レーの街から車で30分ほど行った場所、標高6153mのストク・カングリから伸びる広大な千畳敷の大地がインダス川へと広がるところにある、静かで心休まるストクという名の村を僕は歩いている。そこで僕はラダックで生活する日本人女性が経営するゲストハウス『にゃむしゃんの館』に行ってみたが、緑輝く夏期シーズンもとっくに終わりを告げ、シーズン・オフの気配が色濃くストクにも漂っており、やはりゲストハウスには誰もいなかった。
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Thursday, 10 April 2014
Saturday, 1 March 2014
11.世界中のアレグザンダー・スーパートランプたちへ。
"Initially you're overwhelmed. But gradually you realize it's like a wave. Resist, and you'll be knocked over. Dive into it, and you'll swim out the other side."
きっと日本語ではこんな感じだ。
”インドでは始めは圧倒される。しかし徐々にそれが大きな波のようだと感じて、抗おうとするが、あなたはすぐに引倒されるだろう。そう言う時は飛び込むんだ。そして身を任せればいつかは対岸に辿り着ける。” 映画『The Best Exotic Marigold Hotel (邦題)マリー・ゴールドホテルで会いましょう』で砂埃と喧騒のジャイプール街をバックに、インドについてこう描写しているシーンがある。
そして映画の中でこんな言葉も出てくる。
”Everything will be all right in the end... if it's not all right then it's not yet the end.”
きっと最後にはすべてうまくいく。もしあなたがいまだ困難な状況にあるのであれば、それは最後ではなく、まだ道半ばという事なのだ。
Thursday, 20 February 2014
10.チクタン村のある一日。
大自然と共存共栄している村の生活は、当初想像していた時よりもずっと快適で、電気やガスや水道の事を思い出す事はとても少なく、それはあきらめではなく、その生活に大変喜びを感じている。とても嬉しいのだ。哲学とか、何もかも語り尽くされている本とか、宗教とか、それらの知の淵より天を仰ぎ見た時のような、もっともっと深く高くそして静かに躍動している自然そして人たちの営みががそこにはある。僕にとっても、いつしか冒険は日常に変わり、歓喜は心地よい倦怠に変わる。
朝の興味深い作業が始まる。ラダック・チクタン村の家々のトイレはだいたい二層になっていて、二階部分がトイレのスペース、一階部分が汚物が溜まる場所だ。二階部分の用を足すための穴の周りには、土が盛られていて、用を足したらスコップを使い土を穴に落としていく。すると一階部分の汚物は土が被さった状態になり、時々一階に行き、その汚物と土を混ぜ合わせる。時間が経つと一階部分の汚物と土は堆肥に変わっていくのだ。また二階部分に置いておく土は、牛小屋で使われている土を運んで二階のトイレスペースに置いておくのだ。と言う事は、その土自体すでに、牛の排泄物が混ざっている栄養たっぷりの堆肥という事となる。
今日はその堆肥を一階部分から、畑に運ぶ作業をするのだ。その作業をするのは一般的に全て女性だ。僕はそのグループとともに堆肥を運ぶ。僕を含めた女性たちの背中には、背負った籠がある。この籠もまた手作りの籠だ。そこに堆肥が穴からもれないように、籠の内側にふくろをかけたり、丈夫な布をかけたりする。この籠自体はいろいろな用途に使われる。堆肥運びから、様々な農作業、時には赤ん坊のゆりかごになる。
