2014年8月3日日曜日

30.空の下のイルファン(前編)。

スリナガルは日曜日にはほとんどの店が閉まるのだが、しかしメインストリートでは、毎週大規模なフリーマーケットが開催される。生活に必要な物は大体出品されているが、中でも衣類が多く、そのほとんどは中古だ。それはパキスタン製だったり、中国製だったり、中東諸国からの物であったりする。そして各ブースを多くの人たちが取り巻き、商品を手にとって品定めをしている。

その人混みの中に混じって歩いている一人の少年が見える。彼の年は十歳ほどで、服は何日も洗っていないようで少々汚く、長らく櫛を通したあともない髪は所々ぴょんと跳ね上がっているところに小さなハンチングを被っている。そんな彼は口笛を吹きながら人だかりの出来ているブースに近づくと、一人のナップサックを背負っている青年に背後から近づく。人々が行き交う揺れに合わせても、彼は青年のナップサックに手を振れつつあたりを入れ、小型のナイフでサクッとそこに切れ込みを入れるのと同時に、すでに彼の手の中には青年のサイフが収まっている。そして仕事が終わると風のように人混みの中に消えてゆく。

ジェラム川の小さな支流のある川辺は葦で覆われており、そこに数多くの掘っ立て小屋が並んでいる。壊れかけた小さな木製の橋の下に壊れかけた小さな木製の掘っ立て小屋が建っている。ジェラム川を真っ赤に染める夕暮れ時、あのスリの少年がその壊れかけた小屋に戻ると、彼の妹が待っていた。
「夕食はアイスクリームとパンに串焼きの肉だ。」
妹はアイスクリームに飛び付くと言う。
「イルファン、シュクリア(ありがとう)、おいしそうなアイスクリームと肉。」
「クルスン、今日は意外な収入が入ったので特別だ。」
オイルランプの回りに集まる虫たちを手で払いのけながら串焼きにかぶりつくとイルファンはそう言った。夕食後、土くれにシートを敷いただけの寝床に入ると二人は眠る。





明け方に遠くの道路に一台の車が止まる音がしたので、イルファンが小屋の隙間から外を覗くと二人のポリスがこちらにやって来るのが見えた。
「クルスン、起きろ。逃げるぞ。」
そう言ってすぐにイルファンとクルスンは小屋の裏手から逃げ出すと、葦藪に隠れながら出きるだけ遠くまで川沿いを歩き続けた。いつしかスリナガルの縁を走る鉄道に出くわし、二人はその止まっている貨物車両の開いてる扉に滑り込む。しばらくして貨物は動きだし、扉の外にはスリナガル郊外の田園風景が広い空の下にどこまでも広がっていた。
「どこ行くの」
クルスンが言う。
「スリナガルでないところならどこでも。」
イルファンが言う。
ポケットから取り出したトフィーを二人で分けると、いつのまにかうとうとと眠る。昼過ぎにイルファンが起きると貨物がまた同じ場所に戻ってきている事に驚く。スリナガルの鉄道は外の街とは連結しておらず、スリナガルの周りをただぐるぐると行き交うだけだったのだ。二人は貨物を降りると再び歩き始めた。

イルファンとクルスンはスリナガルの外に続く道を歩いている。すでに街は姿を消し、貨物の中から見えた田園風景が遥か彼方の山の麓まで続いていた。ある時、小麦粉を練って団子状にして、熱せられた壺の内側にそれらを貼ってゆき、それらが焼けるとロティーのような平ぺったいパンが次々と出来上がってゆくのに出くわす。そんなローカルな店をイルファンが何もない道沿いに見つけ、昨日手に入れたお金で焼きたてのパンを10枚購入する。一枚6ルピーでしめて60ルピーの買い物だ。それを再び未舗装の道を歩きながら二人で食べる。

空がネズミ色に変わり、遠くでは稲光が山の腹を駆け抜けてゆく。するとポツポツと雨が落ち始め、それはいつの間にか堰を伐ったようなとてつもない雨足に変わった。二人はいつの間にかずぶ濡れで、駆け足で割れたコンクリートで覆われたバス停に滑り込む。貧弱な金属で出来た屋根は辛うじて直接雨は当たらないような作りにはなっているが、横からの雨が時おり強い風と共に吹き込んでくる。この時期のスリナガルはモンスーン・シーズンで二日間に一度は強い雨が降ってくる。髪から滴り落ちてくる雨垂れは止まらず、二人は夏ながらもお互い肩を抱き合って震えており、さきほど買ったパンはすっかり水を含んでしまっている。三時間ほど雨は続き、止んだ頃にはすっかり日も暮れていた。バス停の長椅子の上で二人は重なるように眠る。スリナガル郊外の空は北の山の峰から南の山の峰までが星で覆われており、それは天の川と呼ばれているのだが、二人はそんな事はもちろん知らず、ただすやすやと眠るだけである。



朝起きるとクルスンがうなされていた。イルファンが妹の額に手を当てるとすっかり熱を帯びていて、しかも椅子の下にはおう吐の跡があった。イルファンはすぐに妹をおぶると駆け出した。
「誰かこの近くに病院か診療所があるのを知りませんか。」
行き交う村人たちにイルファンは声をかける。すると村人たちが集まってくる。
「どうしたのかね。」人々が口々に尋ねる。
「妹の様子が・・・」
それを見た村人の一人が
「こりゃ大変だ。うちのトラックに乗っていきんしゃい。病院まで運んであげるけん。」
と言うと、二人をトラックの荷台に乗せ、さっそく出発した。借りた毛布でイルファンはクルスンを覆うとトラックに揺られながら
「大丈夫だからなすぐに病院だ。」
と優しく言う。

村の小さな病院に到着すると、受付の看護婦が二人を見て開口一番に言う。
「お金は持ってきているの?」
「お金はあります。」
イルファンは濡れてべちょべちょになったお金をポケットから取り出す。
「こんな濡れたお金はうちで使えないわ。他をあたることね。」
看護婦がそういうと、奥の扉が開き、口元に立派な髭を蓄え、大きな体躯の先生が受け付けに入ってきた。そして二人を見るなり看護婦に指示をした。
「何を言ってるのかね。お金なんか後でいい。早く診療室に入れてあげなさい。かわいそうに。」
そして二人は診療室に入っていく。

診察の結果、クルスンは一晩ここで点滴をうけるため入院することとなった。病院に来るのがもう少し遅れていたらクルスンは大変危険な状態になっていたかもしれないという事だ。そしてイルファンは妹の傍にいる。夜半過ぎクルスンはゆっくりと眼を覚ました。そしてイルファンが言う。
「気分はどうだい。」
「ありがとう。とても調子がいい。」
「クルスンよく聞くんだ。病院の入院費はとても払えそうにない。今からここを抜け出せるか?」
クルスンはコクリとうなずく。


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