2014年5月11日日曜日

3.ストク。


ダンマ・ハウスから続く石垣や土煉瓦で囲まれたプロムナードを僕は歩いている。しばしばみぞれが強い雪に変わる中、歩を進める。ここからはるか彼方の対岸に見えるレーの街に雲の間から力強く真っ直ぐな光が差し込んでいる。そして時おり黄金色にそのヒマラヤの麓は輝く。強い風が吹き、雪がひょうに変わると僕はフードを深く被り、また歩き始める。ストクの村を流れる川にでると、次は川に沿って上流に向かう。振り向くとレーの街は靄の中だ。ひょうが徐々に止み、灰色の雲も時おり白い雲に変わり空は優しい表情を見せ始める。面前の最高峰のストク・カングリの山頂付近の雲が少し流れ、標高6120メートルの名峰の素顔が見えてきた。





ヴィヴェックからこんな話を聞いた。数年前に一人の日本人がダンマ・ハウスにやって来た。その男は齡70を越えていた。男はストク・カングリに登りたいと言う。ヴィヴェックは男のサポートをする事にした。普通なら長くとも一週間とかからずに登る事ができる山だ。男は体が標高にアジャストするのに時間がかかった。ベースキャンプに行く。そしてダンマ・ハウスに戻る。それを数日何度も繰り返した。次に慣れてくると第一ベースキャンプから第二ベースキャンプを数日間何度もいったり来たりする。男の体は悲鳴をあげていた。しかし男は諦めない。何日も何日も過ぎていく。しかし男の体は徐々に標高にアジャストしてきている。星がいつもより美しく輝く夜だった。男は頂上を目指すことを決心する。夜半に最後のベースキャンプを出発する。男はゆっくりだが着実に一歩一歩踏み出しストク・カングリの斜面を登っていく。徐々に朝日が男の背を照らす。普通ならもうとっくに頂上にたどり着いている時間だ。だがまだ先は長い。男は我慢強くゆっくりと、しかししっかりとした足取りで登っていく。男が最後の一歩を頂上に記したときには、すでに太陽は傾きかけていた。その男がダンマ・ハウスを出発して時はすでに一ヶ月を過ぎようとしていた。



僕は川沿いを歩いている。前方からゾォを連れ添ったおばさんがやって来た。ゾォというのは毛足の長いヤクと牛を掛け合わせた動物で、ヤクより小さく牛より大きい。ゾォは非力なおばさんに逆らうことなく忠誠している。体は大きいが気はとても優しく、とてものんびりとした性格で、犬に吠えられても特に意に介さず草を枝を食べ続けるほどだ。僕は何をしているのかと聞くとおばさんはゾォの散歩をしているのだと答える。そう言うとゾォの手綱をしっかり握り、周囲を照らすほどの笑顔で僕の前を通り過ぎていった。





小さな小さな橋を渡ると僕は川の対岸に出た。そして今度は川沿いを下流に向かって歩き始める。僕は川をそれて脇道へと入って行く。細い道の両側は古い土煉瓦でできており、一部崩れている場所もあった。ストクの上流部分はすり鉢状になっていて、僕はすり鉢の縁に向かって歩いていることになる。目の前が少し開けてきたかと思うと、古い古いチョルテンの大なり小なりが道の片側へへばりついている。人の気配はせず、時々風が細い道を駆け抜ける音がするだけで、とても静かだった。チョルテン群は目の前にあるけれど、なぜだか宗教的な感じはせず、気の遠くなるほどの長い年月を経て、風によって削られてできた奇跡の造形物をただ眺めているだけの感覚がした。それはきっとあまりにも密接な自然が人の歴史の気配を消しているからだと思った。その瞬間小さな影が古き造形物に投げ掛けられた。ふと空を見上げると名も知らない一羽の鳥が弧を描いて飛んでいた。



再び僕は川沿いを歩いている。先程のチョルテン群を離れて、両手にいっぱいのドライ杏を食べられるほどの時間を歩くと、ストク・ゴンパと書かれた看板が見えてくる。ゴンパのある方向へまた脇道を入って行く。そしてすぐに目の前にストクのゴンパが見えてくる。小さないくつかの白い建物や大きなマニ車などが一ヶ所に固まって、ストク・ゴンパ群の景色を形作っている。ストクはパレスが有名なので、ゴンパにまで足を向ける人は少ない。しかし僕にとってこの小さなゴンパ群は、まるでひなびた温泉地に来てる感じがしてとても居心地がいい。



ストク・ゴンパを後にして、再び歩き始める。ストク・パレスの存在感はとても大きなもので、すぐに目に飛び込んでくる。レーの街をはるか後ろにして浮かぶその姿は、まるで浮遊する宮殿である。もっと近づういてみる。その大きさにはいつも驚かさせられている自分がいる。ストク・パレスが今この瞬間美しいと思える由縁は、パレスを囲む閑静で美しいストクの村があるからなのだと思う。村はいつも美しくあり、だから王宮もいつまでも美しくあり続けられる。パレスに足を踏み入れるころ、すでに雲は大きく流されて、青く濃い空が見え始めていた。少し黄色掛かった王宮の肌は、そんな空に眩しいほど映えていた。王宮から望むストクの村はやはり美しく、その背に広がるヒマラヤの山麓が狂おしいほどの景観に花を添えている。







その夜ダンマ・ハウスから見えた星空がいつもよりきれいに思えた。空の中に星があるのではなく、星の中に空があるように感じた。錯覚かもしれないので、僕はカメラでちょっと撮ってみた。この夜空が美しいのか美しくないのか比べる術がない。しかしこの瞬間、確かに僕はそれがとても美しいものに感じたという事実だけはそこにあった。そしてそれがすべてであった。









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