朝の興味深い作業が始まる。ラダック・チクタン村の家々のトイレはだいたい二層になっていて、二階部分がトイレのスペース、一階部分が汚物が溜まる場所だ。二階部分の用を足すための穴の周りには、土が盛られていて、用を足したらスコップを使い土を穴に落としていく。すると一階部分の汚物は土が被さった状態になり、時々一階に行き、その汚物と土を混ぜ合わせる。時間が経つと一階部分の汚物と土は堆肥に変わっていくのだ。また二階部分に置いておく土は、牛小屋で使われている土を運んで二階のトイレスペースに置いておくのだ。と言う事は、その土自体すでに、牛の排泄物が混ざっている栄養たっぷりの堆肥という事となる。
今日はその堆肥を一階部分から、畑に運ぶ作業をするのだ。その作業をするのは一般的に全て女性だ。僕はそのグループとともに堆肥を運ぶ。僕を含めた女性たちの背中には、背負った籠がある。この籠もまた手作りの籠だ。そこに堆肥が穴からもれないように、籠の内側にふくろをかけたり、丈夫な布をかけたりする。この籠自体はいろいろな用途に使われる。堆肥運びから、様々な農作業、時には赤ん坊のゆりかごになる。
Tuesday, 21 January 2014
9.チクタンを歩く。
チクタン村・ズガン地区の中心を流れる清流チュルングサに沿って少し歩く。ヒマラヤの雪解け水が上流から来る時に小さな流れとなって作られたのがチュルングサで、この清らかな小川を中心にして左右にすり鉢状に村は広がっている。その左右はやはり岩山になっていて、このズガン地区も他のチクタン村の地区と同様に、高いのところの家並みは岩山にへばりつくように広がっている。そんなチュルングサを上流の村の端まで上っていき、チュルングサと別れて右に折れ、岩山側にへばりつく家々の間の細くて不思議な感覚の路地を進んでいく。そして突き当たりの家を今度は左に折れるといつの間にか家並みは無くなり、花で囲まれた細い道が続いているのが分かる。そしてその花の道を通り抜けると、大きく一気に視界は開け、チクタン村の裏庭とでも言おうか、ヒマラヤの日光に照らされた緑の絨毯が広がっている美しい場所に出る。そしてその絨毯の中にぽつんと一つの崩れた遺跡が堂々としているが、どこか控えめな感じで鎮座している。壁しか残っていないその遺跡はリンチェン・サンポの建てたゴンパだと言われている。このエリアでのリンチェン・サンポによる仏教寺院はワカとチクタンにゴンパが建てられている。またムルベクの仏石像もリンチェン・サンポによるものだと伝えられている。イスラム教が入ってくる前までは、このチクタン村が仏教徒の村だった確かな痕跡だ。チクタン村の文化の中にはイスラム教以前から風習や民話も数多く残っており、その一つに山の神の話がある。それは昔々にチクタンの中心を流れるチュルングサに沿って、神と共に2人の女の子が山に登る話がある。そしてその女の子たちは二つの大きな岩に姿を変えられてしまったのだ。この岩はチクタンの裏山をチュルングサに沿って上流に登って行くと今でも見つける事が出来る。それは純粋なイスラム以前の民話だ。
Tuesday, 14 January 2014
8.チクタン城に出会う。
朝の羊や山羊たちを山に追いやる仕事も一段落。その後、朝食に舌鼓を打つのだが、サフラン・ライスにヨーグルトが出てきた。作り立てのヨーグルトをサフランライスの上にかけて食すのだ。日本ではお米の上にヨーグルトをかけて食べる事はほとんどしないだろう。インドではカレーとヨーグルトを混ぜて出される料理には良く出会う。しかしこのご飯に直接ヨーグルトをかけて食べる料理はインドと言うよりも、イスラム圏や東欧圏のこのインドから西方の国々に多いと言われている。最初はこの慣れない食べ物をどう扱おうかと四苦八苦した事も覚えている。不思議なものでそんな事は、いつの間にか時間に飲み込まれて忘れている自分がいる。ご飯にヨーグルトをかけて、時に手で混ぜながら食べていく。ヨーグルトの風味とご飯の食感が、不思議な滋味をつくりだしていく。多くの国ではご飯と乳製品の関係はとてもとても深い。もちろんちょっと昔まで、この地域では、小麦粉が主食でご飯などなかったので、これは近年、外から入ってきた文化なのだが、日本ではなかなか味わう事ができないスタイルなので、大変興味深かった。ある日のとても寒い朝、突然の気温の低下から、風邪を引いたとき、日本ではおかゆがでてくるが、ここチクタンというよりも、きっとインドから西側の国では、お米をたっぷりの牛乳で炊いたミルク粥が出てくる。そしてくらくらする頭をふらふらと揺すりながらそれをすすると、お腹は優しさで満たされ、そして体も透き通る空に投げ出されたように癒されていくのだ。
