2014年8月3日日曜日

31.空の下のイルファン(後編)。



イルファンとクルスンは月が煌々と照らしている田園風景の中の道を歩いている。虫たちが鳴き合う声だけが聞こえる以外はとても静かな夜だ。二人は途中の大きな木立の下で休む。病院から持ち出して来たお菓子を取り出して二人で分け合う。その時白くて薄汚れている一匹の子犬が用心深げに近づいてきた。
「お前も親なし家なしか。」
そう言うとイルファンはお菓子を分け与えてあげる。子犬は尻尾を振りながら一目散にお菓子にかぶりつく。ささやかな夕食後二人はそこで朝まで眠った。辺りがまだ薄暗い朝靄の中、イルファンは起き上がりクルスンをゆすり起こす。
「朝だ。行こう。」

二人が振り返ると後ろにはあの子犬が尻尾を振って付いてきている。しだいに道からは広大な田園風景が見えなくなってくる。道は徐々に寂しげな山に中に入りつつあるも、小さな村はその途中いたるところにあり、人々が山中でも生活しているのが分かった。そしてイルファンが右手を見ると谷底に山から流れてくる清流が木々の間からちらと見えた。
「泳ごう。」
イルファンがそういうと二人は谷を下り降り、その冷たい川で水浴びをし始めた。子犬も二人の周りで遊んでいる。一ヶ月以上もまともに体を洗っていないのでとても気持ちが良さげだ。服を全て川で洗うとそれらを木の枝に掛け乾かす。イルファンとクルスンは服が乾くまで木陰で眠ったり、再び水に入ったりして過ごす。子犬も遊び疲れて木陰で眠っている。昼前に服も渇いたので、二人は子犬と共に出発する。





イルファンとクルスンが道を歩いていると途中でトラックが一台通りかかる。運転手は二人の横にトラックをつけると、イルファンらに声をかける。
「乗って行くか。」
その太い腕と大きな体を持ったその運転手は頭にターバンを巻いているので、シーク教徒である事がわかる。二人はトラックの荷台に乗り込むと、子犬がクーンと寂しげな声を立てる。
「子犬もいいですか?」
とイルファンが尋ねると、運転手は満面の笑みをたたえて言う。
「もちろん。」
トラックは二人と一匹を乗せて山に分け入っていく。山の針葉樹林はとても美しく、初めてみるスリナガルとは全く違う風景に二人はただただ驚いていた。

トラックの運転手が手で伏せるように合図をする。インド軍がこのエリアを警備している。二人は子犬の頭を押さえながら、荷台にうつ伏になって隠れている。インド軍の警備が途絶えたエリアに入ると運転手は手でもういいぞと合図を送る。そして大声でこう話す。
「この道は真っ直ぐパキスタンに続いている。そしてもうここはパキスタンとの国境の近くだ。だからインド軍の警備も厳重だ。」
しばらくトラックは進むとある村に到着する。
「俺はここでストップだ。今日はもう日が暮れる。山の中、夜はよく冷えるし、暗闇の中を進むのは難しい。お前たちも俺の親戚の家に今日は泊まっていきなさい。」
そう言うと二人を家に招き入れる。その家はとても大きかった。そして出された夕食も二人が今までに見たことも食べたこともない物ばかりだった。
「お前たちはパキスタンに抜けるんだろう。なにも言わなくても俺にはわかる。もし抜けるのならば、明け方の日が昇る前がベストだ。この村の裏の山を駆け上がって、二時間ほど歩けば国境のフェンスにたどり着ける。これはライトだ。持っていくがいい。」
最後に運転手は
「幸運を祈る」
と言い残し寝室に消えていった。
そして二人は生まれて始めて暖かいブランケットに包まれて眠った。



まだ夜中の3時だがイルファンは眼を覚ました。そしてクルスンを揺り起こす。
「クルスン時間だ。行こう。」
家を離れる時、子犬が寂しそうにこちらを見ている。イルファンが
「来い」
と子犬に言う。イルファンとクルスンと子犬は村の裏山の緩やかな斜面を登る。イルファンの手に持った小型のトーチが闇にちらちらと揺れる。山の頂上に出るとそこは広大な台地になっており、一帯は針葉樹の深い森だ。二人と子犬は用心深く森の中を歩き進む。見上げると木々の間から輝く星たちが見える、そんな暗くて静かで美しい森だ。

