2014年1月14日火曜日

8.チクタン城に出会う。


朝の羊や山羊たちを山に追いやる仕事も一段落。その後、朝食に舌鼓を打つのだが、サフラン・ライスにヨーグルトが出てきた。作り立てのヨーグルトをサフランライスの上にかけて食すのだ。日本ではお米の上にヨーグルトをかけて食べる事はほとんどしないだろう。インドではカレーとヨーグルトを混ぜて出される料理には良く出会う。しかしこのご飯に直接ヨーグルトをかけて食べる料理はインドと言うよりも、イスラム圏や東欧圏のこのインドから西方の国々に多いと言われている。最初はこの慣れない食べ物をどう扱おうかと四苦八苦した事も覚えている。不思議なものでそんな事は、いつの間にか時間に飲み込まれて忘れている自分がいる。ご飯にヨーグルトをかけて、時に手で混ぜながら食べていく。ヨーグルトの風味とご飯の食感が、不思議な滋味をつくりだしていく。多くの国ではご飯と乳製品の関係はとてもとても深い。もちろんちょっと昔まで、この地域では、小麦粉が主食でご飯などなかったので、これは近年、外から入ってきた文化なのだが、日本ではなかなか味わう事ができないスタイルなので、大変興味深かった。ある日のとても寒い朝、突然の気温の低下から、風邪を引いたとき、日本ではおかゆがでてくるが、ここチクタンというよりも、きっとインドから西側の国では、お米をたっぷりの牛乳で炊いたミルク粥が出てくる。そしてくらくらする頭をふらふらと揺すりながらそれをすすると、お腹は優しさで満たされ、そして体も透き通る空に投げ出されたように癒されていくのだ。

chiktan

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朝食を終え、窓の外を見ると空は青で浸されている。のは毎日の事なのだが、今年初めてのチクタン城に行ってみる事にする。ラダック・チクタンは城でもつと言っても過言でないほどにラダックの歴史上、有名な城のはずなのに、世界の社会の中ではとても知名度が低いのだ。僕自身もこんな城がある事は、六年前のレーの街で初めて知った。部屋の窓からはそんなチクタン城の頭が手前のポプラの木の向こうにちらと見えている。部屋を抜出し、僕は水が澄むカンジ・ナラの川を渡ると、右手にカンジ・ナラ、左手にチクタンの台地プラタンとヒマラヤの谷に注ぐ太陽を感じながらのんびりと歩く。

10分ほど歩くと右手の川沿いに祖末な簡易テントを張って生活をしているネパールからの出稼ぎ労働者たちが見え、その回りで彼らの子供たちが飛んだり跳ねたりしながら遊んでいる。確かに彼らは貧しいし、ヒンズー教的にみるとカーストが低い人たちだ。だからと言って彼らの本質は貧しいのか?それは違う。彼らはとても豊かな心を持っている民族の一つだ。一年の夏から秋にかけては出稼ぎでインド・ヒマラヤに来て、冬期が来ると仕事を求めて南に移動するか、ネパールに戻るのだ。そんな生活は一生続くのだが、それはヒマラヤのジプシーと言えるべき質素な生活の文化であり、心は近代社会で生きる人々よりもずっとずっと自由だ。そんな彼らはこのヒマラヤ・ラダックでも自由であり続ける。パウロ・コエーリョというブラジルの作家がこんな事を書いていた事を思い出す。”私たちは地に根を張ろうとしているが、彼らはどこでも自由に飛べるのだ。”

そしてしばらくして目の前を見るとヒマラヤの岩山の頂きにチクタン城が見えてくる。その姿はヒマラヤに咲く一輪のユリのようだ。それも栽培種ではなく厳しい自然にしがみついている野ユリだ。またはヒマラヤの断崖に寝そべる雪豹のようなものだ。アーネスト・ヘミングウェイがキリマンジャロの雪の中で頂上付近で息絶えた一匹の豹の事を語っているが、ここヒマラヤのラダックでも標高が高い場所はかっこうの雪豹の生活圏となる。いつだって豹は高みを目指すのだ。そしてキリマンジャロの頂上付近で静かに眠る豹と同様、ラダックの雪豹もヒマラヤの山間で静かに一生を終える。

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僕はチクタン城下の村を歩いて、村の裏側に広がる田んぼのあぜ道に入って行く。何故あぜ道に入って行くのかだって?ここから見るチクタン城が一番美しいと思うし、実際そうなんだ。いろんな方角からこの城を眺めてみたが、やはりこの田んぼのあぜ道からの城を越える場所は見つからなかった。ここはとても美しくチクタン城を眺められる特別な場所だと思っている。城と静かに対話が出来る場所なのだ。目をつぶって肌に心地よい風と瞼にヒマラヤの日差しを感じつつうとうとしながら、時の記憶の谷へ深く深く落ちて行くと、そこにぼんやりとチクタン城が現れ、徐々に空に輪郭を強く浮かび上がらせていく。それは今のように朽ち果てた城ではなく、まさに完成間近の城のようだった。岩山の中腹で労働者たちに大きく勇ましい声で指示を出している口ひげを蓄えて、右胸に青いステッチの刺繍が入ったボロ着をまとっている屈強な体躯の男は、名工シンカン・チャンダンだろうか?岩場の下より仰ぎ見ている馬にまたがって従者を従えているのは、きっとチクタン王のマリクだろう。そしてマリクがこちらに気がつきゆっくりと振り向くと、僕と目が合う。何かを叫んでいるが、何を言っているのか皆目検討がつかない。横にいる従者が弓矢をこちらに向って引こうとしている。弓より矢が放たれたところで僕は草むらの中から飛び起きた。ビマラヤン・ビー(ヒマラヤ蜂)が忙しなく頭の上を飛んでいた。

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次にチクタン城が素敵に見える場所はストゥーパの脇から眺め見るチクタン城だ。ここチクタンはムスリムの地域だ。何故そこに仏舎利があるのか?ムスリムに改宗する前、チクタンの民は全て厳格な仏教徒だったのだ。チクタンには未だ仏教徒が一家族だけ住んでおり、その家はゴンパとなっている。中はとても質素な作りで、しかし先祖代々、仏教徒として守り抜いたのは本当に頭が下がる思いだ。またチクタン城を眺め見るストゥーパを右に折れて山間をもっと深く入って行くと、よくぞこんな奥地に集落がと驚くべき場所にコクショー村がある。ダルド系の仏教徒の村だったが、現在はムスリムと仏教徒が半分半分といったところだ。ダルド系はアレキサンダー大王が昔兵を従えてヒマラヤに分け入った末裔とも言われている。時は紀元前320年代マケドニアの王、アレキサンドロスは遥か東方に大遠征をしかけ、そこで小国を次々と手中におさめていく。そしてインダス川の支流を渡る時にいくつもの戦闘が起こったが、ペルシャを攻め落とした時のように財宝がある訳でもなく、兵士の疲労と不満も頂点に達し、アレキサンドロスは東征をあきらめる事となった。その後、南下してインドのパンジャビに辿り着くも、そこから一気に中央アジアのラダックに駆け上ったのか上らなかったのか、また彼らの末裔の足跡の詳細も定かではない。しかし明らかにこのコクショーの民の顔立ちは、周りのラダッキやプリキーたちと異なる青色の瞳に高い鷲鼻を持つ民族だ。世界中の誰も注意を払う事のないこの伝説の民は、今やヒマラヤの奥地にひっそりと根付く野ユリとなった。

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