朝食を終え、窓の外を見ると空は青で浸されている。のは毎日の事なのだが、今年初めてのチクタン城に行ってみる事にする。ラダック・チクタンは城でもつと言っても過言でないほどにラダックの歴史上、有名な城のはずなのに、世界の社会の中ではとても知名度が低いのだ。僕自身もこんな城がある事は、六年前のレーの街で初めて知った。部屋の窓からはそんなチクタン城の頭が手前のポプラの木の向こうにちらと見えている。部屋を抜出し、僕は水が澄むカンジ・ナラの川を渡ると、右手にカンジ・ナラ、左手にチクタンの台地プラタンとヒマラヤの谷に注ぐ太陽を感じながらのんびりと歩く。
10分ほど歩くと右手の川沿いに祖末な簡易テントを張って生活をしているネパールからの出稼ぎ労働者たちが見え、その回りで彼らの子供たちが飛んだり跳ねたりしながら遊んでいる。確かに彼らは貧しいし、ヒンズー教的にみるとカーストが低い人たちだ。だからと言って彼らの本質は貧しいのか?それは違う。彼らはとても豊かな心を持っている民族の一つだ。一年の夏から秋にかけては出稼ぎでインド・ヒマラヤに来て、冬期が来ると仕事を求めて南に移動するか、ネパールに戻るのだ。そんな生活は一生続くのだが、それはヒマラヤのジプシーと言えるべき質素な生活の文化であり、心は近代社会で生きる人々よりもずっとずっと自由だ。そんな彼らはこのヒマラヤ・ラダックでも自由であり続ける。パウロ・コエーリョというブラジルの作家がこんな事を書いていた事を思い出す。”私たちは地に根を張ろうとしているが、彼らはどこでも自由に飛べるのだ。”
そしてしばらくして目の前を見るとヒマラヤの岩山の頂きにチクタン城が見えてくる。その姿はヒマラヤに咲く一輪のユリのようだ。それも栽培種ではなく厳しい自然にしがみついている野ユリだ。またはヒマラヤの断崖に寝そべる雪豹のようなものだ。アーネスト・ヘミングウェイがキリマンジャロの雪の中で頂上付近で息絶えた一匹の豹の事を語っているが、ここヒマラヤのラダックでも標高が高い場所はかっこうの雪豹の生活圏となる。いつだって豹は高みを目指すのだ。そしてキリマンジャロの頂上付近で静かに眠る豹と同様、ラダックの雪豹もヒマラヤの山間で静かに一生を終える。
僕はチクタン城下の村を歩いて、村の裏側に広がる田んぼのあぜ道に入って行く。何故あぜ道に入って行くのかだって?ここから見るチクタン城が一番美しいと思うし、実際そうなんだ。いろんな方角からこの城を眺めてみたが、やはりこの田んぼのあぜ道からの城を越える場所は見つからなかった。ここはとても美しくチクタン城を眺められる特別な場所だと思っている。城と静かに対話が出来る場所なのだ。目をつぶって肌に心地よい風と瞼にヒマラヤの日差しを感じつつうとうとしながら、時の記憶の谷へ深く深く落ちて行くと、そこにぼんやりとチクタン城が現れ、徐々に空に輪郭を強く浮かび上がらせていく。それは今のように朽ち果てた城ではなく、まさに完成間近の城のようだった。岩山の中腹で労働者たちに大きく勇ましい声で指示を出している口ひげを蓄えて、右胸に青いステッチの刺繍が入ったボロ着をまとっている屈強な体躯の男は、名工シンカン・チャンダンだろうか?岩場の下より仰ぎ見ている馬にまたがって従者を従えているのは、きっとチクタン王のマリクだろう。そしてマリクがこちらに気がつきゆっくりと振り向くと、僕と目が合う。何かを叫んでいるが、何を言っているのか皆目検討がつかない。横にいる従者が弓矢をこちらに向って引こうとしている。弓より矢が放たれたところで僕は草むらの中から飛び起きた。ビマラヤン・ビー(ヒマラヤ蜂)が忙しなく頭の上を飛んでいた。