イルファンとクルスンは木々の間より向こうの様子を伺っている。フェンス沿いに一人の警備兵が歩きながらタバコを吸っている。無線で何か話始めたかと思うと、今吸っていたタバコをかかとで揉み消して、何処かへ向かった。二人は警備兵が確実に視界から消えた事を確認するとゆっくりとフェンスに近づいてみる。フェンスの上には鉄条網が張り巡らされており、とてもそこからは抜けられそうにない。フェンスの下を見てみる。少し穴を掘る。なんとか子供が通れる穴は掘れそうだった。二人で懸命にフェンスの下の穴を掘る。30分ほど過ぎただろうか。なんとか子供一人が通れるほどの穴が掘れたようだ。イルファンが最初にそこを潜る。そして向こう側に抜けるとクルスンの腕を引っ張って、こちら側に妹を引き寄せる。その穴を最後には子犬が通り抜ける。

イルファンとクルスンはとうとうパキスタン側に抜けたのだ。そしてインド側とそう変わらない同じような美しく静かな針葉樹の森をフェンスから遠ざかろうと足早に抜けてゆく。辺りが徐々に明るくなってくる。針葉樹の森が朝もやに包まれてくる時間帯だ。無言だった二人の表情も徐々に明るくなり、クルスンがイルファンを追い抜くと、イルファンもクルスンを追い抜き返す。
「アハハ」
二人は顔を合わせると、なんだかとてもうれしくなってきて、つい笑い声がこぼれてしまう。子犬がイルファンとクルスンの周りを飛び回ったかと思うと二人を通り越してずっと先に走ってゆく。

その時だった。
「ドーン」
という鈍い音と共に二人の上に木切れや破片が落ちてくる。二人の前方で地雷が爆発したのだ。すでにそこに子犬の姿はなかった。その瞬間サーチライトの光が二人を照らし出した。
「動くな。」
二人はショックで凍りついたまま動けない。三人のパキスタン兵がこちらに向かってきた。パキスタン兵は二人を囲むと
「フェンスを抜けてきたのか」
と質問をする。イルファンはただただ頷くだけだった。

二人は軍のジープに乗せられてある施設へ向かった。そこでは軍服を着た女性が出てきて、すぐにシャワーを浴びるように指示がでた。二人はシャワールームに入るとそこから出てくる温水に驚いている。石鹸できれいに体を洗い、シャワールームからでてきたところを出された服を着るようにと指示を受ける。二人はだぶだぶのシャツ着て、ズボンを履き、とてもすっきりとした表情をする。そしてイルファンとクルスンは別室に移動して、そこに並べてある二脚の椅子に座ると、机の向こうの審問官は口元に笑みを浮かべて言った。
「ようこそパキスタンへ。」
審問官はひとつ咳をするとさっそく進める。
「今から質問を始める。全て自分の意思で答えなくてはならない。あなたがたはどんな意思を持ってパキスタンに来たのですか?」
二人はこの質問にどう答えてよいのかわからない。学校に行っていない二人はその質問に答えるだけの学もない。二人は無言のままただうなだれるだけであった。
「なぜインドから抜け出してきたのですか。」
二人は無言でうつむいたままだ。審問官はいろいろな質問を投げ掛けるも全てに無言だ。そして審問官は亡命の意思があることを二人の口から直接聞き出したかったのだが、誘導尋問は亡命の法律に触れるためそれができない。二人にはその質問に答えるだけの知識は持ち合わせておらず、また幼い二人を救えるだけの法律も整備されてなかった。審問官は首を横に振ると二人をインド側に引き渡すように兵隊に指示をした。

イルファンとクルスンの二人はパキスタン軍のジープに再び乗り込むと、パキスタンとインドの国境沿いのゲートに向かった。針葉樹の美しい森をジープは再び抜けてゆく。ゲートで二人はインド側に引き渡され、次はインド軍のジープに乗ってインドに入っていく。ジープの荷台に揺られながら、続いている昨日歩いた道をイルファンとクルスンはただただ眺めている。二人の向かいに座っている軍の若い兵士が尋ねる。
「どこに帰るんだい。」
イルファンは少し考えてからこう答える。
「空の下。」

ジープは砂煙を巻き上げながら、山道を走っている。空は青く晴れ渡り、その下にはスリナガルの古い街が広がっていた。

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