Sunday 28 October 2012

6.岩山にある小さなお寺。

トゥクトゥクの運転手の家での昼食に招待された。ケッタラーマ寺から一度クルネーガラの街に出て、街の外れにある家に向うのだがわりと遠い。クルネーガラの街を抜けると、放射状に街より出て行く道の中の一本を郊外に向けて走り出す。数分も走るとクルネーガラ郊外はすぐにジャングルに包まれる。その森はどこまでも深くて広く、そして濃い緑の大地は地平線をとび越えて海まで泳いでいる。時折ジャングルの森の木々の間より、遠くに大きな大きな岩山が見え、お寺が岩の影に建っているらしいのだが、トゥクトゥクからはなかなか垣間みるのは難しい。道に斜めに鉄道が横切っている。踏切近くの鉄道駅には人がぱらぱらと到着の遅れた汽車を待っているが、それはいら立っているというよりも毎日顔を洗うような当たり前の出来事なので、どこかの国のように駅員に詰め寄る人は居らず、のんびりとした南国の空気だけがココヤシに囲まれた駅の中に漂っていた。鉄道を通り過ぎるとジャングルはなだらかな丘陵に沿って茂っており、道沿いには小さな小さな商店が並ぶも、人より自然の気配のほうが濃い。幹線道路からジャングルの中へ続く小径に入っていく。ココヤシやバナナの木が立ち並び、風で揺れるたびに葉っぱの隙間から太陽の光が大地に差し込んでくる。

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ココヤシの林の中にトゥクトゥクの運転手の家はあった。家の軒先に滑り込んだトゥクトゥクからは、大きな体躯を揺らしながら運転手が降り、玄関先で出迎えた大柄な母親と、満面の笑みで抱擁をする。そして家の中からは5、6人の家族が出て来て次々と運転手と抱擁を交わし、僕もその家族たちに挨拶をすると、さっそく居間に通された。居間は広く、藤の家具たちがのびのびとその南国の部屋に溶け込んでおり、壁には色鮮やかな抽象画が揺れていた。部屋の窓からはクリケット遊びを途中で放り投げた少年たちが、目をキラキラさせて、窓枠に沿ってコの字を描きながら縦に横にと顔を覗かせて、外国人である僕を興味深気に観察していた。僕の足がときおり何かにあたるのを運転手が気づき、にこにこしながら足下に転がっている胴長の両面太鼓を拾い上げると、それを膝の上にのせたたき始める。
「つっ・たたた・たっつ・たたーん・たたつっ・たっつ・たたたた・つたたたーん」
「つっ・たたた・たっつ・たたーん・たたつっ・たっつ・たたたた・つたたたーん」
優しい中にもときどき力強く鳴く太鼓は、5本の指と掌とその腹をぴんと張った皮の上で踊らせると、そこから濃霧のように広がる変則的なリズムが空間を震わせ、僕の心をも震わせた。
運転手はおもむろに太鼓を僕に渡すと何かを言った。
「たたいてみ」
きっとそんな意味だと思う。静寂に包まれた室内で、僕は咳払いを一つすると、背筋に緊張が走るのを感じた。
「つったん・つたたん」「つったん・つたたん」「つったん・つたたん」
単調でのらりくらりと足をひきずるようなリズムが室内を這いずり回る。そのリズムが一分間という短い時間を四苦八苦しながら埋めると僕は手を止めた。運転手はにっこり破顔すると僕の肩を大きく二回たたいた。言葉は分からないが良くやったとその大きな掌は語っていた。

その後、溶き卵を焼いた皮で甘いものを包んだスイーツと紅茶が出て来た。そのお菓子はもちろん日本では味わう事ができない不思議な味で、あまーいじゃじゃ馬が口の中で暴れ回っているそんな感じだ。紅茶でそのじゃじゃ馬を鎮め鎮めしながら、その黄色いスイーツを平らげる。そしてしばらくするとテーブルの上に次々と料理が運ばれてくる。色彩豊かなその料理たちは長い長いテーブルの上に並べられて、バイキングの様相を濃くしている。実際のところスリランカの食事はテーブルの上に並べられた料理を好きな分だけとっていくという食べ方が多く、その中にはフルーツやスイーツもあり、毎日がビュッフェで頂くバイキングのようである。大皿にお米と様々なおかずを盛ってゆくとカレーと言う名のどんぶりが出来上がる。それらをさっそく平らげると、僕と運転手は家を後にした。

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ここからトゥクトゥクで20分ほどのところに小さなお寺があるという。ジャングルの中のプロムナードを進んでいくと、森の中の遠方に岩山浮かび上がっているのが見えて来た。ジャングルの中に突如として現れる岩山は、スリランカではよくある光景で、鳥の目で見るとさながら濃緑の中の無数に点在する小さなエアーズ・ロックのように見えるだろう。トゥクトゥクは岩山の腹を縫うように続く道を上って行くが、傾斜がきつくなるとそこで止まり、僕たちは徒歩で上って行く。目の前に岩山の頂上が広がると、そこには午後の怪しい曇った空の下に根を生やしたように小さな小さなお寺が建っていた。ここのお寺の僧侶に、本堂より離れたところに建っている宿舎に案内されて、椅子に座りお寺の話を少し聞く。しばらくすると、大皿に盛られた橙色が眩しいパパイヤが出て来た。この大きなパパイヤ一個分を僕は端から順番に平らげていく。この種の果物の一個分は日本産のスイカほどの大きさがあり、いつも皿の半分もいかないうちにお腹が一杯になるのだが、そんなこんなで実践しているのは食べる時にいろんな話をしながらとにかくゆっくりゆっくり食べる事、そうすればいつか皿の上の物は無くなっている。そして大切なのはかかさず運動をする事だ。食べるだけならますます体は大きくなってしまう。動ける時はとにかく体を動かす。留まるは山のごとしというのは体に毒なのだ。その後、僕たちは僧侶に案内されて岩に表面にしがみつくように建っている本堂に向った。本堂は岩の表面を洗うような風が吹けば、飛ばされてしまいそうなほど小さく、大きな鍵で扉を開けると、そこには釈迦像が優しく鎮座していた。元祖微笑みの国はお釈迦様も微笑んでいる。そして村の人たちは毎日毎日この小さなお堂に足を向け、家族の幸せや平静な世を願うのだ。スリランカの人々の深し笑みの源は、いろいろなところに転がっていて、仏陀の微笑みもそのうちの一つだ。世界の良心がスリランカに凝縮しているような錯覚に陥るのは、人々が厳しい時代を歩んで来た後、やっと見つけた平和な時代を心から祝福している島人の内に潜む穏やかな気持ちが開花しているからだと思う。それはクリスチャンもムスリムもみな同じ思いでいるような気がする。

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