次にチクタン城が素敵に見える場所はストゥーパの脇から眺め見るチクタン城だ。ここチクタンはムスリムの地域だ。何故そこに仏舎利があるのか?ムスリムに改宗する前、チクタンの民は全て厳格な仏教徒だったのだ。チクタンには未だ仏教徒が一家族だけ住んでおり、その家はゴンパとなっている。中はとても質素な作りで、しかし先祖代々、仏教徒として守り抜いたのは本当に頭が下がる思いだ。またチクタン城を眺め見るストゥーパを右に折れて山間をもっと深く入って行くと、よくぞこんな奥地に集落がと驚くべき場所にコクショー村がある。ダルド系の仏教徒の村だったが、現在はムスリムと仏教徒が半分半分といったところだ。ダルド系はアレキサンダー大王が昔兵を従えてヒマラヤに分け入った末裔とも言われている。時は紀元前320年代マケドニアの王、アレキサンドロスは遥か東方に大遠征をしかけ、そこで小国を次々と手中におさめていく。そしてインダス川の支流を渡る時にいくつもの戦闘が起こったが、ペルシャを攻め落とした時のように財宝がある訳でもなく、兵士の疲労と不満も頂点に達し、アレキサンドロスは東征をあきらめる事となった。その後、南下してインドのパンジャビに辿り着くも、そこから一気に中央アジアのラダックに駆け上ったのか上らなかったのか、また彼らの末裔の足跡の詳細も定かではない。しかし明らかにこのコクショーの民の顔立ちは、周りのラダッキやプリキーたちと異なる青色の瞳に高い鷲鼻を持つ民族だ。世界中の誰も注意を払う事のないこの伝説の民は、今やヒマラヤの奥地にひっそりと根付く野ユリとなった。
Saturday, 4 January 2014
Tuesday, 31 December 2013
6.ゲストハウスを作る。
当初予定は子供たちの小さな図書館を作る予定だったのだが、チクタン村にモラビアン・スクールが入ってきて状況が変わった。チクタン村の背には村人たちがプラタンと呼んでいる乾いて切り立った台地がそびえており、その頂上から一望できるチクタン村は圧巻で、グランドキャニオンを彷彿させる光景だ。プラタンの頂上にモラビアン・スクールが新しい校舎を建設する予定だ。そこに図書館も併設されるプランなので、僕が当初計画していた子供たちの図書館作りはモラビアン・スクールに任せる事となった。現在使われている校舎は前の学校から借り受けた古い校舎なので、モラビアン・スクールの子供たちは校舎の完成を心待ちにしている。今日はヨーロッパから来た測量士たちは、クリケットの試合が出来そうな程のプラタンの頭の土地を、あまりにも真っ青で広大な空の下、右に左に奥へ手前と忙しく測量していた。
Thursday, 26 December 2013
5.チクタン村の学校。
チクタン村のこの山間のズガン地区には小さな学校が二つある。ガバメント(公立)・スクールとプライベート(私立)・スクールである。この学校は隣同士仲良くならんでいる。
数年前初めてガバメント・スクールの方に顔を出したのだが、教室を覗いてみると学校の先生がいない。次の日も行ってみた。やはり学校の先生がいない。どうしたものか生徒たちに尋ねてみるとどこにいるのか分からないという答えが返ってくる。そして生徒たちはというとおとなしく自習をしている。僕はこんな学校の現状を悲観して、去年インターネットを通じてこの村の学校の現状を訴え
Sunday, 1 December 2013
4.そして東へ。
カルギルのバス・ターミナルを出発したシェア・タクシーは東へ向う。タクシーのほとんどが4輪駆動車で、悪路が多い山間の道では大変役に立つ。カルギルの街を背に徐々に標高を上げていく。高みから見下ろす街は、ヒマラヤの荒涼とした風景に佇む緑のオアシス。そのオアシスの真ん中をスル・リバーが静かに悠々と流れている。それは乾いた大地を潤す水だ。このスル・リバーはラダックの最深部、ザンスカールに続いている。
そして車は砂煙を巻き上げて走り続けている。カルギルの前面にそびえ立つ台地を登り切ると、そこは広く平たい緑に染まる農地が広がっている。台地の天井部分は、空に優しく包み込まれており、そして同時に目にはとても眩しくその引き締まった青さにも抱かれている。そんなヒマラヤの圧倒的な輪郭はきりりと強いが、しかしどこかはんなりと柔らかい光景の中を僕は進んでいく。
