Thursday 21 April 2011

9.アポ爺と行くチクタン城とハグニス村の話。

 チクタン村にはアポ・アリという村で一番長生きの長老が住んでいる。アポ爺はいつも顔をくしゃくしゃにして笑い、しっかりした足取りで歌い踊り、村一番の弓名人でもある。今日はアポ爺とチクタン城またの名をラジー・カルに向かう。

 ラジー・カルはチクタン村から10分ほど歩いたところにある岩山にそびえ立つパレスの名前だ。岩山を見上げるとその頂上に咲き誇るようにラジー・カルが立っている。アポ爺は年齢を感じさせない軽快さでその岩山を登って行く。僕はその後ろ姿に着いて行く。

 浮き石に足を何度もとられつつ頂上に到着するなり振り返ると眼下には美しいチクタンエリアの村並みが広がる。天気はあまり良くなかったが景色のよさがそれをかき消してくれた。雪がまってきた。そんな事はおかまいなしにアポ爺は岩山の頂上でラジー・カルを目の前に歌い踊り始める。

 雪がちらつく中、アポ爺は伸びのよい声を空に振動させ、その伝統的なコットンの古い衣装を風になびかせながら30分ほど踊った。アポ爺は座り込むとラジー・カルの歴史を朴訥に話だした。詳細は掴めなかったが、だいたいこんな感じだ。

 ラジー・カルは最初は別の場所にあったが完成したとたんに崩れ落ちたという話だ。そして今の場所に建てられた。信じられない事はあのとてつもない場所に完成まで一年しかかからなかった事だ。そしてアポ爺とラジー・カルを後にした。

ladakh


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ハグニス村に向かう。ハグニス村は去年の洪水でこのエリア最大の被害を受けた場所だ。村にはいると川に沿って建てられた家はきれいに流されてなにも残っていない。大きな岩やら大木やらがごろごろ転がっており、洪水の破壊力を物語っていた。この村は洪水後、政府からの援助をまったく受けていないのだ。

 カルギルにある非政府組織の援助で壊れた学校の代わりに仮設テントの補助と少数のツーリストから仮設のベニアでできた小さなシェルターの申し出があったぐらいだ。仮設の学校に顔を出してみると、去年の洪水はどこにいったのやら、子供たちはすごく元気だった。

 日本では青空学級は震災の時くらいにしか開催されないが、この地域では普段から青空学級が開かれているので、子供たちはグランドの上での授業はまったく気にしていないようだった。しかしながらこれだけの被害を僕の小さなNGOではとても救済しきれないので、どこかのNGOが少しでも目を向けてくれる事を僕は望むばかりだ。

 ボランティアもどんどんこのエリアに入ってきて欲しい。圧倒的に人員と資金がたりないのだ。ハグニス村の上流にあるマスジドはみごとに破壊されていて、家を失った人々は、夜には残った家や親戚の家などに身をよせ、昼間は何も無い土の上そして太陽の下で生活をしている。

 レーの街に国際的なNGOの援助はほとんど行ってしまって、この地域にNGOが入ってこない理由はムスリム圏である事が一番大きな理由だと思う。ムスリム圏であるがゆえに観光客もNGOも入ってこない。ムスリム圏であるがゆえにニュースとしてとりあげられない。ムスリム圏であるがゆえにいろいろな弊害が起こるのだ。

 それはとても悲しい事だと思う。神は平等には救ってくれないのだ。この村を離れる時、一人の老人が泣いていた。もう二度とこないかもしれないと思ったのだろう。

 そのしわくちゃの手はなかなか僕の手を離そうとしなかった。手が離れると、老人はいつまでも泣いていた。そのかわりに絶望的な日常が永遠に続くかもしれないと思う恐怖が老人を離さないでいた。

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