2012年9月21日金曜日

1.元祖微笑みの国スリランカ。

飛行機でインド洋上に出ると、空気が変わる事を感じる。それは飛行機の中や外の実体の空気という意味ではなく、何か今まで僕の世界を取り巻いていた少しざらざらとしたものが、少しずつとろけて柔らかくなっていく過程を実感しているという意味でだ。なにやら形容しがたかったインドから今スリランカ上空に飛行機が入ったところで、その感覚は一層深まりそして安らいでいく。飛行機は徐々に機首を下げてコロンボに向っている。そして機内で視聴した映画はマリーゴールド・ホテル。老齢期を迎えたイギリス人たちのインドで繰り広げられるコミカルで悲しくてそして最後に救われる物語だ。その中で「インドはあらがうと押しつぶされるが、飛び込むと向こう岸にたどり着ける」というくだりがあり、結局僕はいつも圧倒され押しつぶされそうで、今年は対岸を全く見る事ができなかったなと呟く。そんな事を考えていると軽い衝撃が体に伝わり、着陸が成功したのだと言う事を知る。降り立つと夕暮れのコロンボの空港は黄昏が空に滲み、夜に浸食されつつある影たちも優しく揺れている。風が心地よいのだ。涼しげな海風はその影たちをも揺らしている。何もかもが違った。こちらから無理に飛び込む必要のない、そしてあらがう必要のない国に来たのだと感じる。

コロンボの空港で一夜を過ごすが、心配は何も無く、物取りの気配もせず、安心してロビーで熟睡ができた事に驚く。コロンボ空港から無料のシャトル便が近くのバスターミナルに誘ってくれた。そこでクルネーガラ行きのバスに乗り換えて、座席の一番前の席へ倒れ込むように座り込む。このバスは少し値段が高いインターなんとかというバスではなく、地元の方々が気楽に足がわりに使っている安いバスなのだが、となりの国のバス事情をずっと体感してきた僕にとっては、とてもとても乗り心地がよく、まるで高級なサロン号に乗っているような心地で、すぐに深い深い眠りに落ちたのだった。一時間ほど過ぎただろうか、バスが急ブレーキをかけ止まり、車内を大きく飛び交う声で僕は目を覚ました。
「!?!?!?」
鞄が窓から落下したような事をみんなが言っている。僕は自分の荷物を確認した。
「一つ、二つ。・・・・??? 一つ足りない」
僕は窓から身を乗り出して、バスの通った後を確認すると、車掌さんが僕の落ちた鞄を持ってニコニコしながらこちらに歩いてくる。運が悪くどういう経緯かわからないが、鞄が窓から落下したのだ。僕は窓より鞄を受け取ると
「ストゥティー」
とお礼を言い、そのノートパソコンが入った鞄の中を早速開けてみた。パソコンは壊れてはいなかった。正常に動くかどうかはケッタラーマ寺に入ってから確認しなければならない。とにかく僕は鞄が紛失せずに手元に戻って来た事でほっとしていた。バスに乗り合わせたスリランカ方々本当にありがとうございます。

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バスは緑のジャングルに描かれた地平線に向ってのびる一本の長い長い道をのんびりと走っている。バナナの木やココナッツの木やジャックフルーツの木や名も知らぬ様々なフルーツが豊満に実っている木が重みで揺れている。街道に並ぶ茅葺きや吹けば飛ぶような瓦葺きの屋根の店先にも、それらフルーツ類が所狭しと並んでいる。時折止まるバスの中にそれらの店先からのフルーツの香りが流れてくる。時折吹くさらさらとした風は、ヤシの葉を揺らせ、僕をゆりかごの眠りに誘う。そして南国の空は青く美しく眩しく輝き、雲は高い高いところを漂っている。たまにジャングルの中に視界が開けたところに出るが、緑のフィールドが彼方のジャングルの端まで広がっていて、目を凝らしてみるとその端の部分に小さな白いお寺が建っているのを発見したりする。ときどき道の下を流れる川は、野性味たっぷりの、栄養たっぷりの、生物のスープのようになっていて、川面にジャングルの影が揺れている。村の中を進むバスの車窓からは、白い服を来た子供たちが、道を歩いて学校に行くのが見えた。バスはますます進んでいく。村を街を草原をジャングルを。ジャングルの密度が低くなり、建物と建物の間隔が徐々に狭くなると、とても大きな岩山が見えて来て、その頂上には白い仏陀像が鎮座している。
「クルネーガラだ」
コロンボを出てバスに揺られて3時間、どうやらクルネーガラの街に入ったようだ。喧騒の街の交差点には時計塔が、午前の陽を浴びて建っている。その後ろの方に岩山がそびえており、それらすべてがクルネーガラの街の象徴的な景観を形作っている。バスのターミナルで僕は下りると、近くのホテル(小さなレストランや茶店の事をホテルと呼ぶのだ)に入ると、さっそく朝食にパンと紅茶を注文した。お盆に山盛りに乗せられたパンがテーブルの上に置かれるのだが、それらをすべて食べる訳ではなく(もちろんすべてを平らげてもいいのだが)、食べたい分だけをそこからチョイスして頂くのだ。紅茶で舌を洗いつつ、パンを食する。バンズと呼ばれているアンパンの中身が入っていないパンがスリランカではポピュラーで、背には粗目砂糖が少しのっかっていて、それは下町の暖かい味がする。紅茶は甘く、何も言わなければ砂糖たっぷりで出てくる。そのあまーい紅茶もまた下町の味なのだ。

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朝食を終えると、バスターミナルよりバスを乗り換えて、街郊外のケッタラーマ寺へ向う。ウヤンダナでバスを降りそこから徒歩またはトゥクトゥクで寺に向う。僕はトゥクトゥクを使って寺に向った。ジャングルの中の細い道を右に左に小さな体躯を振りながらトゥクトゥクは走っていく。ジャングルの中に視界が開け田んぼが見えてくると、その中に一本の細い道が走っており、その先に小さな小さな白いお寺、ケッタラーマ寺が見えて来た。トゥクトゥクを下りて僕は寺の中に入っていく。僕が滞在する宿泊施設の黄色いトロピカルな建物は南国的で、ヤシの実の木々に囲まれている。離れにある部屋もヴィラといった赴くで、まるでお寺の感じはしないのだが、お坊さんや村々の人々の心にはしっかりと仏教の教えが灯っているのだ。スリランカに来て一番感じる事は、人々の笑顔だ。手を合わせて頭を少し横にたおして
「アユールボーワン」
と挨拶されると、その瞬間から村人の笑顔がわっと溢れ出す。タイが観光の宣伝でよく微笑みの国と言われていたり、19世紀には戯曲の中で中国が微笑みの国として扱われているが、ヨーロッパの古い書物を読んでいると、スリランカも昔から微笑みの国と呼ばれているようなのだ。実際僕が持っている1950年出版のフランス本にもスリランカが微笑みの国として紹介されている。スリランカの微笑みは深く、柔らかく、優しく、そして受け取る人の心を包み込むように響いてくるそんな微笑みなのだ。

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