そして車は砂煙を巻き上げて走り続けている。カルギルの前面にそびえ立つ台地を登り切ると、そこは広く平たい緑に染まる農地が広がっている。台地の天井部分は、空に優しく包み込まれており、そして同時に目にはとても眩しくその引き締まった青さにも抱かれている。そんなヒマラヤの圧倒的な輪郭はきりりと強いが、しかしどこかはんなりと柔らかい光景の中を僕は進んでいく。
Friday, 15 November 2013
3.カルギルの街。
カルギルの街の朝は、タキを焼く匂いと通学の子供たちが行き交う雑踏で始まる。カシミール・ブレッドのタキは、小麦粉を手早くこねて平らに丸く広げ、凹凸をつけたのを、良く熱せられた大きな壷の内側に何枚も貼付けていく。数分でパンに火が通り、こんがりと焼けたパンの匂いが朝のカルギルの通りを漂っていくのだ。茶屋の主人たちはこのこんがりと焼けたのをまとめて仕入れるが、個人客でも一枚、数ルピーで買う事が出来る。茶屋はカルギルの街道沿いにたくさんあるが、行きつけの茶屋は、やはり一つとなる。茶屋の善し悪しは、入って味わうまで分からないが、そこが生涯の共となるのか、一回きりさよならとなるのかは、様々な理由が絡んでくる。茶屋のご主人の笑顔が良かったり、新規客なのに思いもよらずまけてくれたり、そこのタキが自分に合ったり、オムレツがとても美味かったり、またお茶の風味がとても良かったりといろいろある。カルギルの男たちは40を越えると目尻に深い人生が描かれ、みんな一様に田中邦衛のようないい顔になる。そんな僕が毎日訪れる常連の店は、やはり目尻に良い年輪が見えるおやじが店主の、小さいけれど、カルギルの下町を満喫できるいい店だ。出来立てのタキは、フライパンで手早く調理したオムレツに熱々のダル、またはミルスが付け合わせで出てくるので、一緒にちぎりながら少しずつぬぐうようにしてそれらをつけて食べるのだ。
Friday, 1 November 2013
2.更に北へ。
早秋のスリナガルの空港に降り立つ。雲は高く、日差しは強いが、空気はまとわりつかず、引き締まっていて、ところどころに秋の気配を感じさせる。友人のユスフが空港まで迎えにきてくれていた。しかし飛行機は3時間遅れの到着だったので、彼の表情も少し疲れているようだった。街を流しながらアパートに向うのだが、去年に比べて軍と警察の数が多いような気がした。装甲車も主要な交差点に配備されており、ちょっとものものしい雰囲気だ。その事をユスフに伝えると、彼はカフューズだと言った。要するにストライキだ。つい先日まで大規模なストライキがあったが、また近々大規模なストライキが始まるかもしれないという、もっぱらの噂だ。ストライキになると、戒厳令が敷かれ、商店はことごとく閉まり、アパートやホテルから一歩も出られない日が続く。カシミールでは日常だが、旅人にとっては、それは厄介なものだ。
アパートに到着して荷物を部屋に運び入れると、僕はさっそくこの近所に逗留している日本人に挨拶に行く。人物はこのアパートから5分くらい離れた場所にあるカシミーリの一家にお世話になっている。網の目路地を造り上げているハバカダル地区を行く。イギリス植民地時代からの古い家が押し合いへし合い、所狭しと立ち並んでおり、カシミールの下街たる顔を今の時代に刻み込んでいて、大変味わい深いところだ。扉を開けると人物は奥のダイニングにいた。人物のそのカシミールに関する博識は精緻を極め、情報はスリナガルだけに留まらず、またここでの遊び方も豊富に知っており、それはみな実の体験から来る物なので、いつ聞いてもワクワクするし、ほうと唸らせるものがある。僕はそこで翌日にランチタイムに再びうかがう約束をする。翌日その人物とその一家を交えてカシミール料理に舌鼓をした後、彼の運転するバイクの後部シートにまたがり、スリナガルの街を流す。メインマーケットのラルチョークは行き交う人々で活気を帯びていた。中には外国人観光客の姿も見かける事ができる。ダル湖にひっそりと浮かぶ知り合いのハウスボートでバイクは止まる。ハウスボート・オーナーの逗留する部屋の他に部屋が3つ程ある。人物はこのハウスボートにも部屋を借りていた。部屋の中には日本から持ってきた釣り竿がある。スリナガルにもけっこう釣り好きはいるようで、ラルチョークにあるジェラム川近くに数件の釣りショップを確認する事ができる。
