクリート製の容器だ。水深は1.5メートルほどで水は上流からパイプによってこの貯水槽に引き込まれている。引き込み口からは常に豊富な水が滝にように落ちているので、子供たちは全身を石鹸の泡で満たすと、その下で水に打たれながら体を洗う。僕もパンツ姿になり、早速飛び込む。8月と言えどもこの時期は夏の盛りが過ぎ、急速に秋に向かっていて、すでに空気は冷たく締まっているので、当然ヒマラヤの水はとても冷たい。クロールで狭い貯水槽を行って帰って来るだけで体が凍えて、すぐに出ることとなる。でもチクタン村の少年たちは寒さにはすこぶる強いので滞中時間はとても長いが、学校では水泳の授業なんかあるわけはなく、泳ぎは我流なので全員が犬かきになる。きっと世界で一番最初に確立した泳ぎは犬かきであろうと想像できる。それは人がはじめて水に投げ込まれると、きっと本能的に出る泳ぎ方だからだ。犬かきもそうとうな手練れになると水の中を優雅にかきながら進むシェパードのように進むことができる少年もいる。僕は2、3回往復したらすっかり体が冷えてしまったので上がることとした。

季節の変わり目は突然やって来る雷雲がこの乾燥の地に強い風と恵みの雨を連れてくるが、気圧と気温が一気に下がるので、体にも変調をきたしてくる。そして窓からしとしとと降る小雨を眺めていると、頭痛がしてくる。これはスリナガルを出て2日目にチクタン村に到着し、その日の内に水泳をしたのと気候の急激な変化のため、酸素量が少ないこの地で軽い高山病を発症してしまったのだ。1日休めば確実に治るのものだけれど、三千メートルを越える高地に到着したその日に、水泳をするのはやはりお薦めできない。皆さんも、せめて数日たって高度順化してから泳ぐようにしてください。そんな事を考えていると雷鳴が轟き強い風が一瞬吹き荒れたかと思うと、バリバリという空気を裂く音と共に、ゆっくりとポプラの大木が根本から崩れ落ちるのを目撃した。倒木は隣の家に沿って倒れており、少し角度が変わっていたら、まともに家に直撃していたかもしれなかった。そして幸いにも怪我人は出ず、何事もなく済んだみたいだ。村人が集まってきて、このままだと危険なので、すぐに大木の解体と移動の作業が始まった。木はきれいにその場からなくなり、折れ株だけがそこに残った。そしていつしか雷雲は冬の雲の気配を身にまとっていた。

8月も半ばを過ぎるとチクタン村の夜は、すこしばかり寒くなる。毛布が必要になってくる。夏の夜はとおに過ぎ去り、空気がきりっと引き締まり、時に肌を刺してくる。去年チクタン村では9月には早い雪が降り始め、10月にはすでに冬の真っ只中であった。だから8月に冬の気配がしても何の不思議でもない。日本だって数年前に8月の下旬に稚内で雪が降っている。ラダックの冬は確かに寒さがものを言う厳しさがある。でも北海道の冬もラダックの厳しさにプラスしてとてつもない積雪量がある。去年2月のチクタン村はとても寒かったが、雪がほとんど降らず土が見えていた。一方北海道の積雪はものすごかったのを覚えている。家のファシリティの度合いがまったく違うので、現在どちらのほうが厳しいとは一概に言えない。しかしラダックは家の戸を締めきってもいたるところから猛烈な冷気が入ってくる。これはなかなか現在の日本では経験できないことかもしれない。現在の日本の暖房は主に部屋の中を暖める方式だが、ラダックはタップと呼ばれる牛の糞や木切れを燃料にして使うとても小さな暖炉の周りだけを暖める方式だ。しかし昔は日本の北海道のストーブも煙突から煙を排出するロシア式のストーブが主流だったし、家々も今ほど快適ではなく板を打ち付けて作ったようなものが多かったので隙間風は相当のものだったようだ。現代のラダックの家々は昔の北海道で使われていた板張りの炭坑長屋よりもとても立派な作りをしているので、昔の北海道の方が冬の生活は厳しかったと想像できる。

夏のラダックもいいが、オフシーズンの冬のラダックでも観光客がなんとなく来ている。それはラダックの冬こそ美しいからであり、またチャダル・トレッキング(凍ったザンスカール・リバーを行くトレック)などがある冬のラダックを体験してみたいからだ。もちろん冬の星はとてつもなく美しいし、冬のラダックでは現代社会では到底味わうことができない生活を体験できる。

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