アパートに戻るとユスフが明日にでもストライキが始まるかもしれないと言った。そんな情報があるし、そんな気配もすると言う事だ。僕は明日の早朝にさらに北上する決心をする。人物には、明日出発する旨を伝えた。
早朝の乗り合いタクシーはラダッキやカルギリーでごった返していた。しかし朝日に照らされたカシミールは気持ちよく、空気は良く澄み渡り、刈り入れがおわった田んぼの脇に、豊潤な稲がこがね色の輝きを放っている。カシミールの盆地や平野のアップリケ模様のフィールドは、ゴッホの絵のように眩しい色彩を放っており、漆喰塀に投影された遠い昔の映画のフィルムを覗き込むような感覚の、ざらついているが、どこか純粋で、何かある種の大切な心象風景が胸の奥から霧のように沸き上がってくるようだ。
アパートに到着して荷物を部屋に運び入れると、僕はさっそくこの近所に逗留している日本人に挨拶に行く。人物はこのアパートから5分くらい離れた場所にあるカシミーリの一家にお世話になっている。網の目路地を造り上げているハバカダル地区を行く。イギリス植民地時代からの古い家が押し合いへし合い、所狭しと立ち並んでおり、カシミールの下街たる顔を今の時代に刻み込んでいて、大変味わい深いところだ。扉を開けると人物は奥のダイニングにいた。人物のそのカシミールに関する博識は精緻を極め、情報はスリナガルだけに留まらず、またここでの遊び方も豊富に知っており、それはみな実の体験から来る物なので、いつ聞いてもワクワクするし、ほうと唸らせるものがある。僕はそこで翌日にランチタイムに再びうかがう約束をする。翌日その人物とその一家を交えてカシミール料理に舌鼓をした後、彼の運転するバイクの後部シートにまたがり、スリナガルの街を流す。メインマーケットのラルチョークは行き交う人々で活気を帯びていた。中には外国人観光客の姿も見かける事ができる。ダル湖にひっそりと浮かぶ知り合いのハウスボートでバイクは止まる。ハウスボート・オーナーの逗留する部屋の他に部屋が3つ程ある。人物はこのハウスボートにも部屋を借りていた。部屋の中には日本から持ってきた釣り竿がある。スリナガルにもけっこう釣り好きはいるようで、ラルチョークにあるジェラム川近くに数件の釣りショップを確認する事ができる。
アパートに戻るとユスフが明日にでもストライキが始まるかもしれないと言った。そんな情報があるし、そんな気配もすると言う事だ。僕は明日の早朝にさらに北上する決心をする。人物には、明日出発する旨を伝えた。
早朝の乗り合いタクシーはラダッキやカルギリーでごった返していた。しかし朝日に照らされたカシミールは気持ちよく、空気は良く澄み渡り、刈り入れがおわった田んぼの脇に、豊潤な稲がこがね色の輝きを放っている。カシミールの盆地や平野のアップリケ模様のフィールドは、ゴッホの絵のように眩しい色彩を放っており、漆喰塀に投影された遠い昔の映画のフィルムを覗き込むような感覚の、ざらついているが、どこか純粋で、何かある種の大切な心象風景が胸の奥から霧のように沸き上がってくるようだ。
Thursday, 31 October 2013
1.ムンバイへ。
早朝に秋の気配が色濃く残るスリランカを飛び立って数時間後、僕は熱気と喧騒で潤む街、ムンバイの空港に降り立った。次の便まで21時間待ち、さてどうしようかと途方に暮れながら空港の前のカフェでお茶を濁していると、入れ替わり立ち代わり様々なホテルのポン引きが声をかけてくる。空き時間、ホテルで休むのもいいだろうと思っていたが、彼らが提示する金額は予想以上に高く、僕も次から次へと断っていた。ムンバイは結局の所、まともなホテルは先進国の人々向けなのだ。スリランカでは一ヶ月日本円にして千円以内で過ごしてきた僕は、一泊するだけで数ヶ月分の生活費が飛ぶことにとても躊躇していたのだ。
